物音を聞いて部屋にきた両親が、パニックになって過呼吸を起こしているわたしを慌てて落ち着かせてくれた。時間は要したが呼吸を整えることができるまで落ち着いたわたしは、しかしそれでも言葉を詰まらせ溢れ出てくる涙を頬に流しながら、「足に力が入らない、足がなくなったみたいに動けない」と恐怖に苛まれいっぱいいっぱいになった頭と心で事の顛末を伝えたのである。
両親はわけがわからないと言った状態でわたしの話を聞いていたが、当の本人であるわたしもわけがわからないし、どうすればいいのかわからない。
急遽、救急車で大きめの病院に搬送されることとなり、人生初の車椅子に座る羽目となった。自分が思ったよりも騒然としてしまったのには罪悪感を募らせたが、それよりも今まで普通に過ごしていたのにいきなり足が動かなくなったことへの不安や未知の病気への恐怖がわたしを支配する。
お医者さんに症状を伝え、わけのわからないたくさんの検査を受けさせられたが、何一つとして悪い箇所はなかった。原因は結局わからず終い。
挙句の果てには全ての検査を終えた頃に足がまたいきなり動くようになり、病院内でみっともなく転倒して笑われてしまった。病名すらつけられず、"寝起きで力が入らなかっただけだろう"などという粗末な結果に、わたしの胸中はもやもやとしたものでいっぱいになる。こんな恥ずかしい思いをした上に、さっきまでの恐怖や不安を思い出してまた泣いてしまうわたしに、両親は「何もなくてよかった」と慰めてくれたが、心の中は全くと言っていいほど晴れはしなかった。帰りの車中で両親は――わたしがパニックになって取り乱す姿を見ていたからか――わたしを慰めはすれど責めることなどしなかったのが唯一の救いとも言える。
帰宅してからも気を回してくれる両親に感謝の気持ちと多大な罪悪感が湧いた。
△ ▲ △
――翌日、わたしは結局胸の中の蟠りは晴れないまま、朝を迎えることとなる。
夢の中には相変わらず例の男性が現れたけれど、今日はただじっとわたしの様子を伺うだけで話すことも何かをすることもなかった。若干の居心地の悪さを覚えるも、近づいても話しかけても来ない男をたくさんの場面の中で見るような、ともすれば薄気味の悪ささえ感じさせるような夢だったのだ。男にたくさん聞きたいことがあっても、聞けぬまま終わる。昨晩の足のことといい、夢の中といい、今日は靄々することばかりで一日憂鬱な気分で過ごすことになりそうだ。
違和感すら訴えることもない――普段と何も変わらぬ己の両足に対して疑問は深まっていくばかりで、やっぱりわたしは何か大きな病気をもっているのではないだろうかとすら自分を疑ってしまう。ただ、検査上では何も悪いところはなかったから何とも言えないけれど。
「あら、おはよう名前」
「おはよう」
「足は大丈夫?」
「あ、う、うん」
心配する母親に苦笑い気味に答えるも、わたし自身すらも不安は消えないので上手く笑うことは出来ない。母親は怪訝な顔つきでわたしを見るけれど、この目はどういう目なのかわからなかった。ただ、それでもわたしの足が昨夜動かなかったのは事実で、パニックで取り乱して涙を流すわたしを両親が見たのも事実。演技なんかではなかったことはわかってもらえただろう。あんな演技なんて、わたしには出来ない。
朝食を食べ、大学に行く支度をする。今日は午前中だけの講義だから、午後は家に帰ってゆっくりしよう。昨日のことも自分の中でしっかり整理したい。終わったら、あの神社に行きたい。あそこに行けば、少しでも救われる気がするから。
△ ▲ △
朝の通学路は何も変わらない。
昨夜の不可思議な事象もわたしには説明がつかないままで、騒ぎは一変して静かな朝の日常に変わっている。普遍的な現状が変わることは一生ないだろうと思っていたのに、昨夜で何かが変わってしまったように感じていた。それは、果たして日常なのか――はたまたわたしなのか知れずにいる。
胸につっかえたままのわけもわからないモヤモヤは、先日目の前にした不可思議な現象のせいなのだろうか。
トボトボと大学に向かう道を歩いていると、鳥居の下で箒を動かす沖田さんの後ろ姿を見ながら、挨拶をしようと声を出す。
「沖田さん、おはようございます」
振り向いた沖田さんはわたしの姿を一瞥して、それからもう一度わたしの顔をじっくりと二度見した。何だろうと思って小首を傾げると、箒を投げ捨ててわたしに向かって歩いてくる。
その顔は嫌に真剣で、此方が気後れするくらいの圧を感じた。
「着いてきな」
わたしの手首をがっしりと力強く掴む手。跡が残りそうなくらいの力の強さに「痛い!」と非難の声をあげるが、お構いなくわたしの腕を引っ張って神社の中に連れて行かれた。
わけもわからないまま着いていくわたしは、脳内に疑問符を浮かべて困惑する。
丁寧に管理された参道を真っ直ぐと歩いて行き、手水舎を超え、神門すらもお辞儀なく通り過ぎた。神様になんて罰当たりな参り方だろう。ただ、参道はちゃんと端を通っているあたりは沖田さんの礼儀正しさを感じる。慌てふためくわたしを他所に沖田さんはわたしを拝殿に取り残すと中へと入っていく。中は本殿だろう。入ってみたい気持ちはあるものの、流石に失礼すぎる。
ただただ1人ぽつねんと取り残されて、しでかしたことを考えた。然れど思い当たる節は全く無く、不安だけが胸中を占める。怒られるのだろうか——でも、何について?怒られる原因が一切思い浮かばない。
拝殿の中から見える御神木を眺めながら、遠くから聞こえてくる小さな足音に心臓がドクリと脈打った。緊張感が身体に走る。何もしていないはずなのに、何かしたような錯覚さえ味わってしまう。更なる不安が胸中を占める。
「いやあ!待たせてしまってすまない!君が名前ちゃんだな」
「は、はあ……」
「総悟から聞いてるよ」
沖田さんと共にやってきたのは、厳つい見た目をした豪快に笑う男の人だった。厳つい見た目に反して、この神社の神主をしている近藤さんは、ひどく優しい人だというのを知っている。
優しく問いかけるように話してくれる様子を見ると、自分の警戒心が少しだけ和らぐような気がした。
「いやー。はは……物の見事に憑いてるなぁ、君」
苦笑いを溢したその人は、頬を一度掻くと「少し話そうか」と沖田さんと共にわたしを拝殿から離れた一軒家へと案内してくれる。その家自体は特に至って普通だが、本殿とは離れた場所にあるから少し鬱蒼としていた。
雰囲気に呑まれそうになってるわたしに「怖いですかい?」と聞いてくる沖田さんに頷くと、近藤さんはまた豪快に笑う。
「本殿の方に力を入れてしまってね、こっちは余り手付かずなんだ」
「俺がやるって言っても聞かねぇんでさぁ、この人」
戯けた調子で語る2人に碌な言葉も返せず、曖昧な返事をする。この調子でわたしは何を話されるのだろう。臆する心は解けることもなく、一軒家へと入って行った。
▲ ▽ ▲
通されたのは普通の和室だった。高値そうなものがあるわけでもない普通の和室に置かれたローテーブル。神主である近藤さんと沖田さんの対面に座るよう促されて、教科書やプリントが入ってる重いリュックを隣に置いて座布団に座る。
彼らの座る縁側の背後で何か黒い靄のようなものが見えたけれど、きっと気の所為だろうと思うことにした。
「さて、改めてこうやって対面で話すのは初めてだったかな?」
「えぇ、まぁ……はい」
「君はいつも挨拶をしてくれるからね、トシも悪い気はしてないだろう」
「トシ?」
「あぁ、気にせんでください。どうでもいいヤツの話なんてする時間なんて今ねぇんでさァ。近藤さん、続きを」
「相変わらずお前はトシに手厳しいなぁ……」
苦笑いを浮かべる近藤さんと毅然とした態度のままの沖田さんは、見ていてなんだか微笑ましかった。お父さんと息子、というよりはお兄ちゃんと弟のような。そんな存在に見える。
「さて、名前ちゃんは神様というのをご存知かな?――あぁ、いいや。言い方を変えよう。神様は信じてる人かな?」
「え?神様ですか?……まぁ、そうですね。試験前の時とか、試験終わりの時とか神様に祈るので信じてるんだと思います」
「ハハッ!!うん、それは学生として何よりだ。そういう時は藁にも縋る思いだろう」
「は、はい……。えっと、それとわたしがここに連れてこられた理由って?」
ピリッと、何処か空気感が変わったのを感じた。朗らかな空気は今までにない異常に一変して冷たくなる。冷や汗が背中を伝って、わたしの腰を更に正していく。
何故だろう――そう考えるのは、野暮なことのように思えてしまった。
「君、何処かの神社によく行ったりするかい?」
「え?神社ですか?えぇ……まぁ行きますけど」
「その神社はどんな神社だい?」
「大学のそばにある神社なんですけど……その、若干寂れてるというか……」
わたしの言葉を聞いてため息を吐いたのは沖田さんの方だった。一体この言葉が彼の何の琴線に触れたのかはよくわからない。ただ、隣に座る近藤さんは少し険しい表情をしていて、「やっぱりか……」と呟いたのは、わたしの耳にもしっかり届いていた。
沖田さんの盛大なため息と、近藤さんの言う「やっぱり」の意味がわからないわたしは頭に疑問符を浮かべるばかり。現状が把握出来ていないのは、ここにいるわたしだけだった。
「単刀直入に言うと、名前ちゃん。君には神様が憑いてる」
「つ、つい……?」
「憑いてる、というよりも最早魅入られてる状態だ」
「アンタ、最近身体に不調はねぇのかぃ」
沖田さんの言葉に小首を傾げながら、思いつく限りのことを話す。と言っても、それが一体何に関係があるのかも正直言って理解出来ない。
「え、不調……って、ここ最近眠いのと……昨日、脚が動かなくなった……かな」
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜」
これまた盛大なため息を頂戴してしまった。そんなにため息をつくと幸せが逃げてしまう、なんて場違いなことを思いつつも、それをさせてしまっているのはわたしなのだと思うと肩身が狭くなる。
「兆候現れてんじゃねぇか……。アンタ、それどうしたんです」
「昨日、病院行って……でも原因がわからないままわたしの脚も動いたので、まぁいいかなって」
「気楽に過ごすのはいいことだが、それがその神様が原因だったとしたら?」
「え」
それは考えてもみなかった。そもそも、誰が一体――神様が原因なんて考えるだろうか。どう考えたって隠れた病気を疑うに決まってる。少なくとも、わたしにはそういう知識も何もないのだから、病気でしか考えられなかった。この二人は神職に就いてるのだから、そういうのを考えなくもないのだろうけれどわたしは違う。根本的に考え方が違うのだ。
「神様って……普通憑いてるならいいものじゃないんですか」
「魅入られてるんだよ。あちら側に連れて行こうとしているんだ」
「あちら側って?」
「アンタがわかるように言うなら、神様のトコロってやつじゃないですかねぃ」
一般人のわたしにもわかる言い方をしてほしい。
――先ず、第一に神様が憑いてて悪いことがあるのかということ。
――第二に、神様のトコロって何処?
――それから、どうしてわたしを神様が魅入ってしまったのかということ。
わたしはただの一般人でしかない。特別な人間でも目の前の二人のように特殊な職には就いていない。ただの、何処にでもいるような大学生だ。そんなわたしが、神様に魅入られるとは、どういうことだ。わたしは徳を積むような善行をするような人間でもない。たまには悪いことの一つや二つだってする。大学をサボったり、とか。
そんななんでもないただの一般人の大学生如きのわたしを神様が見初めるなんてことがあるというのか。
「間抜け面だこって」
「だって、わけがわからない」
「神様だって一人の人間のようなもんだ。神様同士で繋がり合うわけじゃないんだよ。その中にお気に入りの人間だってお作りになられることもある」
「それが、わたし?」
「端的に言うなら、そういうことになる」
それはそれとして、じゃあ何をすればいいの?魅入られることの問題は?
「ええっと、ごめんなさい。本当にわけがわからなくて。神様に魅入られることの問題って?わたしはどうなるんですか?」
「……要は、人間でいうところの死だよ」
「え、わたし……死ぬんですか?」
突然の余命宣告を受けた気分だ。ここは病院かどこかですか?やっぱりわたしは病気なの?『死因:神様』なんてどう考えたってギャグでしかない。寧ろ笑えないぐらいの内容だ。あんまりにも不謹慎極まりない。普通なら、そんなの冗談でも書いちゃいけないじゃないか。なのにそれが本当になってしまう?そんなの真っ平御免すぎる。
「それか、巫女にでもなるかだな。その神社の」
「わたしが巫女?なる気なんてないです」
「ハハ、一喝だなぁ」
「どうにかならないんですか?他にもっと、何かこう……お祓い的な」
わたしの言葉に近藤さんは今度は苦笑いを浮かべた。沖田さんは相変わらずわたしの間抜けさに呆れて言葉も出ないようだった。
でも、わたしは何も間違っちゃいない気がする。そんな悪霊染みたことをする神様なんて聞いたことない。それって、言ってしまえば祟りのようなものじゃないのか。よくあるホラー映画のような、そんな架空の話の中の出来事でしかわたしには感じられないのだ。
「障れませんぜ。神様に手を出したとあっちゃあ、こっちが何をされるかわかったもんじゃねぇや」
「すまない……。俺たちも君の力になってやりたい気持ちは大いにあるんだが……君のそれは、どの霊媒師であってもきっと断られてしまうだろう。神様が相手となってしまっては、経過を見るしか出来ないんだ」
じゃあ、どうしてわたしをここに連れてきたんだ!と怒鳴りつけてやりたい気持ちになる。だって、その通りだろう。わたしをわざわざ此処まで呼びつけておいて結局何も出来ないから経過観察?昨夜の病院と対処は何も変わっちゃいない。
わたしは、このまま死ぬしか……ないの?
実感が湧かない。そもそもいつ死ぬかもいつ何が起きるかも人間なんてわからないものなのに、それが全て神様が原因で、死因ですらも神様なんてお伽噺じゃないんだから。
対処も何も思い浮かばないわたしは、ただただ空笑いを零すだけしか出来なかった。神職の方々に断られた時点で、対処もなにもないのだ。ただ、何も出来ずにわたしは神様のお嫁さんになってしまう。しかも、人生を半分も謳歌していないのに。
どうしてそれがわたしじゃなきゃ駄目だったのか、わからない。更に言えば、急に余命宣告みたいなものまでされてしまって。両親になんと話せばいいのだ。脚のことだって、いつ死ぬかもわからない身なんて。
――きっと両親は、「そんなの騙されてるだけだ」って言うだけなんだろうな。
突如として浮上してきた内心に、何処か諦観の念がわたしの中に現れているのがわかった。もうどうすることも出来ないのなら、わたしが何をしたって、無駄なのかもしれない。
二人に礼を言い、教科書の入った鈍器のようなリュックを背負う。
――もし、もしわたしが……今、何かすることができるのだとしたら。
それは、あの神社に行ってお願いをするしかないかもしれない。そう思ったのだ。立ち上がるわたしに慌てた様子の近藤さんにもう一度お礼とお辞儀をする。沖田さんは、ただわたしの様子を静観しているだけだった。
縁側の障子を開け、廊下に昨夜のことが嘘みたいに元気な足を踏み出す。その時、今まで気配の一つも感じさせやしなかった黒い人影が目に入り、足をとめてしまう。
その人はショートの黒髪に黒い着物という出で立ちの男性で、鋭い目つきと、これまたハイカラに煙管を吸っているのが何とも印象に残る方だった。
この神社の方だろうか?この普通の一軒家では、あんまりにもミスマッチしすぎていて思わず立ち止まってその様子を伺ってしまう。
伏目がちだった鋭い目つきが、キッとわたしを冷たく射抜く。いいや、違う。正確に言えば、わたしの
「あいつらの言う通りだな。お前はとんでもねぇ野郎に目をつけられた――狐だよ」
「きつ……ね?」
「あぁ。狐っつーのは嫉妬深い。執着心も相応だ。出来れば、早くお帰り願いたいところだな」
最初の印象で言えば、多分、この人は最悪なんだと思う。無理矢理連れてこられた客人に対して言う言葉じゃないだろう。少しムッとして、それからあんまりにもわたしの
途端、わたしは目を丸くすることになった。――だって、夢の中で何度も見ていたその人が見えたから。だけど、それは一瞬のことで鈍く光って消えたのだ。まるで、煙のように。
ただ、それでもわかったのは今までで見たこともない表情をしていたことだけだった。まるで、怒っているかのような、そんな表情。
その瞬間、背筋にヒヤリとしたものが走った。
――ここに居てはいけない。
礼もお辞儀もせず、振り返ることもなくわたしはただ駆けた。あの男性には失礼なことをしたかもしれないが、わたしも失礼なことを言われたのだからおあいこだと思いこむことにした。そんなことよりも、早くこの神社を出ないといけないと感じたから。
幸いなことに男性は追いかけてくるようなことも、況して声をかけてくるようなこともしては来なかったのだから、きっと何も思ってはいないはずだ。寧ろ、言葉通り「早く帰れ」とすら思っていただろう。
大学のことなんて、昨夜の両脚のことなんてもうその時には頭になかった。ただ、早くあの神社に行かなければ手遅れになるようなそんな気がしたのだ。
2023.01.29
