
とお
久しぶりにこんなに長く走ったものだと思う。大学に入ってから、運動という運動は遅刻ギリギリの時ぐらいなものだったから。荒くなる息と止まった瞬間に首元に伝う汗が少しだけ気持ち悪いけれど、無我夢中すぎて苦しさなんかは感じなかった。ランナーズハイってこういうものなのかな。
行き慣れた神社の前で足を止める。未だ荒い吐息なんてそのままで足早に鳥居を潜った。相変わらず手付かずで荒れたままの神社は何処か寂しくて、それと同時に何故かひどく落ち着いてしまう。いけない、このままじゃ――今日は、お断りをしに来たのだから。
境内の前に立ち竦んで、小銭を取り出す。神社に詣る時の礼儀作法なんて今回は素知らぬフリをした。十円玉をなるべくソッと入れ、鈴を鳴らす。力一杯両手を二度叩いて心の中で祈った。
――神様、わたし、まだ死にたくはありません。
どうか、どうかわたしは諦めてください。わたしは神様のお嫁様にも巫女にもなれません。
此処はすごく落ち着くから、好きなんです。静かで誰も寄り付かなくて、だからこそ間借りさせていただいていただけなんです。ごめんなさい、勝手なお願いなのはわかっています。
神様、お願いです。わたしのことは諦めてください。お願いします。
たったそれだけのことを祈るだけなのに、ひどい時間を労した気さえする。何度も言葉に詰まって、果ては言葉すら忘れそうになってしまった。それでも何とか諦めてもらえるように祈りを込められるだけ込めたと思う。これで諦めてもらえるかは知らない。だって、人間ですらフラれて容易に諦められるかわからないもの。それでも、わたしは死にたくなかったから――。
ホッと息を吐いて合わせていた両手を離し、境内の階段に座り込む。
急激に耐え難い睡魔がわたしを襲い、どんなに抗っても抗えないまま、わたしの瞼は下りていく。
あぁ、嘘……今は、今は駄目。何とか抗って神社から出ようと身体を動かしたくても動かすほどの気力がなかった。それよりも勝る強い睡魔は、どう考えたって疲れだとかそういったものできてるものじゃないことは、一目瞭然だ。
今となっては、全てが仕組まれていたことなのかもしれない。此処に来ることも、彼らのいる神社で言いようのない恐怖を感じたことも、全てが全て。計画的なものだったのだとしたら。
わたしは神様に見合うようなたいそれた人間でもない。だからといって、それをお断りしていいほどの器の人間でもなかったのだ。
下りていく瞼と共に落ちていく意識の中で、階段の一番下に立つ誰かの足が見えた気がした。
△ ▼ △
玄関の外は暑かった。然れどその暑さに反して風だけは冷たくて、火照る頬が冷やされていくようで心地が良かった。
家の中に居ても暑いままなら、このまま外にいる方がいいとさえ思ってしまう。長袖の服の裾を捲くりあげて、マンションの廊下に立ち尽くす。ここは居心地がいいから、家に入る気も起きない。
ただ呆然とマンションの廊下に立ち尽くしているのは、普段なら出来ないことだからひどく愉快な気持ちにすらなっていたのだと思う。本来なら、変な人だ。こんなの。
だけど、きっとこのマンションはわたしの知ってるマンションとは違う。この扉は、わたしの家に繋がってなんかいない。事実、見知らぬ階段やエレベーターの配置があちらそこらに配置されていて全部がグチャグチャだ。
「ねぇ」
だからこそわかる。これは、全てが作られた舞台。
――わたしと彼だけの、世界。
「流石に気づくか」
「わたし、貴方のこと何も知らない」
「何度も言うが、いつかわかることを何度も聞かれても俺ァ答えるほど優しい人間じゃねぇよ」
「名前すら教えてくれないじゃない」
「……お前は、すぐ忘れるから――」
一際強く風が吹いて、雨がポツポツと降り出すのが視界の端にチラついた。言いかけた言葉の先はわからない。風の音にかき消されるほどの小さな声音は、当然の如くわたしの耳に届くことなどないまま、会話は終わった。
彼の隣は不思議なぐらい落ち着く。両親よりもどれだけ仲のいい友達であるお妙ちゃんの隣であっても、彼ほど隣が居心地いいと思える人はいないのだろうと思う。
――だけど、わたしは断らなきゃならない。
「わたし、お答えは……」
「言うなよ」
「え」
「……面と向かって言われちまうと、流石に傷つくっての。俺も」
今まで見ていなかった彼の顔を思わず見上げてしまう。眉を下げて力なく笑うその表情は、明らかに傷ついていてツキンツキンとわたしの胸が痛みを訴える。そんな表情、見せないでほしい。どうして顔を見上げてしまったんだろう。そんな、人間みたいな表情はズルイ。
思い返すと、神様も人間のような恋をする――そう言われた記憶が蘇ってくる。この人も、人間のように人に恋をしただけで、それがわたしなだけだなのだ。
こんなに素敵な『神様』に――いいや、『人』と言うべきだろうか――わたしはきっと勿体ない。わたしのちっぽけな器でこの人を愛するべきではない。
罪悪感に襲われてしまうのを、彼の顔から目を反らす。足下が崩れ落ちる感覚がして、それから一気に浮遊感に襲われた。瓦礫がバラバラと崩れていき、わたしと彼は二人落ちていく。
「落ちてる!落ちてる!」
「安心しろよ、名前が目を覚ますだけだから」
慌てるわたしに反して落ち着いた声音の彼は、地面に今落ちようとしているにも関わらず無表情でわたしをぐっと引き寄せる。彼の腕はひどく温かくて、抱き締められているのに拒絶なんか出来なかった。
頬に触れる生温い指先を拒むこともせず、瞼を下ろすと口唇に当たる少し硬めのカサカサした感触が合わさる。キス、しているのに。どうしてもわたしはこれを拒めない。
嫌じゃない。
長い浮遊感と温かな腕の中はまるで揺り籠のようで、ただただ悲しかった。あゝ、どうか――この神様に、わたしのような生温い人間ではない優しい誰かが寄り添いますように。
そして、いつか彼の寂しさや切なさが何もかも拭われますように。
最初で最後のキスは優しくて温かくて、だけど落ちていくという突飛な状況が何もかもチグハグでわたしと彼のようだと思った。
△ ▼ △
瞼を開くとそこは夕焼け色に染まった神社の境内で、木々の合間から差し込む光がまるで夢の中の彼のように儚くて。わたしはただただ呆然とその場に座り込むだけだった。
――きっと、これで終わったのだ。
わけもわからない悲しみの渦に飲まれて、溢れる涙を拭うこともせずに階段の柵に凭れ掛かり、夜になるまでわたしは静かに泣くだけしか出来なかった。
△ ▼ △
今日は大学も疲れて行くことが出来なかった。とぼとぼと重たい荷物を持ちながら帰路に着くことの気怠さといったら。あれからずっと一人泣いていたのだから仕方ないのかもしれないが、泣き疲れとはこういうことをいうのだろうか。目元が腫れて痛みすら訴えている。
早く布団に寝転がりたい。きっと母は晩御飯を用意して待っているだろうけれど、正直食欲もそんなにない。適当に理由をつけて、さっさと風呂に入って寝てしまうのが得策だろう。
マンションの玄関で足を止める。改めて全体を見ても、やっぱりあの時の夢のマンションはわたしが知っているわたしの住んだマンションとは似ても似つかない。階段の位置だってエレベーターの位置だって可笑しかった。まるで欠陥住宅みたいなマンションは、一体どうして生まれたのだろう。
マンションのオートロックを開けてロビーに入ると、慣れた場所のはずなのにまるで別世界にいるようで違和感を拭えなかった。ここは本当にわたしの住んでいる場所なのだろうか。
長年住んでいる場所ですらも別世界に感じるようになってしまっているわたしの頭が可笑しい筈なのに、世界がまるっと変わった様子で怖くなった。
早足でエレベーターに駆け込む。エレベーターは閉鎖空間だ。完全に、密室。わたし一人しかいない筈なのに、隣に誰か居るような不思議な感覚を味わっている。もう何もかもがチグハグに出来ていて、然れど可笑しいのはわたしなのが堪らなく嫌悪感に見舞われた。
――狂っている、何もかもが。
わたしの隣に誰かが居ないことも、あの温もりも――全てがないものとして扱われる。それがひどく怖かった。元より居ない人なのだからそれが当たり前なのに、わたしはあの感触も温もりもあの人の傍にいることの心地よさも忘れられないまま、彼から去ってしまったのだ。
もし、本当に――彼が人であったなら。わたしと同じ人間であったのなら、何もこんな苦しまないで済んだのだろうか。
ありもしないことを考えながら、玄関の扉を開ける。普段なら「おかえり」と言って出迎えてくれる母は居なかった。買い物でも行っているのだろうか?感傷的になり過ぎていて、今は一人でいることに寂しさが募ってしまう。
リビングを通り過ぎて自室へと入る。落ち着くはずの自室は、マンションのロビーと同じように別世界に感じて落ち着かない。地に足がついていないようにふわふわした感覚で荷物を適当に放り投げてベッドに倒れ込むと、ゆるりとした微睡みが襲ってくる。
このまま意識と手放して眠れば、また彼に会えるのだろうか。それとも――。
あんなに不気味に思っていた彼がひどく恋しかった。あの表情をさせたのは間違いなくわたしなのに、今更後悔してしまっている。別れのキスは優しくて温かくて、どうしてもっと早くにわたしはこの人のことを知ろうとしなかったのだろうかとすら考えてしまっていた。
フッたほうがこんなにも精神を摩耗させるなんてどうかしている。
神様という存在でなければ、彼が人間であったとしたら、何か変わっていたのだろうか。わたしの気持ちも、彼と向き合うことが出来たのだろうか。
何度もぐるぐると考えてはため息をついてばかりで何も変わらない。もう終わったことなのだ。どこまでいっても、わたしが考えるのはたらればの話に過ぎない。
玄関の扉が開く音が聞こえて、母がわたしを呼ぶ声がする。微睡みの中聞こえてくる声に呼応することも出来ず、下りてくる瞼に逆らうこともなく意識を手放した――。
△ ▼ △
マンションのロビーはこざっぱりとしていて、人が疎らに出ていくだけだった。何も変わらないはずの、わたしが住むマンションのロビーなのに、彼は自動ドアの前にただ立ち尽くしている。
わたしを見て手を振った。それが嬉しくて、わたしは駆け足でオートロックのことすら忘れて玄関まで会いにいく。
「もう来てくれないかと思ってた」
「そりゃあんなに泣かれりゃ心配にもなる」
「だって、本当にお別れみたいで」
わたしの手を包み込む彼の大きな手が安心する。
「散歩でもすっか」
「うん」
2人並んでマンションの自動ドアを潜り抜ける。外に一歩足を踏み出した時、音もなく後ろにあったはずのマンションは崩れて消えた。「え」と一言出した時には、もう遅かったことに気付く。
目の前がグラグラする。視界がぼやけるようになって、フラついて立つことも出来なかった。
崩れるわたしを支えた逞しい腕は、わたしをしっかりと抱えて離すことはない。
「ようやく、手に入れた」
「え、え?」
「いやあ、中々出てくんねーからさ。どうしようかと思ってたんだよ」
「待って」
「お別れ?するわきゃねーだろ、そんなもん。離すつもりなんざ更々ねぇよ」
目を細めて口角を上げる彼は、先程までの弱々しい姿とは裏腹に勝ち誇った笑みでわたしを見つめる。狼狽するわたしを他所に話を進めていく彼は、あんなにも焦がれた彼だったのだろうか?
「そうそう。神に祈る時には住所と名前も一緒に祈った方がいいぜ」
「どういう……」
「神様も人間なんでね。……っつっても、俺は人間でもなんでもないんだが」
彼の背後から出てきた九尾と頭から生えてくる獣の耳に目を丸くした。うそ、うそ、——うそ。
「きつ、ね」
「え、なに。忘れられてんの?今日聞いたろ」
「貴方、でも、え」
身体を離して一歩後退るわたしにくつくつと妖しく笑う彼は、狐。狐、狐……そういえば、と脳裏に思い浮かぶ黒髪の男性。あの人が、狐と言っていたはずだ。
「狐を嫉妬させると怖いことになるぜ、名前ちゃん」
狐の形を手で現して、わたしの口唇に指先を当てる。——ああ、そんな。まさか、わたしは……騙されていた?
嫌な考えが頭を過ぎる。五感全てが研ぎ澄まされたように感じて、冷や汗が伝う感触も口唇に当たる指先も全てがハッキリとわかってしまう。「これは夢だこれは夢だ早く目覚めろわたし」と何度も頭で考えても、何もかもがもう遅かった。
「夢じゃねぇよ、現実だ」
「そんな……」
「ああ、そうそう。俺の名前は銀時」
「え、ちょっと!」
わたしの手を一方的に握り締めて歩いていく彼——銀時に声を荒げる。振り向いた彼の表情は、途轍もなく愉快そうだった。
「お前が知りたがってたんだろ?」
わたしにお構いなく歩き出すその後ろ姿は機嫌良く、嬉しそうに笑う表情がひどく恐ろしい。
わたしはこれからどうなるのだろう。娶られるのか——はたまた、喰われるか。或いは、そのどちらなのか。
いずれにせよ、わたしにもう人間としての生はどこにも無い。
底の知れない執着心の行き着く先は、幸か不幸か。
2023.01.31