
ななつめ
心に荒く揺れる波は、次第に穏やかな流れへと変わっていて。わたしは、平穏を取り戻す。それが、なんらおかしいことでもないかのように。
それが日常であるというのかのように、わたしはここに足を運ぶのだ。
わたしはもう――この時点でおかしくなっていたのかもしれない。
何度も何度も脳内に響くのだ。――「おいで」。あの、夢の中で何度も聞いたであろう低い声が。聞き慣れないはずの声が、今ではもう聞き慣れた声へと様変わりしていた。
神社の前を通れば、呼ばれているような気さえして。ついつい、足を踏み入れてしまう。
最初は、ひどく怖かった。だけれど、今ではそれさえも感じなくなってきて。
大学すらも早退して足を運んでしまうなんて。通常から考えれば可笑しな事であるというのに。それすら疑うこともせず、また何度もここに来る。
会う人がいるわけでもない、用事があるわけでもないのに。
どうして最終的にはここに来てしまうのだろう。行き道だって、帰り道だって、必ずここを通るように道を選んでしまう。
考えたって、答えは単純だ。「ここに、来たいから」。そう思うことが当然であるかのように。普通であるかのように。
誰かに仕向けられたものであるなんて、その時のわたしは思いもしなかったのだ。
――これは、わたしの意思で来ているのだ。
誰かの意思でもない。わたしの意思。わたしの思い。
そうやって、毎日毎日足繁く通う。
傍から見れば、わたしの気が狂ったと思われそうな行動なのに、わたしはこれを何もおかしいことだと思えない。
――いや、思わなかったのだ。
▼ △ ▼
「あり。苗字さん、大学はどうしたんで?」
結局、大学すら早退し、講義も受けない罪悪感に苛まれながらも件の神社に向かった後。
帰路についたわたしは、今朝も挨拶を交わした沖田さんに会ったのだ。沖田さんはその円な瞳を更に丸くして、わたしを見る。
「あ……その、ちょっと体調悪くて」
「へぇ。そりゃ、お気の毒に」
何処か今朝と雰囲気の違う沖田さんに、何故か気圧されてしまって顔が見れない。
嘘を吐くことの後ろめたさに居た堪れなくて、わたしはこの場から逃げたくなった。
「じゃ、じゃあ」
「ところでねィ、苗字さん」
早々に切り上げて帰ろうとするわたしに、沖田さんは話を続ける。
「アンタの寄り道って、そんな頻繁にするもんなんですかィ?」
ゾッとした。だって、寄り道の話なんて。今朝一回だけしかしてない。それに、そもそも沖田さんに会ったのは今朝と、今この時だけなのに。
動揺して言葉を詰まらせるわたしに、沖田さんはキレイに笑う。それが何処か作り物臭くて、ひどく恐ろしかった。
「……ま、いいや。忘れてくだせェ」
そう言って去っていく沖田さんが、よくわからなかった。
一体何故。どうして?そもそも寄り道の場所を、わかっているの?
頭の中がぐちゃぐちゃで、早く帰りたくて仕方なかった。もう、眠りたい。
▼ △ ▼
「どう思います?」
「……どうもクソもねェだろ。しっかり憑いてんじゃねぇか」
苗字さんという女は些か不可思議な女ではあった。挨拶を交わしてもピクリとも笑みを零さず、ただただ単調に話す姿はさながらロボットかそれこそマリオネットのようであると、俺自身は思っていたのだ。
表情筋でも死んでんのか。稀に思うことがある。
己自身も表情豊かな方ではないと思ってはいるが、彼女ほどの無表情ではないだろう。
至って落ち着いた態度と些か小さな声音に、いつしか目が離せなくなった。
しかし、勘違いをしないでほしい。これは、恋情だとかそういう浮ついた気持ちではないということを。
どちらかと言えば、そう、多分――彼女の身を案じる気持ちに近い、というか。
――最初こそは、よくわからなかった。
ただ、怯える小動物を虐げたいという己の本能にも近い感情からくるものなのかと思っていたくらいだ。
しかし、徐々に挨拶を交わす回数を増やし世間話をする仲にまで持ち込んでいけば次第に理解するようになった。――これは、そういったものじゃないと。
彼女の背後に居座り続ける狐の尾が、それを物語っていた。
「しかし狐か、あの女面倒なモンに魅入られたな」
己の背後に佇む黒髪の男が言う。その表情は、何処か険しいものがある。
「アレはもう無理だろう。総悟、お前が何を思っているか知ったこっちゃねぇが……諦めな」
この男に何がわかるというのか。何も、自分は彼女を助けたいだとかそんなことを思っちゃいない。
ただ、彼女の身を己以外にも――近藤さんですらも案じているというのだから、それだけが解せないだけなのだ。
ただ、それだけなのだ。
2018.11.03