春風駘蕩





桜の花弁が舞う頃、愛しい人と隣を揃って夜道を歩いた。
星が散る夜空に、照明で照らされた桜の木々たちがわたし達二人を出迎えるようで、幻想的なその光景に感嘆の声を上げる。隣を歩く尾形は何も言わなかった。

「お花見の時期だねぇ」

わたしだけが一方的にぺちゃくちゃと喋っているけれど、わたしの言葉に反応して頷く素直なその態度が、少なからずわたしの話を聞いてくれているのだとよくわかる。それだけで、わたしの心は弾んで、ああでもないこうでもないと話題をたくさん振っていく。多分、わたしは今のこの場の雰囲気に緊張しているのだと思う。
尾形は、わたしと二人でいることに緊張とかしてくれているのかな。寡黙な部類に入る男だから、態度や表情で何とか察することしかできないのが残念で仕方ない。

そこそこ話のネタも尽きてきた頃、わたしは言葉が思い浮かばなくなってだんまりを決め込んでしまった。春風と桜の花弁がわたし達の間を通り抜けていくのを頬で感じながら、心地よいとは言い切れない沈黙に言葉を探した。
何も話さなくなったわたしを不思議に思ったのか、尾形がわたしの方を振り向く。そんな彼をお構いなしで、桜を見上げると、服の裾を思いっきり引っ張られて「わっ」と声を上げた。

「どうしたの、尾形」
「……あぁ、いや」

ようやく言葉を発した尾形に疑問符を浮かべ、小首を傾げる。何かを言い淀む彼に更に「なあに」と追い込めば、口を開いたのは驚くべき言葉だった。

「月並みな言葉だが、」
「うん」
「攫われそうだと思った」
「え?誰が」
「名前が」
「わたしが?」

「何に」――言葉は彼の口唇で奪われた。急にキスなんてするものだから、目を瞑るタイミングも何もかも逃してしまう。途端に血液が頭に昇ってくるのを感じて、自分の頬を両手で覆った。夜道とは言え、照明に照らされたこの道では、火照った頬が見えると思ったからだ。

「春風が、名前を連れていきそうだったから」

そう言って、尾形はまた口を閉じた。いよいよ頭でも可笑しくなったのかと思うほどロマンチックな言葉に眩暈を覚える。「え」とか「へ」とか、変な言葉を口走ってしまうほどパニックになったわたしは、尾形にとってどう見えるのだろう。
そんなわたしを放って、前を向いて先を歩いていく尾形の後ろ姿を呆然と眺める。「あ」隣を歩いていたら絶対に拝めなかったであろうその姿に、わたしの機嫌は更に良くなっていくのがわかった。

「――尾形、待ってよ!」

耳が赤くなった彼の後ろ姿を追いかければ、少し冷たいくらいの春の風が火照った頬を擦り抜けていった。



top