2020
0629
中編/朔間零 水瀬
第2話没稿
「あの、ありがとうございました。本当になんとお礼を言っていいか」
「よいよい、我輩も貴重な経験ができたしのう」
ホットミルクを飲み終え顔を洗いなおしてフロアに戻る。黒髪の美青年はやはりいつも隅の席で寝てる人だった。お礼に何か、と思ったけれど私に渡せそうなものは何も浮かばないし、勝手にお店のお金を払うわけにもいかない。かといってお礼の言葉だけっていうのも申し訳なさすぎる。ああ、私はどこまでも無力だ。
「別に対価が欲しくてやったわけではないのじゃけど。そこまで言うなら……こういうのはどうじゃ?」
人好きのする笑みで提案されたそれを、私は一も二もなく了承した。
*****
指定された待ち合わせ場所に着いたのは約束の15分前。今日はあいにくの曇り空で太陽が見えない。雨が降りそうなら早めに傘袋と傘立てを用意しないと、と考えて今日はバイトじゃないからそんなこと考えなくていいんだと思い出す。そういえばこういう日の方が紫外線は強いんだっけ、なんてとりとめのないことを考えながらぼうっと空を眺めた。
何か月ぶりかの休日に出かけるという感覚に浮つく心を落ち着かせようと深呼吸する。
外出用のメイクも服も久しぶりで、鏡に映る自分は幾分楽しそうだった。
「待たせてしまったかのう」
「!」
後ろからとんとんと肩を叩かれて振り返れば、何故かサングラスと帽子を被った件の美青年が立っていた。
挨拶もそこそこにこっちじゃよ、と歩き出すので慌てて斜め後ろを歩く。
「どこに行くんですか?」
「それは着いてからのお楽しみじゃ……♪」
何も教えてもらえないまま、ひたすら彼についていく。
やがて真新しいビルが見えてきた。あれは私でも知っている、いま最も世間を騒がせるアイドルの総本山、ESビルだ。そして彼は迷いなくそのビルの中へと足を進めた。そこでようやく合点がいく、きっとこの人はアイドルなんだろう。曇り空に似合わない帽子もサングラスも変装用だ。アイドルが仮眠を取りに来ていたのか、と思うとあのバイト先もなんだかすごいところだった気がしてくる。いや、実際に別の意味ですごいんだけど。労働環境が最悪という意味で。
ところでこのESビルって一般人も入って大丈夫なところなんだろうか。
ビル内のカフェに入り席に着くと、彼はサングラスと帽子を外しながらくつくつと笑う。
「緊張しておるようじゃが、心配せずとも問題ないぞい。ここはちょっとした打ち合わせ〜とかで使われることも多いんじゃよ」
「そうなんですか」
「さて。嬢ちゃん甘いものは好きかえ?ここのケーキは美味しいらしいぞい」
「ええっと……?」
突然のまるでデートみたいな台詞にぽかんとする。