凪ぐ流星
「ん…」
そっと手を伸ばす。
私の手は空中をさ迷い、ぽふっとシーツに落ちた。
あるはずの場所に思っていたものはない。
ただただシーツを滑っていくだけ。
「あ、れ…?」
うっすら目を開けてみれば、そこには暗闇が広がっていて。
慣れてきた視界に映ったのは見慣れた本棚と机だった。
「んんん?」
寝返りを打ってみる。
寝る前と同じように壁があるだけ。
ぼんやりしていた頭は一気に覚醒して私は飛び起きる。
「ロー…!?」
辺りを見回す。
私が居るのは間違いなく彼の部屋。
寝るときは隣に居てくれた。
あのあたたかい腕の中で眠りについたはずなのに。
ローが寝ていたであろう場所はひんやり冷たい。
どこ行ったの…?
ドクンと心臓が早まる。
押し寄せてくる不安。
いや、ただ水を飲みに行っただけかもしれない。
トイレの可能性だってある。
ここは敵地でもない、私たちの船の中なんだから。
少し待ってみようと再び横になってみたけど、ローが戻ってくる気配はない。
何かあったんだろうか。
敵襲?
そんなわけない、か。
騒ぎが起きれば私も気付くどころか叩き起こされる。
それとも、もしかして体調でも悪いとか。
不安の渦はどんどん大きさを増していって。
私は堪らず船長室を出た。
ダイニング、医務室、トイレ。
思い当たるローが行きそうなところを見て回るけど、どこも人の気配はない。
最後の望みをかけて操舵室に顔を出せば、不寝番のペンギンが驚いたように声を掛けてきた。
「エレノア!?どうした?今日は当番じゃなかっただろ?起きるにはまだ早いぞ?」
船は止まっているとはいえ、操舵室には静かな機械音が響いている。
モニターを見てもここ一体の海域に特に変わった様子はない。
その証拠にペンギンの手には睡魔に負けない為か、本が握られていた。
「ローが…いなくなっちゃって…」
「キャプテンが?」
ローはふらりと何処かへ行ってしまう癖がある。
今までも島に上陸すれば、誰にも言うことなくフラッと出掛けてはいつの間にか戻っていたり。
だからクルーもキャプテンの奔放さを余り気に留めることはしていない。
でも今回は真夜中だ。
真夜中ってだけでいつもと違う感じがして。
このまま帰ってこなかったら…?
またちょっと船を空けるだけだと言って何ヶ月も帰って来なかったら?
パンクハザードでローと別れて、ゾウでただ待っていたあの時。
新聞で出来る限り情報は入手していたけど、私は心配で堪らなかった。
何も出来ないことが、悔しかった。
もちろんローに限ってまさかのことはないって信じてはいた。
だけど、帰ってきたローの怪我は戦闘の激しさを物語っていて。
今でも思い出せば胸が締め付けられる。
さっき。
部屋を出る時、帽子と鬼哭があるかどうか確認してくればよかった。
だんだん有りもしないことを頭は考え始めていて、私は縋るようにペンギンにローがいつの間にかいなくなっていたと伝える。
ペンギンはうーん…と考え込んで。
「あ」
「?」
「そうか…今日は…」
何か思い当たる節でもあるのか。
私の不安とは正反対にペンギンは困ったように少し笑った。
「そうだな、甲板にでもいるんじゃねェかな?」
「甲板?どうして?」
「それは本人に聞け。ほら、行ってこい」
操舵室から強引に押し出される。
甲板…?
こんな夜中に?
ペンギンに言われるがまま甲板へ向かい、小窓から外を伺う。
「あ…!」
甲板の手摺りに頬杖をついて。
夜空を見上げ、一人佇むローの姿がそこにはあった。
その背中にはいつものような覇気はなく、寧ろ寂しそうな、悲しそうな…。
扉を開けるのが少し憚られた。
でも一人にしたらどこかに行ってしまうような気がして。
私は静かに扉に手を掛けた。
気付かれないように開けたのに、彼は振り返る。
「どうした?」
私に驚くこともなくそう言った。
まるで私がいることが分かっていたかのように。
振り向いたその顔はやっぱり悲しそう。
ローの隣に並んで、手摺りに背中を預ける。
「起こしちまったか?」
「ううん。そうじゃないの。でも、いないから…どっか行っちゃったんじゃないかと思って…」
自分の爪先を見ながら言えば、髪を大きな手が滑っていく。
「またくだらねェこと考えてたな」
「くだらなくなんて…ない」
あんな思いはもう二度としたくないから。
繋ぎとめるかのようにローの服の裾を握った。
「何、してたの?」
ペンギンには自分で聞けと言われてしまった。
ローはただ単に甲板に出ているわけではないんだろう。
理由を教えてくれるかは分からない。
髪の毛を弄っていた手は離れていき、ローは再び空を見上げる。
「今日は…おれが、大好きだった人の誕生日なんだ」
「え…?」
ぽつりと呟かれた言葉は、夜特有の静まり返った空間に響いて私の耳に木霊する。
大好き、だった…?
なかなか好きとかそういうことを言わないローから出た言葉。
胸に何か撃ち込まれたような感覚。
自分で聞いておいて言葉が出てこない。
月明かりに照らされた暗い海からの波音だけが、私とローの間を通り抜けていく。
「だから、くだらねェこと考えるのはやめろ」
呆れたような声。
これがくだらないわけがあるか。
私の心臓は張り裂けそうだった。
「ガキの頃の…おれの命の恩人だ。あの人がいなければ……おれは、ここにはいない」
言われて、ハッとした。
一瞬でも勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。
ペンギンから少しだけ聞いたことがあるローの過去。
難病のことと恩人のこと。
本人はあまり話をしたがらないから。
ペンギン達にも旗揚げ前に話した一度切りなのだそう。
私も聞き出すのは嫌だったし、過去に何があったとしても私がローを好きなことに変わりはない。
「あの人…コラさんは…もう、いない。いつの間にか歳も追いついちまった」
打って変わって消え入りそうな、苦しそうなローの声。
手摺りを掴んでいた手には力が込められている。
「ロー…」
右腕に腕を絡ませて額を寄せた。
服に隠れて見えないけど、ここには傷が残ってる。
ローの覚悟の証が。
仇を討ったといえど、その人が戻ってくるわけではない。
「エレノア?」
「その人がローを救ってくれたから、私はローに出会えたんだよ」
ローがコラさんと呼ぶその人を私は知らない。
男なのか女なのかも分からない。
だけどその人のお陰で私はこうしてローと出会って、
仲間になって、
恋人になって、
広い広いこの海を旅している。
コラさんに会うことが出来たらきっと、ローを救ってくれてありがとうと伝えるだろう。
見上げれば苦しそうだったローは表情は消えていて。
代わりにコツンとおでこ同時がぶつかった。
「そうだな」
ローが屈んでくれてるから、首に腕を回す。
頬に唇を寄せる。
私はその人の代わりになんてなれないし、なろうとも思わない。
ローにとっては誰にも代えられない存在。
だけど。
「ローには私たちがいるよ。これからもずっと。それに…」
甲板に出た時は気づかなかったけど、ロー越しに見えた空には満天の星が輝いている。
「きっと、いつもローのこと見守ってくれてると思う」
ローがこんなにも想ってる人なんだ。
その人もローのことを大切にしてたに違いないから。
そっとローの頬に手を添えて擦り寄れば、琥珀色の目が細められる。
「なら…見せつけてやらねェとな」
腰と後頭部に腕が回ってきて今度はローからのキス。
「ん…っ…」
舌を絡めあって一頻り堪能すると唇が離れていく。
「も、もう…」
少しだけ目を鋭くしてみるけど、いつもの調子に戻りつつあるローに安心する。
ぱちりと目が合えばローに頭をくしゃくしゃ撫でられた。
そして反転する視界。
後ろから抱き締められて、肩口に感じるローのぬくもり。
「ありがとな、エレノア」
回された腕の力が強くなる。
髪の毛が首に当たってくすぐったい。
「どんな人だったの?いつか、その人のこと聞かせて欲しいな」
「…あァ。基本的にドジな人間の話だ」
「…は?」
クツクツ笑い声が降ってくる。
怪訝な顔で振り返ればまた唇は塞がれてしまって。
そんな私達の頭上ではキラキラと輝く夜空の中に一筋の星が流れていた。