朝っぱらから、怒りで震えてる。
少し早く電車で登校し、昨日駐輪場に置いて帰った原付の様子を見に来た。
その原付の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「クソすぎんか…」
思わず独り言が漏れた。

"ブス"
"クソビッチ"
"ヤンキー"

可愛らしい文字が似つかわしくない暴言。
黒いボディに、わざわざ白い文字で、デカデカと書かれていた。
一応指先で触ってみると、もちろん消えるはずはなくて、太めの油性マジックで書かれたとわかった。
「ここまでやってくるとは…」
またしても独り言を呟くと、私は急いで教室へ向かった。
「芽衣、おはよー」
いつものように声を掛けてくる優に手を合わせた。
「おはよ、ごめん、今日サボる」
「は?」
「マジでごめん、美結にもよろしく!また明日!」
「ちょ、何!?」
早口で別れの挨拶を告げると、彼女の声を聞き終えるより先に、また玄関へ向かって走り出した。
「おー、吉野 、何急いでんだ?」
玄関で靴を履き替えていると、バッタリ鉢合わせてしまった三ツ谷に、返事もせずに外へ飛び出した。
テメェのせいだ、と一瞬思ってしまった。
そんなことを思ってしまった自分も嫌だったけれど、今はそこに怒りの矛先を向けるしかなかった。
シート下から取り出した半キャップを被り、並ぶ自転車の間から原付を引っ張り出す。
シートに座ると、エンジンを掛けてすぐさま走り出す。
登校する生徒たちの流れに逆らう形で、スロットルを最大限に回した。
時々振り返るヤツらの目には、きっとこのデカデカと書かれた悪口が目に入っていただろう。


近くの車用品店まで、私の見た目通りであろうワードが書かれた原付で、恥を晒しながら走った。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何を買えばいいのか分からない。
「探し物?」
商品が陳列された棚の前で暫く立ち尽くしていると、後ろから声がした。
振り返ると、つなぎを着た金髪の男が立っている。
「アンタの前にあるの、欲しいんだけど」
「あ…すみません」
暗に邪魔だと言われ、一歩横に避ける。
「困ってんの?」
一歩避けてもなお固まっている私を横目に、問い掛けてくる。
「あー、……うん」
見ず知らずの人に頼ることはしたくなかったけど、つなぎを着てここにいるということは、車やバイクに詳しい人間かもしれないと思い、素直に困っていることを伝えた。
「原付に落書きされて」
「マジ?何で?」
「多分油性マジック」
「あぁ」
それなら、と彼は近くの棚に陳列されたワックスとコンパウンドを手に取った。
「クロスある?ここら辺つけて磨いてみな」
シート下に一枚クロスを入れているのを思い出し、彼が差し出したそれらを受け取った。
色素の薄い瞳と、長い睫毛が印象的だった。
「ありがとう」
「手伝おうか?」
「いやいや大丈夫です」
流石にそこまでしてもらうことは出来ないと思いつつ、丁重に断り、レジへ向かった。
彼も無言で、私の後ろについてレジへ向かっていた。
会計を終え、店の外に出る。
原付の前まで行くと、やっぱり絶望する。
並んだ憎たらしい文字たちに対して、怒りで肩を震わせながら、シート下からクロスを取り出す。
袋から購入したものを取り出して、クロスに付ける。
「うわ、なかなか酷いな」
先程の男が、私の原付の隣に停まっているバイクに手を掛けた。
「うわ……ゴリゴリの族車…」
思わず口から漏れてしまい、しまった、と思ったのもすぐに掻き消された。
「オレ、バイク屋やってんだけど、それ今から持ってきな。消してやる」
彼はそう言いながら、タンデムシートに積んだコンテナから店のフライヤーのような物を取り出し、こちらに差し出した。
「店で待ってる」
そう言い残し、彼はバイクに乗り、去っていった。
プロに消して貰えるなら多分それが一番無難だし、私は安易に、フライヤーに記された住所と地図を見て、原付のエンジンを掛けた。
ここからそう遠くない。
手に持っていたものを全てシート下に入れ込み、半キャップを被って、原付に乗る。
藁にもすがる思いを抱きながら、フルスロットルで走り出した。


記された住所に辿り着くと、確かにそこにバイク屋があった。
"D&D MORTER CYCLE SHOP"と軒先に書かれたガラス張りの店の中に、先程の男がいた。
エンジンを切って原付から降りると、ガラス越しに伺うように、店の中を覗いた。
彼はこちらに気がついた様子で、店から出てきた。
「来たな」
「いいの?本当に」
「まあ、これも何かの縁じゃねぇの」
表情を変えずに、彼は手に持ったクロスをこちらに差し出した。
それを受け取ると、彼が笑った。
「ちげぇよ、さっきのワックス貸して。ここ付けるから」
「ああ、そっち…」
シート下から袋を引っ張り出し、ワックスを取り出すと、彼から受け取ったままのクロスにつけて、差し出した。
彼はそれを受け取り、原付の横に座り込む。
「早く終わらせるよう頑張るし、そこ座ってれば?」
そう言いながら、店先に置かれたビールケースを指した。
しばらくそこに座って、作業を眺める。
とても手際が良くて、最低なワードが少しずつ薄くなっていく。


「おい、イヌピー」
後ろから声がして、ぼんやりしていた意識をハッキリとさせられた。
「何やってんだ?」
その声に振り返ると、作業をしている彼と同じつなぎを着た、背の高い男が店から出てきた。
こめかみに龍のタトゥーが入っていて、それを見た瞬間、やばいところに来てしまったのでは、と思ってしまった。
「見てのとおり、落書き消してる」
イヌピー、というあだ名らしい作業中の男が、さらりと答える。
「あん?」
「す、すみません」
謝る理由もよくわかんないけれど、何故か謝ってしまう。
多分、見た目の強さに圧倒されてしまった。
「何で謝るんだよ、お客だろ?」
「いや、金は取らねぇ」
「は?」
いや、金取らないんかい、とツッコミそうになるのを堪える。
金にならない餓鬼を連れてきて何やってんだ、とでも言いたそうに、背の高い男はこちらを一瞥した。
「ブス、クソビッチ、ヤンキー?」
車体に書かれている薄くなってきた文字を読み上げると、背の高い男は溜息を吐いた。
「こんな餓鬼みてぇなことする奴まだいんの?」
「まぁ…されたし…」
「どんな恨み買ってんだよ」
ニヤニヤしながらそう言わると、落書き女のことを思い出してまた腹が立ってきた。
「女の嫉妬だろ」
眉を顰めてそう吐き捨てると、その男は大口を開けて笑った。
その笑顔は、見た目と裏腹にとても可愛らしかった。
「オマエ、名前は?」
「吉野芽衣」
「オレは龍宮寺堅。アイツは乾青宗」
自己紹介されたとて、もう会うこともないかもしれない。
「ドラケン、これワックスでほとんど落ちたけどコンパウンドで磨いた方がいいか?」
「あぁ、なるべく傷つけないようにワックスだけでいけねぇ?」
"ドラケン"というあだ名のその男も、置いてあったクロスを手に取り、私の原付を磨き始めた。


暫くぼんやり眺めていると、二人が突然、バチン、と手を合わせた。
その音に少し驚き、ハッとした。
「落ちたぞ」
そのボディを見ると、前以上にキラキラと輝いている気がした。
安心した途端、涙が溢れてきて、それを零さないように堪えていると、ドラケンが私の肩を叩いた。
「何泣いてんだ?」
「安心して…」
「困ったことあったらいつでも来な」
イヌピーが、そう言いながら目を細める。
「ちゃんと金払うよ」
鞄から財布を取り出すと、ドラケンがその手を止めた。
「いや、新規客獲得のチャンスだから、これはサービスしとく」
私に対する悪口を、綺麗に、しかもタダで消してくれた二人が、神様のように思えた。
私一人じゃ、きっとどうにも出来なかった。
「原チャもいいよな。単車は興味ねぇの?」
そう訊かれ、店先に置いてあるイヌピーが乗っていたバイクを見た。
「…族車はちょっと」
見た目がこんなんだし、と答えると、二人は声を上げて笑った。
「別にそこまでヤンキーに見えねぇけどな」
まぁ、それはアンタらに比べればそうだろう。
「何ヤンチャしてんのか知らねぇけどよ、仲間は大事にしろよ」
ドラケンの言葉が、以前三ツ谷に聞かされた言葉と重なった。
多分今頃、あの二人が心配しているに違いない。
そう思いながら、鞄に入れっぱなしだった携帯を見ると、二人から大量の着信があった。
「げ」
「ん?」
「その、仲間から、すげぇ量の着信」
「心配してんじゃねぇの?」
「だと思う」
「良い仲間じゃん」
目を細めてそう話すドラケンと、その横で微笑むイヌピーを見て、何だか気持ちが前向きになる。
紙切れ貼られようが、落書きされようが、もう何も怖くない。
「イヌピー、ドラケン、ありがとう」
さっき知り合ったばかりの二人をあだ名で呼ぶと、二人はまた笑った。
「…学校行くわ」
半キャップを被りながらそう話すと、二人は顔を見合せた。
「制服着てるしやっぱ学生だよな、そりゃ」
「またいつでも来いよ」
「うん!」
大きな声で返事をして、フルスロットルで走り出した。
こんなにワクワクすることがあったんだって、早く二人に話したかった。


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