電車通学に切り替えてから一ヶ月。
駐輪場に行かなくなったことで、三ツ谷と顔を合わせることは、あの日から一度もなかった。
ここ最近は、良い行いをするわけでもなければ、特筆して目立つような悪いこともしていない。
勿論、生徒指導室にも呼び出されていない。
生徒指導と関わることは、間接的に三ツ谷と関わってしまうことになる。
自分の中の苛立ちを発散させる方法も、原付に乗らなくなった今、分からなくなっていた。
ただ何となく、抜け殻のように毎日を過ごしていた。


「芽衣ー、家庭科実習だよー」
お昼ご飯で満腹になり、微睡む5時間目の古典を寝過ごした。
体を揺すられる感覚で、目が覚める。
「家庭科室行くよー」
「芽衣の教科書持ったよー」
クラスメイトの美結と優が私を揺すっていた。
腕を引かれ、されるがままに家庭科室へ向かう。
こうして、ダメな私を見捨てず世話を焼いてくれる二人には、本当に感謝していた。
「次、何だっけ」
「家庭科実習だってば!いつまで寝惚けてんの!」
家庭科室は、デザイン科の棟にある。
下手したら三ツ谷と顔を合わせてしまうかもしれない、という不安が過った。
「家庭科室はうちらの楽しみなんだから」
「芽衣も、ちゃんと起きて」
「は?何で?」
瞼が開き切らない状態で、半ば引き摺られながらデザイン科棟へやって来る。
「デザイン科は目の保養だからね」
「普通科にはいないお洒落イケメンがいっぱいいるから」
こういうことで楽しめる二人が可愛くてキラキラしてて、羨ましい。
確かに、デザイン科は普通科とは違って、華があった。
将来芸能人やモデルになるんじゃないかというくらい可愛い女子とか、お洒落な男子もたくさんいた。
前髪に寝癖のついた姿でそんな人達の教室前を通り過ぎると思うだけで、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「吉野」
両腕を引かれた状態で、突如後ろから聴こえる声。
振り返ったらダメだと思うより先に、その声に勝手に反応する体が憎たらしい。
顔だけ振り返ってしまうと、私の両腕を引いている力が緩む。
二人が足を止めてしまった。
「え、何、知り合い?」
「うそ、デザイン科に知り合いいたん?」
二人の声に返答できずに、固まってしまった私の方へ、呼び止めた声の主、三ツ谷が近付いてくる。
「すげぇ前髪」
「うるせぇな」
目も合わせず、可愛げなく答えた私の前髪に、三ツ谷の手が触れた。
「オマエ、寝てたんじゃねぇの」
寝癖をくしゃくしゃと手櫛で、梳かされた。
「ほら、直った」
目を細めた三ツ谷は、おまけと言わんばかりに、デコピンをカマしてきた。
「いった、」
眉間に皺を寄せて三ツ谷を睨むと、彼は大きな口を開けて笑った。
久しぶりに、目が合った。
いつもと変わらない優しい眼差しに、少しホッとしてしまった。
「ほら、授業遅れんぞ」
そう言われると、両隣の二人がハッとしたように、再び私の腕を引き出した。
それはそれは、響くような声でキャーキャー言いながら。


家庭科室に着くと同時に、チャイムが鳴った。
色々不器用な私だけど、手先だけは無駄に器用で、家庭科実習は苦じゃなかった。
課題の刺し子は、初めてにしては我ながら上手に出来たと思う。
もちろん、課題じゃなければ進んでやることは一切ないけど。
「芽衣うまーい!」
「ヤンキーのくせにー!」
「美結、それやめて」
二人は途中で課題を諦めて、私の髪を束ねて遊んでいた。
「課題やらないと終われないよ、頑張れよ」
「へーへー」
「芽衣の、そういうとこ好き」
「どういうとこだよ」
「…矛盾してるとこ?」
二人で、うーん、と頭を抱えている。
頭抱える程、私のことなんて考えてくれなくていいのにな、と思っていると、
「不良のくせにちゃんと学校来るとこ」
「何だかんだうちらに付き合ってくれるとこ!」
そんな答えが返ってきた。
「だけど毛先傷んでるよ、ブリーチしすぎ」
「うるさいな、」
ブリーチで傷んだ私の髪は緩く編まれて、いつの間にかおさげにされてしまっていた。
ヤンキーだの何だの言いながらも、はっきりとものを言ってくれるところは、私が二人と友達でいられる理由の一つだった。
補導された時も、停学になったらウケるとか、不良やめろとか、中々の言われようだった。
「意外と似合ってるわ」
笑いながら話す優に手鏡を見せられて、思わず笑ってしまった。
「だっせ」
「今日これで電車乗ればいい」
「何の罰ゲームだよ」
何となくの毎日でも、学校に来れば、こうして笑って話せる友達がいる。
私を見捨てず、世話を焼いてくれることは本当にありがたいと思っている。
だけど、ここまでしてくれる友達がいるから、私はダメになってしまうんじゃないだろうか。
最初から一人なら、誰かと自分を比べることもなかったかもしれない。
そんなことを、思ってしまっている自分もいる。


「ところでさっきのお洒落くんは?」
二人が居残りでようやく課題を終えたところで、質問が飛んできた。
「え」
「銀髪長髪ピアスのタレ目くんだよ」
「何か仲良さそうだったし」
仲が良いと言えるのかどうかは分からない。
話を聞いてくれたことが生徒指導の差し金だったと知ってしまった今、私は彼を絶賛回避中だった。
そんなことも一瞬忘れてしまうくらい、距離を詰めてきた三ツ谷のことが、わからなくなった。
駐輪場で顔を合わせなくなったことを、少しも不思議に思っていないんだろうか。
生徒指導に、私を監視しておくように言われているんだろうか。
最後に会った時、私は返事もしなかったのに、普通に、いや寧ろ以前よりも距離を縮めて接してきたことが、全く理解できなかった。
「ただの同中」
全てを話すのは面倒くさくて、ただ一言で片付けた。
「いいなー」
「デザイン科の男子紹介してくれないかなー」
「そんな仲良くないからそれは難しいわ」
「ちぇーっ」
つまらなそうにそう返答したくせに、二人は楽しそうに私の話を続けている。
どうしてこんな私に付き合ってくれるのかは、わからない。
二人がいると、自分がダメになっていく部分があるのは確かだ。
けれど、二人はいつも、私の黒い部分を温かくぼやかしてくれる。
だから敢えて、そんなつまらないことは、訊かない。
何も持っていない、自分を壊したいだけの私。
そんな自分のことを二人には話せていないし、話すつもりもなかった。
自分のせいで、誰かを壊してしまうのは、怖かった。


既に人もまばらなデザイン科棟を通り抜け、教室に戻る。
帰り支度をすると、二人と別れ、玄関に向かった。
靴を履き替え、駐輪場の横を通る。
そこに停まっていた誰かの原付が横目に入り、一瞬胸の奥がむずむずした。
何も考えないで原付に乗って走っている時間が、私にとっては一番大切で、なくてはならなかったはずなのに。
大切なものを、敢えてしまい込んでしまったことに、少し後悔が生まれ始める。
車庫にしまいっぱなしの原付に、無性に触りたくなって、私は駅まで走った。
電車に乗っている間も、ずっと考えていた。
どうしたらこの相反する気持ちに整理をつけられるのか。


家に着くと、すぐに車庫に入り、少し埃の被ったカバーを外す。
久しぶりに見た相棒は、やっぱり私の心をうずうずさせる。
しばらく走っていないため、汚れはほとんど付いていない。
それでも、そこに座り込んでクロスで何時間も磨き続けた。
気が済むまで磨いて、再びカバーを掛ける。
夕暮れだった空は、既に暗闇と化していた。
まだ、これに乗って走れそうにはなかった。
怖かった。
先が見えないことが、ただただ怖かった。
乗りたいと、走りたいと、心から思えるまでもう少しだけ。
家に入り、そのまま部屋に直行。
ベッドにダイブすると、原付を磨いた充実感に満足しながら、ふと、今日の出来事を思い返した。
三ツ谷に触れられた前髪を、わしゃわしゃと掻き乱す。
家庭科の後からそのままだった三つ編みを解き、枕に顔を埋めて大きな溜息を、吐いた。


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