週末の退屈な数学の授業。
将来使うのかわからない数式が並ぶのを見ていると、段々イライラしてくる。
気持ちを紛らわすように、窓の外を眺める。
私の心を表しているかのように、灰色の曇り空だ。
あの日からまたひと月が経って、制服は夏服に変わり、季節は梅雨に向かっていた。
そんな曇り空の下、グラウンドで体育の授業をしているのは、デザイン科だ。
遠目からでも見つけてしまう姿に、またイライラしてしまい、見たくもないけれど、仕方なく黒板の数式に視線を戻した。




四限目が終わる合図が鳴り響いた瞬間、教室が一斉にざわめき出す。
「芽衣、購買行こー」
「焼きそばパン今日こそゲットする!」
二人の誘いに乗り、いつものように購買に向かう。
「ぎゃー、もう混んでる!」
叫ぶ美結の声が響き、思わず笑ってしまう。
二人は混雑の中に突っ込んでいく。
後ろからそれを眺めていると、多方面から伸びる手を免れるかのように、角にひとつだけ焼きそばパンが見えた。
人混みの中には入りたくなくて、端から手を伸ばしてみると、いとも簡単に、争奪戦の激しい焼きそばパンを、ゲットしてしまった。
美結の喜ぶ顔を一瞬想像して、購買のおばちゃんにお金を渡し、混雑に巻き込まれないよう一旦後ろへ下がると、ふと目に入ったのは、少し離れたところから怠そうにこちらを見ている三ツ谷だった。
「すげぇ混んでんな」
小首を傾げながら首元を触って、唇を尖らせている。
意外な場所で会ってしまった。
購買で会ったことなんて、今まで一度もなかったのに。
返事をするか迷っていると、闘いを終えた二人が戻ってきた。
「芽衣!その手にあるのは!?」
私の手元を見て、美結は目を輝かせる。
「アンタに食べてもらいたくて、隠れてたっぽい」
そう言うと、彼女は飛び跳ねながら喜んだ。
想像通りの喜ぶ顔に、可愛いなと思っていると、近寄ってきた三ツ谷が不思議そうに訊ねた。
「焼きそばパン、そんなにうめぇの?」
三ツ谷の声に、二人が反応する。
「あ!この前の銀髪お洒落くん!」
「芽衣がお世話になりますー」
「こちらこそ」
…こちらこそ?
生徒指導に頼まれてるオレが見えないところで見てくれてありがとうって?
大きなお世話だよ、と思っていると、二人が彼を囲んでしまった。
「芽衣と同中なんだよね」
「仲良いよね!」
二人に対し、三ツ谷がたじろいでいる。
「もう、やめなよ」
別に仲良くないから、と付け足して二人の腕を引いた。
「ちぇっ」
「あ、芽衣のあんぱんと牛乳、一応ゲットしといた」
「ありがと」
優からそれを受け取ると、その手元に三ツ谷の視線を感じる。
「……何だよ」
「オマエ、昼飯それだけ?」
昼飯まで監視するんじゃねぇよ、と言いたいのを我慢する。
「これだけ…てか珍しいね、購買」
「寝坊して弁当作る時間なかったんだよ」
頭を掻きながら、眉間に皺を寄せている。
弁当を作る、という言葉に驚いてしまっていると、三ツ谷の視線は私の手に持つあんぱんに刺さっていた。
「あんぱんうめぇの?」
「うん」
「つぶあん?」
「そ」
「オレもそれにしよ」
三ツ谷はようやく、人の散った購買に足を進めた。
「早く教室戻るよ」
「芽衣つれなーい!銀髪お洒落くんと話したいー」
「喧嘩でもしてんの?」
「別にしてねぇよ」
そんなやり取りをしているうちに、三ツ谷があんぱんといくつかの食料を抱えて、こちらに戻ってきてしまった。
「この前、三つ編みしてたよな」
「へ、」
家庭科実習の時、課題に飽きた二人に勝手にされたおさげ髪の事だろうか。
教室に戻る頃、通ってきたデザイン科の教室は、殆ど人もいなかったはずだ。
一体何処で見られてしまったのかわからず、頭を抱える。
「あ、あれうちらがしたの!」
「意外と似合っててウケたわー」
二人の言葉に、三ツ谷が目を細めて笑っていた。
「ははっ、わかる」
そう答える三ツ谷の声に、またあの感覚が蘇る。
胃の奥の方から、何かが込み上げてくる感じ。
「駐輪場の横、通ったろ?何か楽しそうな顔して走り出したから、声掛けなかった」
あの時は、早く原付に触りたくて、そこから駅まで走って行った。
「オレが話し掛けると、怖い顔するしな」
何でか分からないけど、すごくイライラしてしまって、今も、眉間に皺が寄っているのは、自覚している。
「原チャ、乗ってねぇの?」
その言葉に、心臓がドクン、と大きく脈打つ。
「……うん」
「故障とか?」
「まあ、そんな感じ」
「知り合いのバイク屋紹介するか?」
「ううん、大丈夫」
そう答えてから、ぼーっと私たちのやり取りを聞いていた二人の腕を引いて、歩き出す。
この案件は、バイク屋じゃ直せない。


「芽衣は素直じゃないなー」
「え」
「銀髪お洒落くんだよ!絶対芽衣のこと好きじゃん!」
「は?」
焼きそばパンを頬張りながら、美結はむくれている。
どこをどう見れば、その見解に至るのか教えて欲しい。
「わかる、彼の芽衣を見る目が優しいよね」
それは生徒指導に私を監視、もしくは見守りをするよう言われているからだと思うんだけど。
楽しそうな二人にその事を言うのは、気が引けた。
「同中私しかいないからじゃね」
好きとかそういうのじゃなくてさ、と付け足すと、二人は眉間に皺を寄せ、唇を尖らせた。
「それだけかなー」
「それだけ」
三ツ谷が私に対して、そんなにプラスの感情を持っているはずはない。
ずっと避けてるし。
彼が話し掛けると私は、怖い顔になるらしいし。
生徒指導の犬だってことは、生徒指導本人の口から聞いたから、わかっている。
だから無意識に、表情が険しくなってしまうんだと思う。
そんな私に、三ツ谷がいい感情を持つはずは、なかった。
「芽衣はどう思ってんの?」
「ん?」
「彼のこと、好き?」
好き?
好きか嫌いかで言えば、嫌いではない。
だけど、物凄くイライラしてしまう。
私の感情を掻き乱してくる、アイツが。
「…これは好きとは言えないねぇ」
そう答えると、二人はあからさまにつまらなそうにした。
「つまんないのー」
「ちぇーっ」
「私で遊ぶんじゃないよ」
「へーへー」
笑いながら、腹の奥でモヤモヤしたものが湧き上がってくることには、気が付かないフリをする。


放課後、玄関を出ると、午前中見た曇り空が嘘のように、晴れ渡っている。
この空みたいに、私のモヤモヤした気持ちは、いつか晴れるんだろうか。
「吉野ー」
駐輪場の横を通ると、少し離れたところから声がする。
三ツ谷が、バイクを押しながら、こちらに向かっていた。
何で、今日はこんなに会ってしまうんだろう、と思いながら、返事をせずに立ち止まる。
「帰んの?」
「うん」
短く返事をすると、私の横まで来た彼に、半キャップを差し出される。
「乗っていかね?」
「え、」
「暇だろ」
自分の原付で行ける限界を知った私は、どこまでも行けそうな三ツ谷のバイクに対して、羨ましさと憧れと悔しい気持ちと、大変混沌とした感情を抱いていた。
三ツ谷は、何も答えない私の頭に勝手に半キャップを被せると、バイクに跨り、キーを回してクラッチを握った。
「乗れよ」
有無も言わせない三ツ谷の顔に、表情はない。
私は何も言わず、タンデムシートに跨った。
お決まりのように、私の右腕を勝手に取って、自分のお腹に回す。
久し振りの感覚に、頭の中であの日の海が過ぎった。
大きな排気音を上げ、インパルスは走り出した。




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