辿り着いたのは、あの日と同じ海だった。
水平線の向こうは、何もない。
日が長くなったこともあり、まだ太陽は沈みそうになかった。
何処までもこの海が続いているんだ、と思うと、胸の奥が、キュッと締まる。
その海に少しでも近付きたくて、三ツ谷がエンジンを止めた瞬間、私はバイクを降りた。
「下、行こうぜ」
海に近付きたい心のうちがバレたのか、三ツ谷は砂浜に下りる提案をしてきた。
コンクリの階段を下り、砂浜に下りると、海に向かって歩いた。
波打ち際まで来たところで、ローファーと靴下を脱ぎ、鞄を置いた。
気候は晴れて、暖かくなっていた。
ひんやりとした感覚を求めて、爪先からゆっくり、海水に入っていく。
膝下まで浸かると、再び水平線を眺めた。
あの向こうには何があるんだろう。
そんなことを考えてぼんやりしていると、バシャバシャと水音を立てながら、三ツ谷が私の隣に並んだ。
「オレさ、海に来ると楽しかった頃のこと、思い出すんだよね」
「楽しかった頃?」
「チーム作ったばっかの頃」
中学の頃、東京卍會が最強の暴走族と言われていたのは、全く関係のない私でも知っていた。
夜歩いている時に、その特服を来た奴らとすれ違ったことも何度もあった。
隣にいる同級生が、そんな暴走族の一員だったんだよな、と改めて思うと、何だか変な感じがする。
「海にツーリング行ったりしてさ」
ふと、三ツ谷の横顔を見ると、目を細めて口角を上げている。
「アイツら、最高の仲間なんだよ」
「へぇ」
顔も見た事ないけれど、その人たちをすごく大切に思っているのが伝わってくる。
「………オレにとっちゃ、何があっても一生大切な仲間なんだよ」
ゆっくりとこちらを向きながら、三ツ谷が話す。
「オマエも、大切にしろよ」
そう言われて、ふと浮かんでくるあの二人の顔。
「あの子たち、オマエのことすげぇ大事なんだなって、わかるからさ」
「…そうかな」
自信がなかった。
自分の好きなようにやっている私に、世話を焼いてくれる二人が、本当はどう思っているのか。
「仲間はさ、離れててもいつも心の中にいて、支えてくれるもんなんだよ」
そう話す三ツ谷の腕が伸びてきて、私の頭をくしゃくしゃ撫でた。
その優しい手に、荒れた気持ちが少し穏やかになったのも束の間。
「オレも、オマエのこと心配してっから」
その言葉を聞いて、ハッとした。
「…ねぇ」
「ん?」
三ツ谷の優しい声を聞くと、ただ単純に、同中出身のよしみで心配してくれているだけなのかもしれない、と思ってしまう。
でも、そうじゃなかったら?
生徒指導に言われたから、私を監視しているとしたら?
「アイツに言われて、私のこと監視してるんでしょ?」
「アイツって?」
先程まで優しく笑っていた三ツ谷の表情が、一瞬で消える。
「生徒指導の先公」
私が間髪入れずにそう言うと、三ツ谷は目を逸らした。
やっぱりそうだった。
危うく、この優しさに騙されるところだった。
少し落ち着いた気持ちは、一瞬で鋭利なものに変わっていく。
「……クソヤロウ」
暴言を吐き捨てながら、砂浜へ戻ろうと踵を返す。
「吉野、ちょっと待って」
後ろから聞こえる声に返事をせずに足を進める。
言い訳なんて、聞きたくないし。
「待てって、」
「え、」
不意に腕を捕まれ、バランスを崩した。
「わ、」
腕を引いた三ツ谷にもたれ掛かる形になって、さらにバランスを崩した彼諸共、バシャン、と大きな水音を立てて海に尻もちだ。
「冷てっ」
「あー!バカ!何してくれてんの!」
制服も髪も濡れてしまった。
「悪ぃ」
誤魔化すように笑いながら、三ツ谷は私の頭をポン、と撫でた。
その言動に、酷く腹が立った。
「…笑って誤魔化すんじゃねぇよ」
彼を睨んでそう言うと、途端に涙が溢れてきた。
悔しかった。
やっぱり思った通りだったんだって、アイツの言った通りだったんだって、突き付けられた気がして。


三ツ谷は、ふぅ、と小さく溜息を吐いてから、口を開いた。
「……別に、生徒指導に言われたから気に掛けてるんじゃねぇよ」
三ツ谷は困ったように、私の頭を撫でた。
「…アイツが言ってた」
「……何を?」
「私の話を聞いてやるように、アンタに頼んだって」
涙が止まらなくて溢れ続けるのもかまわず、私は三ツ谷を睨み続けた。
三ツ谷の困ったように下がった眉は変わらず、私を撫でていた手がゆっくりと水中に沈んだ。
「…確かにあの日、生徒指導室に呼ばれて、オマエの話を聞いてやるように言われた」
「ほら、やっぱり、」
アイツの差し金で、私に優しい言葉を掛けた。
私をバイクの後ろに乗せた。
夢なんて、持たせようとした。
「でもね、もっと前から心配してたんだよ、オレは」
優しい声でそんなことを言われると、絆されそうになる。
それでもやっぱり、生徒指導の差し金だったことは、気に入らなかった。
「ずっとアイツに言われてたんでしょ、白々しいこと言うんじゃねぇよ」
一息にそう言うと、不意に頭を引き寄せられた。


「…バカじゃねぇの。どうでもいいヤツ、大事なバイクに乗せるわけねぇじゃん」
その言葉に、心臓が大きく脈打つ。
またあの感覚がやって来る。
胃の奥の方から、込み上げてくる、あの感覚。
「だから別に、生徒指導の頼みとかどうでもいいんだよ、オレは」
頬に、濡れたワイシャツ越しの三ツ谷の体温を感じる。
それが急に恥ずかしくなって顔を上げると、三ツ谷は眉を下げたまま、目を細めた。
「勝手にずっと心配してたのはオレだけどさ、そんな風に思われてたのはちょっと心外」
その優しい目の奥に、多分嘘はない。
いくら捻くれている私にだって、そのくらいはわかる。
「別に仲良くないとか、ダチに言ってるし」
彼は唇を尖らせて、拗ねたように言う。
自分のことさえどうにもできていないのに、人を信じるのが怖かった。
自分のことさえ、上手に信じてあげられないのに。
それでも、ここまで言ってくれる三ツ谷のことは、信じないといけないのかもしれない。
「……ごめん」
「ん。わかれば良し」
そう言うと、三ツ谷は立ち上がり、私の腕を掴んで引き上げた。
私の腕を引いたまま砂浜へ戻ると、三ツ谷は鞄からタオルとジャージを引っ張り出した。
「それ着といて。体育で使っちまったやつだけど」
「え、何で、悪いよ」
「いいから」
目を逸らしてジャージを差し出す三ツ谷を、不思議に思いながら、それを受け取る。
ふと目に入った自分の濡れたワイシャツ越しに下着が透けていることに気がついて、途端に顔から火が出る思いがした。
気を利かせてくれたことがわかって、やっぱり優しいな、と思った。
タオルで大雑把に拭いてから、三ツ谷のジャージを着て、その下で器用にワイシャツを脱いだ。
それから、ジャージのズボンを履いて、スカートを脱ぐ。
足元に纒わり付く砂がうざったかった。
びしょびしょに濡れて、重たくなったそれらを絞る。
その横で三ツ谷もワイシャツを脱いで、絞っていた。
「細く見えるくせに、意外といい体してんね」
「ん?ああ、喧嘩すんのに鍛えてたから」
バイクの後ろに乗った時から気付いていたし、思わずドキッとしてしまっていたけど、実際に見てしまったら、言葉に出さない方が変な感じだよな、と思った。
「まだ日落ちねぇし、ちょっと乾かしてから帰ろうぜ」
裸足のままバイクを停めた場所に戻り、堤防に二人分のワイシャツと、私のスカートを並べて、その横に腰掛けた。
タオルでガシガシ頭を拭う三ツ谷を横目に、私は溜息を吐いた。
「面倒見よすぎじゃね」
「ん?」
何のことだとでも言うように、不思議そうな三ツ谷を見ていると、ただ単に、面倒見の良さから私を気に掛けてくれてたんだとわかる。
偶然同中出身なだけだけれど、私はそれに感謝しないといけないな、と思った。
もし三ツ谷がいなかったら、私はまだ、深夜徘徊を続ける悪い子のままだったかもしれない。
夢も希望も探そうとせず、つまらないと吐き捨てるだけのつまらない人間のままだったかもしれない。
生徒指導の犬、だなんて思ってしまった申し訳なさが、込み上げてきた。
「ねぇ、三ツ谷」
「ん?」
「私、何処までも行きたい」
少しずつ落ちていく夕日を見ながら、言葉を紡ぐ。
「限界とか、そんなの知らないくらい、何処までも行ってみたい」
言い切ってから少し恥ずかしくなって俯くと、頭に優しい手が降りてきて、ポンポン、と二回撫でられた。
「夢じゃね、それ」
夢、という言葉に反応して三ツ谷の方を見ると、彼は目を細めて笑っている。
夕日に照らされた彼のキラキラした睫毛から、私はいつの間にか目を逸らせなくなっていた。


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