週の初め。
朝目が覚めて、真っ先に思い浮かぶのは、相棒の原付だった。
今日から、また、原付で通学することに決めていた。
昨日ガソリンを入れに(勿論補導されない時間に)行って、車庫で気が済むまで車体を磨いた。
私がまたこの原付に乗ろうと思えたのは、三ツ谷のおかげだった。
私の、何処までも行ってみたいという小さな願望を、"夢"だと言ってくれた。
抽象的ではあるけれど、夢を持てた気がして、胸の奥がじんわり熱くなった。
何だか何処までも行けそうな気がまた、してきていた。
部屋から出てリビングに向かうと、いの一番に母親から声が掛かった。
「芽衣、ジャージ洗濯しといたよ。借りた物でしょ?」
「ああ、ありがと」
母親からそれを受け取ると、私はぼんやり考える。
借りたものを、返さなきゃいけない。
デザイン科棟にわざわざ行くのは気が引けるから、朝、駐輪場で会えたら返そう。


原付を走らせ、学校へ向かう。
二ヶ月振りの通学路は、まるで新しい世界に導いてくれるかのように、新鮮に映った。
風を切る気持ち良さと、眩しい朝の光が、私をワクワクさせた。
こんな気持ちになったのは、どのくらい振りだろう。
この気持ちは、壊したくないなぁ。
そんなことを考えながら学校に着くと、原付を駐輪場に止める。
少し離れたところに、既に三ツ谷のバイクが止まっていた。
そこに彼の姿はなくて、もう既に校舎の中だとわかる。
「ジャージ返せないじゃん…」
今日体育があったら、困るかもしれない。
でも長袖のジャージを着るほど、寒くはないだろうし。
だけど流石に短パンは履かないかもしれないから、ズボンは必要かもしれない。
ああだこうだと考えているうちに、教室に辿り着いた。
「おはよー、って、朝から何暗い顔してんの」
既に教室にいた優に声を掛けられ、私は大きな溜息を吐いた。


「何それ!行くっしょ!」
朝のホームルームが終わった直後、借りたジャージをどうにか返したいと話すと、美結は徐に椅子から立ち上がり、私の腕を引っ張る。
「嫌だよ、デザイン科棟、苦手」
まさに、夢を持った人間ばかりが集まっているであろうあのキラキラした場所には、出来れば行きたくなかった。
また自分を誰かと比べてしまうことは、情緒の安定に影響してしまう。
「ほら行くよ!一限が体育だったらどうすんの!」
「確かに、彼困るかもね」
「一限が体育とは限らないだろ…」
椅子に座ったまま渋っていると、廊下の方で何やら騒めきが起きている。
「廊下、騒がしいね」
「誰か何かやらかした?」
二人の会話を聞きながらふと廊下の方に目をやると、教室の入口に、タイムリーな男が立っていた。
「吉野ー!オレのジャージ、持って来てねぇ?」
窓側の席にいる私たちの方に、何の気なしな大きな声が届いた。
「まさかの彼から出向いてきたー!!!!」
「うっそ、何この展開、激アツ」
「嘘だろ…クソ三ツ谷…」
普通科の生徒がデザイン科棟に行くのは、家庭科室や美術室があることから、何らおかしなことはない。
職員室や、共通して利用する保健室等は普通科棟とデザイン科棟の間にある。
要するに、"それよりこちら側"にデザイン科の生徒が来ることは、滅多にないことだった。
アイツが恥ずかしげもなく大きな声を掛けてきたせいで、変に目立ってしまった。
素行が悪い時点で、今まで多少悪目立ちすることはあったかもしれないけれど、そんな奴は他にも山ほどいた。
こんな形で人の注目を集めてしまったことが、最悪だ。
何故か目を輝かせている二人を見て見ぬフリして、私は三ツ谷のジャージが入った袋を、鞄から引っ張り出した。
クラスメイトたちに見られているのも気が付かないフリをしながら、彼のもとへ向かった。
「ごめん、駐輪場で会えたら返そうと思ってたんだけど」
「え、まさか原チャで来た?」
「うん」
私の言葉に、三ツ谷は何故か嬉しそうに目を細めた。
その目を見ると、注目を集めてしまった苛立ちが一瞬で消えてしまったから、不思議なもんだ。
「もしかして一限、体育?」
「そ。普通科棟の教室なんて滅多に来れねぇし、ちょっと冒険がてら」
ジャージの入った袋を受け取った三ツ谷が振り返ると、数人のお洒落男子がそこにいた。
「悪ぃな、こいつら勝手について来ちまって」
「三ツ谷がお世話になってます」
「普通科可愛い子多いよねー」
頭を掻きながら、申し訳なさそうに話す三ツ谷の後ろから、楽しそうに声を掛けてくる。
三ツ谷のお世話をした覚えは一切ないし、デザイン科にもいっぱい可愛い子はいると思うので、大した返事はせずに、軽く会釈だけした。
「ありがとね、ジャージ」
「おう」
あの日、優しくされて嬉しかったのを思い出して、つい微笑んでしまいそうになるのを耐え、表情を崩さないように、お礼を言った。
「困ったことあったら、いつでも言えよ」
私の作られた愛想のない表情にも、優しい言葉を返してくれた。
「やべ、着替える時間なくなんぞ」
「走れっ」
デザイン科の仲間たちが走り出すと、三ツ谷は私の頭をひとつ撫でてから、追い掛けるように走り出す。
撫でられた頭を両手で押さえながら、その場から少しの間、動けなかった。
頬がみるみるうちに熱を帯びていくのがわかる。
「「ぎゃー!!!!!」」
後ろから聞こえる悲鳴は、多分あの二人。
その直後、背中に纏わり付いてきた二人を、剥がすのが大変だった。


「銀髪お洒落くんってタラシ?天然?何なの?」
「わかるー!ウチも思ってた!」
昼休み、いつもの様に教室の窓際に三人並んで、購買のパンを齧っていた。
優の唐突な発言に、口に含んだ牛乳を吹き出しそうになる。
それを何とか飲み込んで、私は彼女を小突いた。
タラシって。
「な、んだよそれっ」
「うわ、動揺してる」
「ウケる!」
寄ってたかって、完全に私を茶化しにきている。
「だってさぁ、普通彼女でもない子にあんな風に頭撫でないよ?」
「この前のデコピンもね!」
「わかるわー、あれ計算してやってたらかなりの強者」
「彼の場合、素で優しくして気持たせちゃうやつだろうね!」
「…そろそろいい加減にしとけ?」
二人の会話を聞いていたら、何だかモヤモヤしてくる。
生徒指導の犬だと疑っていた時とはまた違う、悶々とした気持ち。
「アイツはただ面倒見よすぎるだけなんだよ」
歳の離れた妹がいることを、中学時代に人伝に聞いたことがあった。
それを考えれば、妹を扱うのと何ら変わりないんだろうな、という認識に落ち着いた。
「面倒見よすぎてそこら中の女の子の頭撫でてたら、大忙しで大変よ!」
「他の子にもしてるとしたら、芽衣どう思う?」
投げかけられた質問に、心臓が強く脈打った。
何も答えられず、目を見開き固まってしまった私の頭を、二人して撫でてくる。
「そりゃ嫌だよね」
「んふふ、恋ですなぁ」
二人の言葉に、反論することはできなかった。
ずっと気付かないフリをしていただけで、私はしっかりと三ツ谷を意識してしまっている。
多分、初めてバイクに乗せてもらったあの日から。
いいな、と思ってしまった時、多分もう、好きだという気持ちに直結してしまっていた。
だからこそ、生徒指導の差し金だと知った時、あんなに悔しかったんだと思う。
他の子にも同じことをしていたら、勿論嫌だ。
でも、三ツ谷が少しも私のことを意識していない様子を見ると、そんなことは言えない。
私の勝手な感情は、表出すべきでない。
いつだって、つまらない自分への嫌悪感で忙しかった。
今までだって、それなりに気になる人がいたこともあった。
だけど、そんな相手ができても行動に移したことはなかったし、そのうち気持ちが薄れていくことがほとんどだった。
ここまで私の中に踏み入ってきたのは、三ツ谷が初めてだった。
それが新鮮だったから、もしかしたらこの感情も、錯覚かもしれない。
自分の心の内を少し話せたことで共有してしまった小さな思いが、勘違いさせているだけなのかもしれない。
徐々に大きくなっていく気持ちに、素直になれなかった。


放課後、久しぶりに乗り出した原付で走るのが楽しみで、足早に駐輪場に向かった。
自分の原付のシートに、何か紙切れのようなものが貼ってあることに気付き、近付く。
セロハンテープで貼られた紙切れを取り、そこに可愛らしい文字で書かれた一行を見て、衝撃を受けた。


"三ツ谷くんに近寄るなよブス♡"


一言書かれた紙をぐしゃぐしゃと丸め、腹いせに少し離れた所に停まっている三ツ谷のインパルスに向かって投げつけた。
売られた喧嘩ならいくらでも買ってやりたいところだけど、喧嘩の原因が三ツ谷って。
そんな泥沼みたいな喧嘩は面倒臭い。
昔、空手を習っていたからか、喧嘩は弱くなかった。
女同士の喧嘩は髪引きと掴み合いが主になりやすいから、大して強いわけでもなかったけど。
どうせデザイン科の女子だろうし、滅多に会うこともないから無視を決め込むことにした。
「流石に怠すぎ」
独り言を言いながらヘルメットを被り、原付に乗る。
スロットルをゆっくり回し、走り出す。
苛立つ気持ちは、風を切る気持ち良さで、薄れていった。


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