水曜日。
帰宅すると、すぐに部屋の窓を全開にして、深呼吸。
仕事の疲れも溜まってきて、苦手な週半ば。
週末には、タカちゃんと会う約束をしている。
それまで頑張ろうと、また大きく息を吸った。
彼の仕事が忙しくて、会うのは一ヶ月ぶりになる。
時間が空くほど恋しくなって、早く会いたくて、それが逆に、仕事を頑張る活力になった。
ゆっくりと息を吐いた直後、スマホがけたたましく鳴り響く。
画面を見ると、タカちゃんからの着信だった。
週の半ば、しかも夕方にわざわざ電話をしてくるのは、珍しい。
いつも私の休みの前に合わせて、週末の夜に電話してくれるからだ。
彼の仕事が忙しいこともあり、平日は寝る前に数件、メッセージのやり取りをするだけだった。
何かあったのかと不安になりながら、電話に出た。
「もしもし」
『なまえ?お疲れ』
電話口のタカちゃんの声は、何だか疲れている様子だった。
「タカちゃんもお疲れ様」
『今何してんの』
「帰ってきたとこ」
『あー・・・そうだよな』
歯切れの悪い返答に、やっぱり珍しいな、と思ってしまう。
「何かあった?」
『すげぇ我儘言ってもいいか?』
一瞬、すごく怖くなった。
普段タカちゃんは、私に我儘を言ってくれることもないし、何ならいつも私の我儘を聞いてくれる。
別れ話だったらどうしよう、とか、つまらないことを考え出してしまう。
返す言葉に迷っていると、ふふ、とタカちゃんの笑い声が漏れた。


『今、とんでもなく会いてぇんだけど、オレのアトリエ、来れたりしない?』
「え、」
『来れそうだったら、タクシー使ってきて』
「うん、わかった」
電話を切って、すぐに全開の窓を閉める。
タカちゃんは、会いたくなると自分から行くタイプだ。
会いたいから来て欲しい、なんて初めて言われた。
そんなことを思いながら、私はバタバタと部屋を飛び出した。


マンションの前でタクシーを拾い、15分程で到着。
屋根裏の窓から、小さな灯りが漏れている。
すぐに中へ入り、アトリエの入口まで来ると、少し身構えた。
まだ捨て切れていない、別れ話かもしれないという可能性。
今日のタカちゃんは、言動全てが珍し過ぎる。
入室を躊躇していると、部屋の内側から扉が開いた。
「来てくれると思った」
ドアの隙間から覗いたタカちゃんは、目の下にクマ、顔色もいつもより何となく白い気がした。
「タカちゃん、大丈夫なの?」
忙し過ぎて、食事や睡眠がまともに取れていないんじゃないだろうか。
心配しながらアトリエに入ると、扉を閉めた瞬間、彼は私を抱き締めた。
「タカちゃん、」
「ごめん、少しだけこうさせて」
デスクの灯りだけが灯る薄暗い部屋でタカちゃんは、私の首元に顔を埋めて頭を擦り寄せた。
こんなふうに彼が甘えてくるのは、やっぱりすごく珍しくて、動揺してしまう。
深読みしすぎて泣きたくなるのを誤魔化すように、彼の背中をさすった。


「はあ、ちょっと充電されたワ」
数分間、頭をすりすりし続けてから顔を上げたタカちゃんは、眉を下げて、大きく息を吐いた。
「話がある」
真っ直ぐな瞳に射抜かれる。
嫌な予感が、当たってしまうんじゃないかと怖くなる。
タカちゃんは私の手を引いて、ソファに座らせた。
「デカい仕事、今日終わったんだよ」
彼は私の隣に腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。
「そうだったんだね、お疲れ様」
労いの言葉をかけると、タカちゃんは私の方は見ずに、天井を見上げた。
「今回はかなりキツかった」
私は隣に座るタカちゃんの横顔を見ながら、気が気でなかった。
どのタイミングで、切り出されるんだろう。
ここに来てから、ずっと緊張していた。
「なまえは?最近仕事、どう?」
天井を見つめたままのタカちゃんは、本当に疲れている様子で、目を細めている。
「まあまあだよ。相変わらず」
「そっか」
ふう、と溜息を吐いてから、彼は何も言わなくなった。
いつもは思わないのに、無言の時間が少し苦しい。
何が言いたいのか、私から聞いた方がいいんだろうか。
「あのさ」
「ん?」
やっぱりまだ天井を見上げているタカちゃんの横顔に、話って何?と聞きたいのを、ぐっと堪えた。
急かしたから、もう全部おしまいになってしまう気がした。
「何だよ?」
ずっと天井を見ていた視線が、こちらを向いた。
彼は眉間に皺を寄せて、怪訝な表情を浮かべていた。
タカちゃんから別れの言葉を聞きたくなくて、察しの良い彼女になってあげた方がいいと思った。
「タカちゃん、今までありがとう」
言葉に出した瞬間、緊張が解けて、一気に涙が溢れてきた。
目を丸くしたタカちゃんが、涙でぼやけて見えた。


「オイオイ、なんのギャグ?」
タカちゃんは、慌てたようにソファに預けていた体重を移動させ、服の袖で私の涙を拭った。
「私の、こと、……いらなくなっちゃった?」
しゃくりあげながら尋ねると、彼の困った顔が、視界いっぱいに広がった。
「バカかオマエは」
彼の腕が私の背中に回った。
手のひらでゆっくりと背中をさする。
いつもと変わらず優しくて、彼の首元に、涙でぐしゃぐしゃの顔を埋めた。
彼の服が濡れてしまう、と頭の片隅では思いながらも、溢れ出て止まらない、寂しい、という感情を抑え込まずにいられなかった。
「いらなくなるわけねえじゃん。何そんな心配してんだ?」
「だって、タカちゃん、話ある、って」
「あー……」
また歯切れの悪い声がして、何が何だかわからなくなる。
タカちゃんは大きく息を吐いてから、耳元で優しく話した。
「またオレの我儘になっちゃうんだけど」
何を言われるのか予想できなくなって、ただ頷く。
「オレと一緒に住んで」
「え、」
驚いてタカちゃんの顔を見ると、少しきまり悪そうな表情を浮かべていた。
彼は、背中をさすっていた手を止め、私の頬に触れた。
「今回ね、デカい仕事引き受けて、まともな食事も摂れなくてあんまり寝れない日が多かった。アトリエで仮眠して、連日籠ってることもあったよ」
「そんな大変だったんだ」
気付いてあげられなかったことに、申し訳ない気持ちが押し寄せる。
「なまえとは一ヶ月も会えなくなっちゃうし、オレ、余裕なくて」
どんなに仕事が忙しくても、何でも余裕でこなしているように見えてた。
今まで私と会っていた時間も、電話を掛けてくれていた時間も、簡単に作り出していたわけじゃなかったんだろうな、と思うと、やるせない気持ちになる。
「一緒に暮らしたら、オレは何が何でも家に帰るだろうし、遅くなっても、なまえの寝顔見るだけで、心に余裕出来そうだよなって」
また、緩んだ涙腺から涙が零れる。
「心配させてごめん。でもこれはオレの我儘だから、話すの躊躇った」
「もっと早く言って欲しかった」
私はいつも、タカちゃんの優しさに甘えていただけだったのかもしれない。
彼に我儘も言わせない程に。
「でもさ、なまえはオレのこと大好きだから、我儘言っても許してくれるんじゃねぇかなとか、思った」
私は頷いて、溢れて止まらない涙を拭う。
「私ばっかり甘えてごめん、タカちゃん優しいから、全然、気付いてあげられなくてごめんね、」
「それでいいんだよ。オレはオマエのこと大好きだから、甘えてもらえて嬉しい」
そう言いながら、タカちゃんは目を細めて、今日初めて笑った。
「もっと我儘言っていいよ。今日会いに来てって言ってくれたのも、不安だったけど、珍しくて嬉しかったよ」
そう伝えると、彼は、ゆっくりと私の頭を撫でた。
「会いに来てもらったら、行き帰りの夜道が心配で気が気じゃなくなる」
もっと余裕なくなんだろ、と彼は笑った。
「タクシーだもん」
「今日はね。一緒に暮らせば、オレが帰るだけでよくなるんだし」
微笑むタカちゃんを見ていると、一緒に暮らしたら毎日幸せなんだろうなって、想像がつく。
「私ね、会えない間、早く会いたくて、仕事頑張ったよ」
「えらいえらい」
「でも、毎日会えるなら、毎日仕事頑張るよ」
そう話すと、タカちゃんはふふっと笑った。
「じゃあ、オレの我儘、聞いてくれんの?」
頭を撫でていた手で、私の手を取り、そっと口付けた。
真っ直ぐな瞳に、また射抜かれる。
「……早く一緒に暮らそ?」
すぐに返答した私に、またタカちゃんは笑った。
「聞き分け良すぎか」
この笑顔が大好きで、私の活力になっている。
「じゃあ、今週末は、部屋探しにするか」
「やった」
あんなに不安だったのが嘘みたいに、幸せな気持ちが溢れ出る。
タカちゃんの我儘は、私を幸せにしてくれる魔法のようなものだった。
「とりあえず今からオレん家行って、元気の出るもん食うか」
「タカちゃん、既に少し元気になってない?」
「充電したかんな」
アトリエから徒歩5分のタカちゃんのアパートまで、手を繋いで帰る。
もう少しで始まる新しい生活を、夢見ながら。




20211017
魔法の我儘


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