「マリッジブルーをご存知か」
「あれだろ、結婚前に女が憂鬱になるやつ」
「え、まさかなまえちゃんマリッジブルーかよ」
「違うんだ、マリッジブルーはなまえじゃなくてオレなんだ・・・!」
「は?アンタが?」
宮城はオレを指差して笑いやがる。
「女じゃねーんだからさ」
「こんなの男も女も関係ねー、憂鬱なんだよ、とにかく毎日」
高校三年の卒業直前に付き合い始めたなまえにプロポーズをしたのは先月のこと。
何とか拾ってもらった大学でバスケを続け、三年の時に実業団から声が掛かって卒業後地方へ行くことが決まった。
それから二年、神奈川にいたなまえと遠距離で続いてはいたがお互い忙しくて会う時間も少なくなっていく中、彼女の大切さを身に沁みて感じていた。
先月地元に帰った時に婚約指輪を渡して結婚して欲しいと伝えた。
彼女は泣いて喜んでくれたし、これから毎日一緒に居られることを考えると幸せだと思った、のだが。
「何でこんなに憂鬱なんだよ」
「オレはアヤちゃんと結婚した時憂鬱なんて感じたことなかったな」
「だろうな」
来月から彼女と一緒に住むことが決まり、後は籍を入れて、結婚式の準備をして、そんなことを考えるとどんどん憂鬱になっていく。
「わかった、三井サンまだ遊びたいんじゃねーすか」
「は?」
「なまえちゃん以外の女の子と」
そんなはずはない、はずだった。
先週飲み会で、所属チームの社員の女に言い寄られた時に心が揺れた。
腕に胸を押し付けられて上目遣いで言われた。
「遠距離の彼女じゃなきゃダメなんですか?」
「わたしならずっと三井さんの傍に居られるのに」
酒も入っていたし、正常な判断が出来なかったオレは、その女子社員の部屋にホイホイついて行ってしまった。
バカだった。
部屋に着くなり首筋に腕を回され、唇を奪われてしまった。
そこでようやく、マズいと思い、オレは部屋を飛び出した。
キス以上のことは何もしていない。
不本意に唇を奪われたことに腹が立った。
勿論自分自身に、だ。
そんな失態を嫁になるなまえに打ち明けられるはずもなく、かと言って黙っているのも気持ち悪くて、きっとオレの憂鬱は、そのせいだ。
「もしかして、浮気でもしてるんすか?」
「ば、バカヤロウ!そんなはずねーだろ!」
浮気ではない。
断じて浮気なんかでは。
「そもそも浮気って何だよ。どこからが浮気になるんだ?」
「オレは他の男と二人で出かけるだけでも無理っすけど」
オレは絶対そんなことはしないし、と付け足した宮城がとてもカッコよく見える。
オレはなんだ?
酒が入っていたとはいえ、隙を作っちまったことがもうアウトなんじゃなかろうか。
「別に浮気なんてしたくもねえけどよ」
「じゃあ、自信がねぇだけじゃないっすか?なまえさんを幸せにする自信」
それだ。
自分がしてしまった事の後ろめたさから、絶対なまえを幸せにするという自信が欠落してしまったんだ。
「どうしたら取り戻せんだよ・・・」
「何で結婚しようと思ったのかもう一度よく考えてみたらどうすか」
宮城と話しているうちに、だんだん彼女に会いたくなくなってくる。
後ろめたい気持ちで彼女に会って何を言っても、全部逃げに走ってしまいそうだった。
「ひさしくん」
「よう」
「待った?」
「いや、まだ時間前だし」
一ヶ月ぶりに会ったなまえは、前回会った時よりも綺麗になっていた気がした。
「何か綺麗になったか?」
「えへへー」
オレの何気ない言葉に照れて微笑むなまえを見ると、やっぱり心が痛む。
「ひさしくんのお嫁さんになるから、いつも可愛くいたいなって思って」
まだ何も決まってはいない結婚式に向けて、時々エステに行っている、と楽しそうに話す。
その笑顔が、オレの胸を締め付けていく。
「とりあえず飯でも食うか」
「うん!お腹空いた」
いつものように色気のない店で一緒に飯を食っても、全然味がしなかった。
彼女の話は全部、聞いてはいたけど頭に入ってこなかった。
店を出ると、なまえが立ち止まる。
何かと思い振り返ると、彼女は困ったように眉を下げていた。
「どうしたんだよ」
「ひさしくん、何かあった?」
オレは驚きと戸惑いを隠せなかった。
バレたんだろうか?
何も怪しい言動は取っていないはずなのに。
「もう、わたしに飽きた?」
「は・・・」
「もう好きじゃなくなった?」
唇をきゅっと結んで、なまえは今にも泣き出しそうだ。
「まだ今なら間に合うよ?」
そう言いきった彼女の目からポロポロと涙が零れ落ちてきて、はっと気がついた。
オレの心がここに在らずで、自信を失ってしまっていることは、何もしなくても、何も言わなくても、なまえにはお見通しなんだということを。
そっと彼女を抱き寄せると、オレは自信のないままに告げた。
「抱きたい」
頷いた彼女の手を引いて歩き出す。
地元に戻る時は実家へ帰らず、なまえと二人で過ごせるように毎回ホテルを取っていた。
フロントでチェックインを終えると、なまえの顔も見れないまま、その手を引いて部屋に向かった。
カードキーを挿して部屋の扉を開けて中へ入ると、扉も閉まらないうちに彼女の身体を壁に押し付け、その唇を求めた。
「ん、」
もういっその事上書きしてくれよ。
あんなつまらないことがあったという事実を、なまえを求めることで塗り替えてしまえばいいと思った。
執拗に口内を支配すると、息苦しくなったのか彼女はオレの胸を叩いた。
「・・・こんなとこじゃ嫌だ」
なまえの身体を抱え上げ奥の部屋へと進む。
辿り着いたダブルのベッドに優しく放ると、彼女は両手を伸ばして笑った。
その腕の中に抱かれに行くと、暖かくて、安心した。
そこからはもう何も覚えていないくらい夢中になってなまえを求めた。
ふと目が覚めると、隣にあるはずの温もりがなくて、オレはぼんやりと窓の方を眺める。
カーテンの隙間から見える空はまだ薄暗い。
重たい体を起こして大きく溜息を吐くと、激しく後悔した。
きっとこの先何度彼女と唇を重ねても、身体で繋がりあっても、事実を塗り替えることは出来ない。
このままじゃ心から幸せだとは言えないのかもしれない。
ベッドを抜け出しシャワールームに向かうと、ぴしゃりと水音がして、彼女がそこにいるとわかった。
ゆっくり扉を開くと、泡だらけの湯船に浸かる彼女と目が合った。
「起きた?」
「おう」
「ひさしくんもどう?泡風呂」
オレはザッとシャワーを浴びると、その泡風呂に足を入れた。
「ぬりぃな」
「ゆっくり入りたかったから」
なまえと向き合うようにそこに浸かると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
やっぱりオレは昔からこの笑顔に弱くて、大切で仕方なくて。
本当にバカなことをした、と改めて。
「せっかくの泡風呂なのに眉間に皺寄ってる」
目を細めるなまえの手を取り、大きく息を吸った。
「お前に言わなきゃならねえことがある」
腹を括る。
もし最低だと張り手を喰らっても、別れると泣かれても、隠し続けるのは無理だと思った。
いっその事、オレが立ち直れなくなるまで罵って欲しいくらいだ。
首を傾げてキョトンとする彼女の目を見ると、本当に居た堪れない気持ちだ。
「他の女と、キスした」
「え、」
目を丸くしたなまえは、掴まれた左手を解くと、そのままオレの右頬を抓った。
「な、」
「いつどこで誰と?」
眉間に皺を寄せた彼女は、矢継ぎ早に問う。
「先週、飲み会の後、社員の女と」
オレが答えると直ぐに、左の頬も抓った。
痛い、けど。
「好きなの?」
眉を下げて今にも泣きそうななまえの表情を見て感じる胸の痛みに比べたらずっとマシだ。
「そんなわけねえだろ」
「遊び?」
「いや、不本意に奪われた」
「隙ありだったんだ」
「部屋について行きました」
「やる気満々じゃん」
「そんなつもりなかったです、奪われて直ぐに逃げました」
言い訳しかできないオレの頬から手を離すと、なまえは笑った。
罵られ捨てられる覚悟で話をしたのに、笑っている彼女がわからない。
「嘘つけないところ」
「え・・・」
「正直で真っ直ぐで逃げないところが、好き」
そう言って目を細める彼女を見ると、全部が込み上げてくる。
男のくせに、瞼に涙が溢れてきて視界がぼやける。
「何泣いてんの」
「な、泣いてねえよバカヤロウ!」
咄嗟に湯で顔を洗うと、泡が少し目に染みた。
「わたしのこと好きじゃなくなったと思って、心配した」
そう零すなまえの左手を掴むと、薬指をそっと撫でる。
「お前しか好きじゃねえよ、今までもこれからもずっと」
彼女を失うことを考えると、本当に怖くなる。
もう揺らぐことはない。
絶対に、だ。
「チュース、三井サンおめでとー」
「ウース、ありがとな」
着慣れないタキシードに袖を通したところで、宮城が控え室に入ってきた。
「いよいよっすね」
「ああ」
「マリッジブルーはもういいんすか?」
「そんなもんはとっくに吹き飛んだ」
彼女のおかげで、オレは全ての憂鬱から脱することが出来た。
あれから無事に入籍して、順調に結婚式の準備を進め、遂に当日。
「すっきりした顔」
「まあな」
憂鬱を脱するヒントをくれた宮城には感謝しなくちゃならねえな。
「もうなまえちゃんのドレス見てきたっすか?」
「いや、これから」
大きく深呼吸をしたところで、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
「新婦様のご準備整いました」
「はい」
機械のように返答するオレの脇腹を宮城が小突いた。
「ガチガチじゃねーっすか」
「うるせーな!」
「行ってらっしゃい!この瞬間は最高っすよ、一生忘れねえと思う」
先に経験している宮城にそう言われると、何だか緊張してくる。
宮城と共に部屋を出て、オレは新婦控え室へ向かった。
ノックすると、静まり返って返事がない。
「なまえ?オレだけどよ」
「無理!来ないで!」
「は?」
ドアノブを握って回すと、内側から鍵が掛かっている。
疑問符が浮かび、付いてきた宮城の方を見ると、奴はハッとした。
「ま、まさかなまえちゃん、マリッジブルーなんじゃ・・・」
「な、なんだと!」
それから30分、式の直前まで彼女の控え室前でしゃがみ込んでいた。
宮城はアヤコと合流すると言って会場へ戻っていた。
コンコン、と何度目か分からないノックをすると、ようやく部屋の鍵がカチャリ、と開いた音がした。
「・・・入るぞ」
そう言いながらゆっくり扉を開けると、純白のドレスに身を包むなまえの後ろ姿が視界一面に広がった。
「なまえ」
「はい」
「どうした」
振り返る彼女の目は少し赤い。
「泣いてたのか?」
「いろいろ、思い出したら止まらなくなって」
そう言いながら鼻を啜るなまえに近づき、両手を彼女の頬に当てた。
「この先何があっても絶対傍にいるから、心配するんじゃねえ」
オレが告げると、彼女はようやく目を細めて笑った。
「そんな顔じゃ後悔するぞ」
「メイク直してもらう・・・」
「せっかくの可愛い花嫁だからな」
「ひさしくーん・・・」
また泣きそうになるなまえの手を強く握る。
「なまえ、愛してる」
もうオレの気持ちを阻むものは何もなくて、心から彼女に伝えることが出来る。
「もうこれ以上泣かせないでよ!」
オレの脇腹を小突きながら、なまえは涙を零した。
大切な人をこの先守っていくため揺らがない心を持つ覚悟はできている。
だから、これからは何があってもオレがなまえの憂鬱を吹き飛ばして行くしかねえ。
彼女の泣き顔を見ながらそんなことをぼんやり、考えていた。
20210117
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