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この話には一部デートDVを連想させる表現が入っています。
苦手な方、嫌悪感のある方は読まずにお戻りください。











教室の廊下側、一番前の席にバスケ部のでっかいのが座っている。
この間まで不良をやっていた三井寿は、バスケ部に復帰してから毎日授業に出席している。
最近見慣れた三井の後ろ頭。
髪をセットしている日、寝癖だらけの日、眠そうにしている日、ちゃんとノートを取っている日、今まで空だった目の前の席にちゃんと座っている三井をぼんやりと眺めているのは少し楽しかった。
まだ授業も始まっていないのにウトウト眠っている。
部活がそんなにハードなんだろうか。
一限目の古典の授業の直前で、彼氏の家から学校に来たわたしはこの男のすぐ後ろの席に着く。
朝シャワーを浴びたし着替えもしたけれど、スカートに彼氏の煙草の匂いが少し残っている気がした。
手首に残った皮下出血は、大きく広がって紫色から黄色に変わり始めている。
痛みは感じないけれど、人事のようにとても痛そうに見えた。
授業が始まりプリントが配られる。
この列一番前の三井が寝ているのに教師は何も言わず彼の机の上にプリントを置いてしまった。
これでは後ろまで渡らない。
わたしは仕方なく彼の背中を指で突いた。
「ん、」
眉間に皺を寄せて機嫌の悪そうな顔で彼は振り返った。
「プリント回して」
わたしが彼の机の上を指して告げると、彼は面倒くさそうな顔をした。
机の上から自分のプリントを一枚抜いてまたわたしの方を振り返る。
三井の視線がわたしの右の手首に刺さる。
「え、」
「なに?」
「いや、」
一瞬何か言いたそうな表情をした彼は、再び前を向いた。
この痣を見ていたんだろう。
わたしの彼氏は社会人で、酒癖が悪い。
酒を飲むと気が大きくなって、時々わたしを力で支配しようとすることがある。
これは先週会社の飲み会の後に彼の家へ呼ばれて行った時に凄い力で掴まれてできたものだ。
最近、惰性で付き合っている気がしてきている。
会社の同僚の女と浮気していることにも気付いている。
それなのに、逃げられない。
優しかった頃の彼がいつも頭を過ってしまって、わたしを好きだと言ってくれた彼が頭から離れなくて。
彼以上にわたしを思ってくれる人はいないと思っている。
そのせいで、もう浮気されることも力に屈することも慣れてしまっていた。


一限目が終わると、寝ていたはずの三井が振り返る。
「ちょっと来てくれ」
「は?」
「いいから」
三井の後ろを着いていくと、屋上にたどり着いた。
「何か用?」
「その腕、どうしたんだよ」
半ば予想はついていたけれど、やっぱりこの痣のことを聞きたかったのか。
「三井には関係ない」
「そんなこと言われてもよ、見ちまったもんは気になるだろーが」
「彼氏に掴まれただけ」
わたしがそう言うと、三井は目を丸くした。
「何で彼氏がそんなことすんだよ」
「そういう人なの」
「何だよそれ」
正義感に満ちた彼の眉間に寄った皺が更に深くなって、わたしは責められている気持ちになった。
「好きなのにそんなことするのか?」
「もう、好きとかそういう次元の話じゃないから」
わたしの言葉に、三井は何を言っているかわからない、という目をしている。
「浮気も力でねじ伏せられるのも、慣れた」
「何だよそれ!」
感情を昂らせた三井が大きな声をあげて、わたしは冷えた声で言葉を返す。
「三井、恋愛したことないでしょ」
「は?」
「いろんな形があるんだよ」
わたしがそう言い捨てて踵を返すと、三井はわたしの前に回り込んで進行方向を塞いだ。
「捻くれてんじゃねーよ」
「捻くれてなんかない」
「納得いかねー」
「何であんたが納得いくようにしなくちゃならないの?」
言い合っている意味がわからなくなって、目に涙が溜まる。
あんな奴のことは本当はもう好きなんかじゃない。
わたしといても浮気相手の女と電話したり、酒を飲めば腕を強く掴んだり髪を引っ張るような男だ。
それでも確かに好きだったから、彼もわたしを好きだと言ってくれていたから、ずるずるとここまで来てしまった。
だけど、そんなことは三井には関係ない。
関わらないで欲しかった。
「泣くなよ」
「あんたには関係ないから、突っかかってこないで」
わたしは道を塞いだ三井を躱して教室に戻った。
それから二限が始まるチャイムが鳴っても三井が教室に戻ることはなかった。
見慣れた後ろ頭がなくなって、久しぶりに空になった前の席をぼんやりと眺めたけれど、少しも楽しくなかった。
わたしは二限が終わると、その後の授業はサボって帰った。
三井の顔を見たくなかった。
愛は暴力じゃないと訴えるような正義感に満ちたあの目を、見たくなかった。


その日の夕方、彼氏から電話があり、家に来て欲しいと言われた。
言われるがままにわたしは電車に揺られて彼の家へ向かう。
インターフォンを押すと、彼が顔を覗かせる。
少しお酒の匂いがして、背中に冷たい汗が流れた。
「どうしたの?」
「いや別に、暇だったから」
彼はつまらなそうにそう言いながらわたしを部屋に入れた。
部屋に入った途端、後ろから強く抱き締められる。
「なあなまえ、俺のこと好き?」
好きだと言葉にするのは嘘を吐くようで嫌だった。
黙って頷くと、彼は舌打ちをしてからわたしの腕を引いてベッドに向かって投げた。
身体が宙に浮いた一瞬で血の気が引いた。
「お前さあ、俺のことなんか好きじゃないんだろ?」
「え、」
「浮気してんだろ、どうせ」
前髪を掴まれて、わたしは息を飲んだ。
それはそっちだと言い返したいのに、歯がガタガタと震えて言えなかった。
もしかしたら、わたしが浮気相手なのかもしれない、とも思った。
震えが止まらなくて絶句していると、彼の右手が振り上げられて、ああ、殴られるんだと思った。
腕を掴まれたり髪を引っ張られることは今まで何度かあったけど、殴られたことはなかった。
左の頬に痛みが走った瞬間、わたしは声を上げて泣いていた。
痛みも強かったけれど、優しい彼の顔が思い出せないことが悲しい。
荷物を持って部屋を出ると、駅まで走った。
電車に飛び乗ると、また涙が溢れてきて、もう終わりだと思った。
ズキズキ痛む左頬を抑えながら電車を降りて家へ向かった。




次の日、頬が少し熱を帯びて腫れていた。
切れた口角を隠すために絆創膏を一つ貼って、学校へ行った。
席に着くと、少ししてから三井がやってきた。
わたしの顔を見て目を丸くしている。
何か言いたそうな三井と一日中、目を合わさないようにした。
話す義理もない、目を見たくない。
友達には、タンスの角に頬をぶつけたと話して、笑った。
誰にも心配して欲しくない。
わたしが欲しいのはそんなものじゃない。


六限目の終わりのチャイムが鳴った瞬間三井が振り返る。
わたしは目を合わせずに鞄を持って席を立つ。
「おい、」
掛けられた声は、聞こえないふりをして教室を出た。
玄関で靴を履き替え外に出ると、校門の外に一台の車が停まっている。
何度も助手席に座ったことのある車だ。
運転席に座る彼は窓を開けてわたしに向かって手を上げた。
少し気が引けたけれど、運転席側のドアまで近づく。
「なまえ、昨日はごめん」
眉を下げて謝る彼を見て、溜息が漏れた。
許していいのかな、なかったことにできるかな、そんなことを考えて黙っていると、急に髪を掴まれた。
「嫌っ、」
「おい何とか言えよ」
お酒なんて飲んでいないはずなのに、髪を引っ張る力が強い。
昨日わたしを殴った時と同じ表情だ。
わたしの髪を優しく撫でてくれた手は、もうここにはない。
怖くなって目をぎゅっと瞑ると、昨日見た三井のあの目が一瞬浮かぶ。
愛は暴力じゃないと目で訴えたあの表情が。
「おい!」
後ろから大きな声がして目を開けると、駆け寄ってきた人物が彼の腕を掴んだ。
「何だテメェ」
「離してください」
顔を上げると、彼の腕を掴んでいたのは三井だった。
「お前こいつと浮気してたのかよ」
彼がわたしの髪を離してそう吐き捨てると、三井も彼の腕を離した。
昨日と同じように歯がガタガタと震えるけれど、必死に言葉を吐いた。
「違う、よ、」
彼の目は見ることができなくて、車のドアノブを見ていた。
「そうなんだろ!ふざけんなよ!」
大きな声をあげながら、彼が再びわたしの髪を掴もうと手を伸ばす。
怖くなって下を向いた瞬間、三井の腕に抱き寄せられて、髪を掴まれることはなかった。
「浮気してるのはそっちなんじゃないすか」
「はあ?何言ってんだお前」
見たことのない彼の表情に恐怖を感じて目に涙が浮かぶ。
ふと抱き寄せる力を強めた三井を見上げる。
「暴力なんて愛じゃねーよ!」
眉間に寄った皺、曇りのない瞳、何の疑いもなく言ったであろう三井の言葉に、涙が溢れて止まらなくなる。
わたしは間違っている、と言われたようだった。
「もうお前なんかいらねえわ」
彼は大きな溜息を吐いてからそう吐き捨てて、車を発進させた。
彼と過ごした時間が走馬灯のように脳裏に浮かぶのと同時に、髪を引っ張られた痛みと恐怖で震えていた脚が限界を迎えて、わたしは膝から崩れ落ちた。
三井はわたしの横にしゃがみ、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か」
大丈夫なわけないのに、心配そうな目でそんなことを訊く三井は本当にバカだ。
バカで正直で、本当に嫌になる。
「何で、助けてくれるの、」
涙が止まらなくて、息も苦しい。
だけど愛は真っ直ぐだって、三井なら言ってくれる気がした。
「お前のことずっと前から好きなんだよ」
曇りひとつない視線と言葉。
三井にそっと髪を撫でられると、少し恥ずかしくなって、それを隠すように涙を拭った。
先ほど髪を引っ張られて感じた頭皮の痛みが、撫でられることで何故だか和らいでいくようだった。
この人の飾らない言葉や気持ちをもっと受け取ってみたいと思った。
「みょうじ、」
名前を呼ばれて三井の目を見る。
さっきまで見たくなかったはずなのに、今はこの目が恋しい。
愛は優しい、と教えてくれているような気がした。
「急がねーから、オレの方向いてみてくれよ」
そう言いながらわたしの腫れぼったい左頬に触れた彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
真っ直ぐな愛を素直に受け入れる心の準備を、ゆっくり始めてみようと決意して。




20180119
暴力なんて愛じゃねえ


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