夏休みの終わりに彼女と過ごした数時間は濃くて、だからこそ朝目が覚めた時に隣にない姿に気がついて虚無感に襲われた。
窓から刺す朝日の眩しさで意識がハッキリとしてくる。
夢だったのか、という思いがふと頭を過るけれど服も着ないで寝てしまった自分を見て、そんなはずはないと確信する。
あまりにも良く眠ってしまって、彼女は呆れて帰ってしまったのだろう。
深くは考えず、オレは身体を起こし服を着て、部活に行く支度をする。
今日の練習は午後から、午前のうちに毎日自分に課しているシュート練習を終わらせなければ。
階段を降りてリビングに行くと、誰もいない。
両親はまだ帰ってきていなかった。
オレは適当に探し当てた食パンをかじって牛乳を飲み干すと、外へ飛び出した。
早くボールに触りたい。
早くあのリングに向かってシュートを打ちたい。


体育館に着くと、既に人の気配がした。
「ウース」
「あ、先輩」
そこでは流川が既にストレッチをしていた。
「流川早いじゃねーか」
「早く目が覚めて、走ってたっす」
「珍しいな」
オレは笑いながら、流川の横でストレッチを始める。
「・・・先輩」
「なんだよ」
「先輩の彼女、泣いてた」
「はあ!?」
流川からの意外な言葉に、オレは大きな声を上げてしまう。
「いつ!どこで!」
「朝方、そこで」
流川が指したのは体育館の非常口のあたり。
外に二、三段の段差がある。
「それで!お前どうしたんだよ!」
「オレがチャリ降りたら気づいたみたいでいなくなったっす」
何なんだよ、昨日の夜ずっと一緒にいたんだぞ、それも濃い時間を過ごしたんだ。
(何で泣くんだよ)
そんなことを思いモヤモヤしながらも、オレはシュート練習を始めた。
その日はイマイチ練習に集中することができなかった。
だけど悩んでいる暇はなかった。
もうすぐ冬の選抜大会の予選だ。
引退しないと決めたからには後輩たちの足を引っ張るわけにはいかない。
夏休みが終わったら、彼女に聞けばいい。
それからはもう泣かせるようなことはしなければいい。
そう思いながら、残りの夏休みの数日間をやり過ごした。




夏休みが終わって二学期の初日。
朝練を終えて教室に行くと、彼女はいつものように友達と楽しそうに話している。
「なまえ」
「あ、おはよ」
オレが声を掛けると、いつもと変わらない笑顔で挨拶をしてくれる。
何だよ、オレが心配しすぎただけだったのか、と胸を撫で下ろす。
「三井、今日部活の前に少しだけ時間欲しい」
「おう」
先日のことを話してくれるんだろうか。
オレは朝練の程よい疲労感に、深くは考えることができなかった。
放課後クラスメイトが捌けた後、ひとり教室に残ったなまえのもとへ行く。
「なんだよ」
席に座ったまま俯く彼女に声を掛けると、オレを見上げたその顔を見て酷く狼狽えた。
彼女は目いっぱいに涙を溜めて口を一文字に閉じている。
「な、泣いてんのか」
オレは焦ってかばんの中を漁り、タオルを引っ張り出した。
それでなまえの涙を拭うと、彼女は笑う。
「三井の匂いだ」
その表情に少しホッとしたのも束の間だった。
「わたしと別れて」
その表情と裏腹な言葉に、やっぱりオレは狼狽えてしまった。
「何言ってんだよ」
焦るオレとは真逆で、彼女は落ち着いている。
「三井にはバスケットが一番お似合いだ」
その一言で、オレは全てを悟る。
彼女の気持ち全てまではわからなかったけれど、意味を理解するには容易だった。
頭では一瞬で理解したつもりだったのに、感情が先行してしまう。
「オレのこと、嫌いになったのかよ」
「そんなはずないじゃん」
「だったら何で!」
少し大きな声が出てしまい、彼女は再び俯いた。
しまった、と思いながらその頬に手を伸ばす。
一瞬触れた彼女の頬は涙で濡れていて、オレはその手を引っ込めた。
「バスケットしてる三井が好きなんだ」
震える彼女の声を聞くと、オレの頭の中をぐるぐると今までのことが巡る。
「だからバスケットのことだけ考えてよ」
このひと月、好きだと思ったなまえと付き合うことができて、舞い上がっていた。
彼女もオレのことが好きだと言ってくれて、それで満足していたのかもしれない。
気がつけばまたバスケばかりになっていた。
そんなオレの背中を叩いているんだ、きっと。
「だから、わたしたちはおしまい」
顔を上げた彼女は涙を零しながらもやっぱり笑っていて、オレはやっと気づく、今まで甘えていたんだと。
「わりぃ」
何も言えなかったオレがやっと口から出せた言葉は、これだけだった。
「頑張って、三井なら大丈夫」
たった一ヶ月の彼女との付き合いは、あっけなく終わってしまった。


「先輩、1対1」
部活が終わると流川が声を掛けてくる。
「おう」
「先輩元気ねえっす」
「そんなことねー」
流川なんかに慰められてたまるか。
全日本ジュニアの合宿に呼ばれた男とはいえ、一年坊に負けるわけにはいかねえ。
意気込んで挑んだのに、今日の1対1は流川に完敗。
こいつまだまだ成長してやがる。
一緒に部室で着替えていると、流川がふと思い出したように尋ねてくる。
「先輩、彼女は」
「別れた」
「は」
「振られたんだよ、バスケだけしてろってな」
皮肉ってそう言うと、流川はオレの肩に手を置いた。
「それじゃオレに負けてる場合じゃねーっす」
「うるせー」
なまえと別れた痛みは、日に日にバスケットに解されていった。
オレにはバスケしかねえのかな、と思うと、やっぱり悔しかった。
やっと取り戻したバスケをまた手放すわけにはいかない。
だけど、彼女の手を離してしまったことは、この先ずっと後悔しそうな気がした。




それからオレはバスケ以外のことはあまり考えなくなった。
考えないように、していた。
なまえに言われたことを、忠実に守っていきたいと思った。
バスケが好きだけど、好きだから、なまえと過ごすことができたんだ。
自分の気持ちは後回しにして背中を叩いてくれた彼女の思いを無駄にしたくなかった。
なまえも受験で忙しそうだった。
教室で会ってもほとんど話すことはなくて、時々彼女を目で追うだけ。
そんな日々は足早に過ぎていき、あっという間に卒業の日を迎えた。
オレは冬の選抜大会後、そこでスカウトされた大学に進学することになっていた。
やっぱりまだまだバスケを続けたかったし、何よりバスケを続けることで彼女に誠意を示したかった。
お互いちゃんと好きだったのに、オレのことを一番に考えてくれて、オレの一番を、考えてくれた。
だから彼女に伝えなくちゃいけない。
湘北を卒業する今日、必ず。


卒業式が終わり、最後のホームルームが終わると、オレは真っ先になまえの元へ向かった。
「ちょっといいか」
「うん」
久しぶりに聞く声は、やっぱり心地良かった。
オレは彼女の手を引いて、体育館の非常口までやって来た。
繋がった手は拒否されることなく、彼女は何も言わなかった。
非常口の外に出て、段差をひとつ降り腰掛けると彼女も隣に腰を下ろした。
「なまえ」
「うん」
いざ彼女を前にすると、上手く言葉が出てこない。
なんて言ったら上手く伝わるのか考えていると、彼女が先に口を開く。
「三井、大学でもバスケするんでしょ」
「おう」
少し後ろめたい気持ちがあった。
バスケを手放せないから彼女の手を離した自分に。
「しっかりやりなよ」
「おう」
そう言うと彼女は立ち上がる。
オレは頷くためだけに彼女を呼んだわけじゃない。
「なまえ」
オレも立ち上がり、彼女の方を向く。
彼女も自然にこちらを向いてくれた。
「いつか自信持てるようになったらまた、」
「何言ってんの」
なまえはオレの言葉を遮った。
「また迎えに、」
「そんな曖昧な約束できない」
彼女の目から涙が次々に零れ落ちる。
また泣かせてしまった、と口を噤む。
でも、だけど。
「約束じゃねーよ、オレが勝手にそうしてえだけだ」
彼女の頬に触れて、涙を拭った。
「その時お前の隣に誰がいようと関係ねーし、オレを待ってろなんて言わねえよ」
オレの我儘が何度も通用するなんて思っちゃいないし、彼女には彼女の幸せを手に入れて欲しい。
なまえは涙を零しながら目を細めて笑う。
「勝手にしろ、バスケ馬鹿」
その表情を見て、オレもつられて笑う。
その笑顔が好きなんだよな、オレは。
ふと思い付いて、学生服の第二ボタンを外した。
彼女の手を取り、手のひらにそれを乗せる。
「くれるの?」
「お守り」
「なにそれ」
そう言って笑った彼女を見て、オレは溜息を吐く。
「いや、ちげーな」
これは、思い出だ。




それから4年間、オレはバスケに打ち込んだ。
「三井くん、是非うちに来てくれないか」
大学最後の大会が終わり、とある実業団から声が掛かった。
「よろしくお願いします」
オレはその人と握手を交わした。
バスケを続けてよかったと思えた瞬間だった。
大会会場を出ると、既に空は暗くなり始めている。
オレは疲れた足をゆっくり進めて帰路に着く。
心の満たされた帰り道、これまでのことが頭を巡る。
時々あの頃のことを思い出しては後悔することがあったけど、オレはちゃんと前を向いている。
まだまだバスケができるんだ。
今なら自信を持って言える。
バスケ部に復帰してよかった。
バスケを続けてよかった。
あの時バスケのことだけを考えるために手を離した彼女を信じて、よかった。
きっとあのままオレたちが続いていても、上手くはいかなかっただろうし、オレもここまで伸びなかったかもしれない。
だから、よかったんだ。
なまえにもこの選択をしてよかったと、思っていて欲しい。
オレたちは間違ってなかった、って。
4年間バスケット漬けで色恋に惑わされる時間なんてなくて、正真正銘、オレの最初で最後はなまえだけだった。
高校を卒業してから、偶然でも彼女に会うことは一度もなかったけど。
結局オレを突き動かしていたのは、いつだって彼女だった。
それはあの頃もいまも、多分これからもずっと変わらない。
進む足を止めると、目に溜まった涙を零さないように、空を見上げて大きく息を吸った。




20180209
それからゆっくり息を吐く


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