振袖を着込んで料亭へ。二十歳のときに親から譲られた赤紫の振袖に、黒と金の帯をして繊細な細工の施された帯留めを。
髪をまとめようとした母が、私のうなじを見てハーフアップに変更した。数日前に噛まれた痕が残っているのかもしれない。うなじ噛んだ程度でどうにもならないのに、どういう気持ちで噛んだのか考えるとくすぐったい。
普段はナチュラルで済ませている化粧をしっかりと強めにしてしまえば、成人式以来のおめかしになんとも言えない顔をする私の姿が鏡に映っていた。
こう見ると五年ではそれほど顔付きが変わっているようには見えない。苦労をしたからかむしろ痩せたかもしれない。二十歳の私はもう少しこう、丸かった。顔が。

「似合うわ」

「どーも」

母の言葉に引きつり笑いを返す。
案内された個室に正座で座って相手を待つ。足が痺れてしまう直前になって結婚相手は姿を現した。遅刻ではないから責めることはできない。むしろ我々が早く来すぎている。

「本日は遠路はるばる」

「いえいえ、どうぞ足を崩されてください」

形式的な挨拶を交わしてから、本題である。私は結婚相手としてここにやってきた相手の顔を見据える。睨み付ける勢いになってしまったのは反省しなければいけないが、気持ちとしてはそんな感じなので謝る気は無い。
目つきの悪い嫁に相手はたじろいだ。家柄も将来も顔も問題なしだと?伏黒恵を見てから物を言ってほしい。

「すみません、わざわざ来ていただいたのに申し訳ないのですが」

「なまえ!」

何かを察した親が私の言葉を止めようと鋭く釘を刺してきた。私はスルースキルに長けている。難なくスルーして私は立ち上がる。足が痺れる直前に来てもらってよかった。

「私、あなたと結婚する気はないので帰らせていただきます」

「なまえ!!ごめんなさいね、この子、ちょっとこう、世間知らずなところがあって」

「お母さん、私は呪術高専の補助監督なので呪術高専に骨を埋めます。死ぬまで生徒たちを助けます。神社なんて継ぎませんので」

「な、なんてことを……!」

「私を必要としてくれる生徒がいるから、私が見守らないといけない生徒がいるから、仕事は絶対辞めませんし、結婚もしません!!」

アバヨ!!と片手をビッと掲げてから私はスタスタ料亭の出口へ向かった。道路でタクシーを捕まえてさっさと東京に帰るまで、親からの連絡は何も無かった。



振袖で帰宅事件の翌日、私はこのタイミングで伏黒を送迎する羽目となっている。伏黒は本当に借りてきた猫みたいな態度で、初対面でしたか?ってくらい受け答えがつっけんどんになっているので気まずさMAXである。
そういえば伏黒を初めて任務先へ送ったときも、彼はこうだったなぁと思い出す。相槌も「そっすね」くらいしか言わないレベルで素っ気なかった。それが結婚するだしないだで揉めるほどにまで仲が進展したのだから、人と人のコミュニケーションには無限の可能性がある。

「伏黒くん、依頼の詳細を話してもいい?」

「……どうぞ、みょうじさん」

当時を懐かしんで、くん付けで呼んでみたら、これまた当時のノリでなのか拗ねてしまったのか苗字で返された。ほーう、そっちがその気なら私もやってやるぞ。謎の対抗心を私は燃やす。

「依頼主はパチンコ店のオーナーです。まぁ、お察しの通り呪霊が出るとのことで。一体一体はおそらくそれほど強さもないようですが、何しろ数が多いようで」

「……はい」

「パチンコ店であることを考えると致し方ないかと考えられます。しかし伏黒恵二級呪術師ならたいして手間取ることもないでしょう。ご武運を祈ります」

「………………」

信号に差し掛かったのでバックミラーで確認すると、伏黒はとてつもなく不愉快そうな顔をしていた。他人行儀な言い方をしたからであろうが、先に関係を巻き戻してきたのは伏黒の方だ。素知らぬ顔で車を走らせる。
特に会話をすることもなくパチンコ店に着く。車を降りて、後部座席の扉を開けた。私に目を向けることなく伏黒が下車する。少しちくりと胸に刺さったが、別に私は伏黒とお付き合いをするために結婚を断ったわけではない。こうして節々で手助け出来るならそれでよい。だから大丈夫。

「みょうじさんはもう出勤しないかと思ってました」

そっぽを向いたまま告げられて、それなと自分でも笑ってしまった。私も案外頑固だったらしい。帳をおろして伏黒を見送る。



おかしい、帳がいつまでも晴れない。

「あーこんなときに限ってもう!!」

条件反射のように五条先輩に連絡を入れようとするが、本当にこんなときに限って圏外になっている。いや、おそらく呪霊のせいで電波がここまで届かなくなっているのだろう。確かに郊外ではあるが東京都内なので電波が通ってないはずがない。

「あー!もー!」

補助監督は戦闘を禁止されている。なのでこんなときにすべきことは、電波が通る場所まで移動して応援を呼ぶことである。が。
私はパチンコ店を覆う暗闇に目を向ける。なにが正しいとかなにが間違ってるとかそんなことは全く問題ではないのだ。見守ると決めた男の子を、こんな暗い場所に置いていけるはずもなかった。頬をぱちりと叩いてから帳の中に飛び込む。

廃墟と化したパチンコ店は明らかにどんよりとした空気が漂っていて、そのまま残されている灰皿や自販機等に哀愁が漂っている。
広い建物だ。1階に伏黒は見当たらない。小さい呪霊たちが私の周りにたむろし様子見をしている。あの様子なら近付いて来ないだろうから心配いらない。
2階も見て回ったが多少壁や床の損壊が認められる程度で伏黒の面影はない。3階に上がろうと階段に差し掛かる。
突如大きな破壊音が響いた。慌てて足を動かす。
伏黒がいた。やっと見つけた。血まみれになって床に転がっている。駆け寄って息を確かめる、ちゃんとまだ生きていた。うっすらと目を開いた伏黒が私の姿を認識して口を開く。

「……なんで、ここに……」

「……なんでって」

お前を守って私も生きたいからに決まってるだろうが!イラッとして伏黒の頬をペチペチ叩く。テメーが起きなきゃ揃ってお陀仏なんじゃボケと肩を揺すって起こそうとする。
ゲホゲホと咳き込む伏黒は私をここから逃がそうとしてか懸命に口を動かして言葉を紡ごうとしている。うーん、わからん!
そんなことをしていたら当然ながら呪霊が伏黒に追い付いて近付いてくる。私は覚悟を決めて伏黒を庇うように立ちはだかる。両手を広げた。
呪霊が首を傾げている。目を離した隙に一人増えたから驚いているのだろうか。

「たかまがはらにかむづまります、すめらがむつ、かむろぎかむろみのみこともちて」

呪霊と対峙し、術式を発動させながらこんなの何年ぶりだろうと考えた。せいぜい半径2メートル強程度の結界を張ることしかできなくて、さすがにそれじゃ呪術師は無理でしょなんて言われて、なるほど確かにと納得し封印して以来である。
潰れかけている弱小神社ではあるが、私が現神主の血を引いているのは確かなので、唇を噛んで血を流し僅かに呪力にブーストをかける。それでもほんのちょっとだけ結界が強くなった程度だ。ほんと私呪術師向いてない。

「やおよろずのかみたちを」

しかも祝詞をエンドレスで唱え続けなければいけない。昨今のルーキーたちを見てるとあまりにも自分の能力が弱すぎて泣く。切った唇を動かし続けないといけなくて痛い。だからこそ血が止まらず一定の供給ができるので唇を選んでいるのだが。
何かを感じ取ったのか、呪霊が結界を破ろうと爪を立ててくる。祝詞を止めたら簡単に破られてしまう、私は更に唇に歯を突き立てて出血を増やしてから祝詞を続ける。

「あまくだしよさしまつりき。かくよさしまつりし」

私は守ること、時間稼ぎしかできない。ブツブツと呟きながら両目を閉じた。多少縛りになってくれたらいいと願って。
ガチガチと呪霊の爪が結界の表面を引っ掻いている音がしている。起きろ伏黒起きろ起きろ。結界がピシピシ罅割れる音がする。あああ久しぶりすぎて脆い。怖がるな唱えろ、伏黒恵を信じろ。

「あさかぜゆうかぜの!ふりはらうことのごとく!」

割られる、そう直感して目を開けた。目の前の呪霊が嗤う。杭を刺された薄氷のように視界に広がる罅、私は見ぬ振りをして愚直に唱える。

「のこるつみはあらじと、はらいたまいきよめたまうことを、」

ふと、背中にとんと体重がかかる。背後から私の胴体を包んだ腕が、その両手が影絵を形作っている。

「玉犬」

影から伸びて具現した犬が呪霊の喉笛を噛みちぎった。私が祝詞をやめたので、結界は罅に従って中心からぱりぱりと剥がれてゆく。
安心して身体の力を抜いた。久しぶりに起こした呪力がこれまた一気になくなったことで脱力感がものすごい。座り込もうとするが、私を背後から支える人物から不機嫌極まりない声を出される。

「……補助監督は戦闘禁止ですが」

「……戦ってないし……」

「自分の身の安全第一ですよね?」

「……結果オーライということに……」

「……はぁー、チクリます」

「やめてー!!!」

クソデカため息をかまされて涙目になりながら伏黒を振り返る。スマホを手にしている伏黒は私の必死さに微かに笑って、指で目尻をそっとなぞった。涙目どころか涙を流していたらしい。じわじわと安堵が溢れてきて目から流れてゆく。

「泣くほど嫌なら最初からやるなって」

「……ちがう。良かった、伏黒が生きてて」

「……そうですか」

私の唇も指でなぞってからなんとも言えなさげな顔をした伏黒は、スマホをピポパとして通話をはじめた。視界の隅では玉犬が呪霊をもぐもぐしている。食べ終わったら帳は消えるだろう。

「五条さんですか。伏黒で……はい、すみません、そうです、みょうじさんも呪力切れで辛そうで。……そうですね、代行呼ぶのも面倒なんで。はい、お願いします」

「ぎぇ、迎え呼んだの?」

「じゃなきゃ帰れないでしょ車あるのに」

「もう察されたじゃん。呪力切れとかバラさないでよ」

「どーせ残穢まみれなんだからすぐバレますよ」

「……そうなんだけどさ」

「結果オーライで厳重注意で済めばいいですね」

「ほんとね」