未定


 

 僕の部屋には歴史の年表がある。
 歴史の年表なんて、学業に厳しい家にならどこにでもあるであろう。それを理解したうえで僕はもう一度言う。僕の部屋にはやたらと横幅の広い歴史の年表がある。

 僕の日課は、そのやたらと場所を取る年表(あまりに長いので僕の部屋を二周してしまった)を眺めることだった。
 朝起きて眺め、家を出る前に親に怒られながら再度眺め、帰ってきてからもすぐに鞄を抱えたまま年表の前に陣取り、それからもことあるごとに年表を確認する。
 なぜそんな勉強熱心なことをするのかと言われたら、とりあえずは歴史が好きだからと答えよう。だが別に僕の学校のテストの点数は高くないので、これは単なる下手の横好きである。
 というか、僕自身意味が分からないのだが、この年表は、増える。
 本当に言っている意味が分からないとは思うが、この年表、リアルタイムで項目が増えるのである。
 発見したときは大いに驚いた。大急ぎで居間に滑り込み、滅多に観ることのないニュース番組をつけて、今か今かと『小惑星探査機「はやぶさ」の帰還』を待ちわびたものだ。親からは僕が突然社会情勢に興味を持ったように見えたようで、なんか盛大に喜ばれたような覚えがある。結局、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還がニュースとして世間に知れ渡ったのは翌日のことだった。年表は間違ってはいなかったのである。
 これはすごいことなのではなかろうか。不思議なことに、父も母もこの年表に対して違和感を全く覚えないようだ。僕しか知らない秘密なのである。小学五年生である僕の心は躍った。

 それからだっただろうか。僕は毎日新聞を読むかのような感覚で年表をチェックしはじめた。
 年表に書き加えられたすべての事項がニュースになったわけではない。特に海外で起きた出来事だと、よほどの内容でない限りはこちらまでニュースとして届くことはない。逆に言うと、ニュースで出てきた内容でも、遠い場所で起きた殺人事件だとかはあまり年表に書かれることはない。どういう基準で年表に書かれるのか否かは僕にも分からない。
 それでもやはり僕は、朝のニュースよりもいち早く情報を得ることができたし、そのせいで歴史が好きなのに時事問題の方が点数を取れるようになっていた。テストの点数がピンポイントで上がって親もまぁ喜んでいた。年表にはとても感謝している。感謝してもしつくせない。

 だけどどうして、しがない中流家庭である僕の家にこんなすごいものがあるのだろう。
 母親に近頃の年表ジャンキーっぷりを指摘されたとき、僕は自分の行動の説明ができなかった。適当に「社会情勢が気になるんだよ」と答えてその場はうやむやになったが、実際はそんなに僕の意識は高くない。
 きっと僕は、このちょっとした優越感を楽しんでいたのだと思う。
 なんてことない退屈な日常、毎日学校行ってそのまま家に帰ってくるお気楽スタイル、土日は昼まで眠る。その中で年表の存在は、僕にはとてもものすごいものに思えたのだ。
 本当に僕の部屋にあっていいのだろうか。
 僕は年表と向かい合いながら自問した。けれど答えなんて出なかった。僕が頭を抱えている間にも、年表は呑気に項目を2、3増やしていった。
 僕だけしかこの年表のことを知らない、という事実が、途端にとても恐ろしくなった。

「はぁーい! てれれれーれーれれれれーれーれれれ」
「てーれーれーれーれー」
「守山くんノリいいね!」
 ぐっと親指を突き出されたので僕は失笑を返した。
 人んちに来てそうそう鑑定団気取りでいるこの女子、中川さんという。下の名前までは知らない。
 夏休み前の終業式、の後の終礼の一分間スピーチで「将来の夢は鑑定士になることです!」と言っていたので、鑑定してほしいものがあると言ってみたらホイホイついてきた。守山ナンパかよーとクラスの奴らにからかわれたが、他でもない中川さん自身が、これはナンパではないという主張もそこそこに鑑定論的なものを語り出したので、なんだか逆にクラスメイトたちに申し訳なくなって急いで帰宅してきたのである。人選間違えたな、とイベント開始前に僕は直感した。
 そんな中川さんは物珍しげに僕の家の玄関を見、興味津々といった様子で玄関に飾ってある変な絵画を鑑賞している。たいしたもんでもないので放っておいて、僕は台所へと向かった。母の字で「冷蔵庫にアイスあります」とメモが置いてあったので、冷凍庫だろと思いながらもありがたくいただくことにした。母の帰りはいつになるだろう。中川さんと鉢合わせしたら面倒だから帰ってこなくていい。
「守山くん、どこー? あ、お邪魔しまーす」
「いらっしゃい。アイス食べる?」
「お腹壊してるからいいでーす」
 僕の気遣いも母のやさしさもすべてが気泡に帰した瞬間だった。
 数秒僕は絶句し、いや、お腹壊してるならそりゃアイスもやめたほうがいいよねと納得して僕はお菓子箱の中の板チョコを手に取る。母のものだが別にひとつ減ったところで何も言われないだろう。
 板チョコに加えコップふたつと麦茶を抱え、僕は階段を上がった。中川さんの足音がついてくる。二階には僕の部屋と物置き部屋しかない。自室の前で扉を開けず突っ立っていると、軽快な足取りで上がってきた中川さんが「こっち?」とドアを開けてくれた。お礼を言って、僕は自室に入る。遅れて入室した中川さんがドアを閉めた。
「これこれ、見てほしいもの」
「なが! ……見たけど?」
 コップに麦茶を注ぎながら年表を声で示すと、中川さんは驚いた声を上げたのち5秒くらい年表をガン見した。不思議そうな顔をして振り返るので、半分ほど麦茶を注いだコップを渡す。
「中川さん、歴史詳しい?」
「縄文弥生あたりには自信あるけど」
「なぜそんな先史時代……」
「かんのなのわの? っていう言葉の響きが好きで。好きな古墳は前方後円墳」
「中川さん英語の方が得意なんじゃない? 発音、そういえば先生に褒められてたでしょ」
「時代はグローバルだからね!」
「グローバルだよねー」
 いやはや本当に。
「あ、ほら。フランスの大統領の選挙だって」
「へぇ。まぁわたし日本から出ないから」
「……時代はグローバルだとさっき」
「わたしは時代の波に流されない女だから」
「つよい」
 ぱきりと割った板チョコを分け合いながら僕たちは世間話をする。暑かったのか、中川さんは麦茶を一気飲みした。あまりにも豪快に飲むものだからお腹を壊していたんじゃなかったっけと心配になった。案の定中川さんはお腹を押さえて眉根を寄せる。ゆっくり飲んだ方がいいよと声をかけてから、僕はそろそろだろうと年表を見遣った。
 年表の秘密を理解してもらうには、実際に中川さん自身に気付いてもらったほうがいいと判断した。僕はわざとらしく中川さんに目線を送り、「あの年表さ」と年表トークを振る。
 中川さんは話題に出された年表を当然視界に入れる。年表に記載してある最新の出来事の欄を読んだらしい彼女は、突如ぴんと背筋を伸ばした。
「え、え?」
「お分かりいただけただろうか」
「……え? は?」
「もう一度ご覧いただこう」
「いやいやいや、ちょっと待って守山くん……て、テレビテレビ!」
「落ち着いて」
 焦った中川さんがテレビを探して僕の部屋をちょこまかと走り回る。僕の部屋にはテレビなんて文明の利器は存在していないので、リビングに降りることにした。
『フランス大統領選挙開始』までしか載っていなかった年表には、今や新たに『エジプトにて異常気象』の文字が並んでいる。あの数分の間に更新された事項だ。中川さんが、いつぞやの僕のように真偽を確かめようと躍起になっている。微笑ましく思いながら、僕はリビングまで中川さんを案内した。
 テレビをつけてチャンネルを数回変更する。さすがにエジプトの出来事なんてニュースにならないか、と思っていたが、とある番組を映した途端中川さんが興奮した様子で声を上げた。
「守山くん!」
「おう」
「……フランス大統領選、って、そういえばテレビで放送された……?」
「多分まだされてないね」
 ひょうひょうと僕が答えた直後に、ニュース番組が速報としてフランス大統領選について言及しはじめた。おっと、まだ世間に広まっていないはずの情報だったのか。僕よりもテストの点数が良い中川さんは、頭の回転も僕より速いようだ。
 中川さんは両目を見開いてから僕を見た。目がものすごくキラキラしている。あの年表がどのようなものなのか分かってもらえただろうか。
 走ってドタドタと僕の部屋に戻って行ってしまったので、僕はテレビを消してからゆっくりと歩いて自分の部屋まで戻った。年表を食い入るように見つめる中川さんは、戻ってきた僕に気付くなり「ペンを貸してください」と何故か敬語で頼んでくる。
「いいけど、なんで?」
「なんででも。もしかしたらって思って」
「ペンって例えば?」
「マジックとかサインペンとか」
「ちょっと待ってね」
 筆箱の中には無かったので、手当たり次第に机の周辺を探して回る。整理整頓をちゃんとしていればよかった。早く早くと急かされながらやっとのことで黒のマッキーを見つけ、僕は中川さんに手渡す。
 受け取った中川さんは細い方のキャップを取り、そしておもむろに、年表に縦線を引いた。
「あ!」
「ごめん! でもわたしの直感が合ってるならこうしたら多分」
 中川さんは謝罪しながらも手を止めない。彼女は何年も前の『オゾンホール発見』の項目に、フリーハンドでありながら見事な縦線を二本引いた。黒マッキーなんて取れないのに、と僕は今更ことの大きさを理解して、中川さんの勝手な行動を非難しようとする。
 したんだけど、年表に異変が起きた。
 年表に点在していたオゾン破壊関連の項目がこぞって消えていったのだ。僕はぽかんとせざるを得なかった。ちょっと待って、どういうことだろう。
 僕が理解できなくてあわあわしている間に、中川さんは勝手に僕の鞄を開けて、勝手に社会の教科書を取り出して、勝手に何かを確認して満足げにしている。何をしているんだと中川さんに近付いたら、彼女は社会の教科書のとあるページを掲げてきた。
 オゾンホールの写真、があったであろう場所だ。僕の眠りかけの汚い字で『オゾンホール』と書かれている。
 けれど写真内にはオゾンホールらしきものは見当たらなかった。写っているのはどこからどう見てもきれいなオゾン層なのであろう球体だ。思わず中川さんを見る。
「中川さん、これって」
「うわー鳥肌立った! ってことは書いてもいけるのかな? デスノートみたい!」
 きゃっきゃと楽しげに中川さんは年表に書き込みをしていく。おいおいおい。もし本当にあの黒いノートのように影響が出るのだとしたら、軽率な行動は控えようと普通思わないものだろうか。
 中川さんを止めようとしたら、中川さんが瞬時にこちらを向いて僕を指さして笑いだした。とっても嫌な予感がして、とりあえず年表に何を書かれたのか確認してみる。
「守山くん金髪似合う似合う!」
「やめて! 似合わない消して! ……消せ!」
「こえええ!」
『守山優旭、金髪になる』とかいう何書いてんだこの人と言わざるを得ないレベルの嫌がらせをされて僕はご立腹である。中川さん僕の下の名前知ってるんだな、と思ったけど、別に知られていたからと言ってどうということではない。
 それからマッキーの奪い合い合戦が開始され、僕だって一応男なのですぐにマッキーを奪取することができた。縦線二本で雑に該当の項目を消し、やりすぎたと反省している……わけがない中川さんに、没収だと告げてマッキーを机の引き出しに仕舞う。中川さんは不服そうに頬を膨らませたが知ったことか。
 とはいえ僕の髪が一瞬金髪になり黒髪に戻ったという事実は覆せない。歴史上は、多分、僕のそんな一瞬だけの非行なんてなかったことになっているのだろう。知っているのは僕と中川さんだけだ。
 自分の目でしかと見たくせに、理解が及んでいないふりをしてしまいたくなる。なんだかとっても怖い。
「守山くん、わたしいいこと思いついた!」
「……へぇ」
「何その目。違う違う、別に守山くんの髪を銀色にしようとかいうわけじゃなくてね」
「本当にやめてねそれ」
「わかってるってば!」
 焦ったように片手を振った中川さんは、さっきまでのしおらしい様子とは一転してにんまりと笑顔を浮かべた。全然、いいこと、なんて思いついてないんだろうな、と僕は遠い目をしてしまった。中川さんのことなんて元気な女子という印象しか持ってなかったけど、認識を改めるべきかもしれない。結構いたずら好きのようだし。
「あのね、これ夏休みの自由研究にしようよ」
「……は?」
「去年すっごく大変だったから」
「……はァ? ちょっと言ってる意味がよくわからない」
「だから!」
 なんか勢いがついた中川さんは両手でバシンと机を叩いた。僕は驚いて身を引く。引いた分だけ中川さんは距離を詰めてきて、きらきらした瞳を向けてきた。う、うわぁ。
「自由研究でこの世をよりよいものにしよう!」
「スケールが小学生の自由研究のそれじゃないんだけど……」

次の日。
「中川でーす」
「はーい」
 中川さんは昼過ぎごろに普通にうちに遊びに来た。母は今日も今日とて仕事なので、家には僕と昨日の夕飯の残りのカレーのみしかいない。翌日に友達が遊びに来ると知った母は、嬉しそうに夏野菜カレー(ピーマンが入っているので僕は好きではない。でもそれほどピーマンを感じないので嫌いでもない)をいつもの二倍作った。明日お昼でも夜でも友達と食べてね、といった感じだ。食べないかもよと伝えはしたけど、それならそれで私が食べるからと母は終始上機嫌だった。
「いらっしゃい中川さん。お腹空いてる?」
「実は昼食べてない」
「そっか、カレーならあるから食べて」
「ワーイ」
 カレーにピーマンを使っていることは黙っておいた。知らずに食べたら普通に食べられるカレーだから。冷凍してあるご飯をレンチンして、僕自身も昼に食べたばかりのカレーを改めて火にかける。食べきれなかったらちゃんと冷蔵庫に入れないと母に怒られてしまうから、その点でも中川さんに食べてもらった方がいい。
リビングのテーブルに案内してカレーを出すと、中川さんは勢いよく両手を合わせて食べ始めた。僕は麦茶を注いで飲みながら、中川さんのお向かいに座る。
中川さんと二人きりでドキドキ……しなくもないけれど、中川さん自身がそのドキドキをぶち壊しにかかってくるから僕は生暖かい目で中川さんを見守るのみだ。決して汚いなんてことはないけど、まぁ普通によく食べるねという感想が浮かぶ勢いで中川さんはカレーを食べていく。女の子ならもっとこう、少しずつ食べるイメージだった。けれどもスプーンを持つ手の小ささを見ていると、やっぱり自分とは生き物としての造りが違うんだろうなと不思議な気持ちだ。母とも違う。母の手はあれほどきれいではない。
「ん? なになにーカレーを食べる姿に萌えるタイプ?」
「ヤバいやつじゃんそれ」
「そう思っちゃうレベルでわたしのこと見てたよ」
「よく食べるなぁと思ってただけ」
「お腹空いてたんだよー! いろいろ入ってておいしいねこのカレー、ちょっと酸っぱい感じがまたいい」
「トマト入れてるからじゃないかな」
「守山くんが作ったの?」
「守山マザーが作った」
「そうなんだ、ママさんにありがとうございましたって伝えてて」
「……ん」
 照れ臭くなって僕は顔を背ける。中川さんに食べてもらえてよかったと思えた。きっと母も喜んでくれるだろう。女の子を家に入れていることを気付かれたくはないから、うまくごまかさないといけないけれど。
 なんだかこそばゆくなったので、別の話題を探すためにも僕はテレビをつける。昼過ぎのニュースの時間だ。最近ニュースばかり見てるから自然とチャンネルを合わせてしまった。この時間なら他に面白い番組もあるだろうと、僕は番組表を出す。
「あ! そういや昨日台風が」
「中川さん、僕が洗うから置いてていいよ」
 食べ終わってお皿を台所に持って行った中川さんが口を開いた。確かに台風が近づいていると昨日の夜やっていた気がする。お皿を洗おうと蛇口をひねった中川さんを止めてから、僕は見ていたニュースに改めてチャンネルを合わせた。中川さんと入れ違いになって僕は流し台に向かう。
「ありがと」
「僕が食べたお皿もあるから」
「偉いねぇ」
「……いつも仕事で母さんがいないから」
「やらないと怒られるの?」
「そうではないけど、疲れて帰ってくるし」
「優しいね」
「怒りはしないけどため息吐いたりするからさ……」
「あー」
 なんだか納得したように中川さんは気の抜けた声を出した。僕がお皿を洗うカチャカチャという音をBGMに、ニュースで台風の情報を伝える声が流れる。台風18号。大型で非常に強い。この辺を通るのだろうか。気になって泡だらけのスポンジを置いてテレビに注意を向ける。
「来るかな?」
「うーん、かすっていく感じかな」
「雨は降るよね」
「嫌だね、夏休みなのに」
 もともと休みなのに家にいないといけないなんてなんだか損した気分だ、と中川さんは言う。僕はそうでなくても家にいることが多いからどうでもいいけど、夜にゴーゴーうるさいのは困る。ちゃんと夜寝て朝起きる生活を続けないと二学期をまともに迎えられないから、僕は規則正しい生活を心がけていた。
「ねぇ守山くん」
「うん」
「台風消したいなぁ」
「……」
 皿は洗い終わった。スポンジに残った泡を洗い流して、僕は中川さんに近付く。中川さんはこちらを見て、少々ばつが悪そうに首を傾けた。
「だめ?」
「いいんじゃない。僕も嫌だし」
 中川さんは嬉しそうに笑った。

 中川さんは自由研究にしようと言っていたとおり、過程を記録に残そうとノートを持ってきていた。興味深そうにする僕に気付いてノートを見せてくれたが、どこからどう見ても普通によくあるキャンパスノートである。
「どう書くつもりなの?」
「どうしようかな」
 僕ですら中川さんに説明するのを面倒がって実際に実物を見せる方法を選んだのだ。昨日年表のことを知ったばかりの中川さんが、自由研究としてこの不思議な内容をまとめられるとは思えない。手助けしてあげようもなかったので、僕はスルーしてマジックペンを手に取った。不服そうな中川さんがノートにシャカシャカと字を連ね始める。
「とりあえず、台風発生の部分を消せばいいんじゃない」
「年表はそれでいいと思うよ。自由研究は無理じゃない?」
「なんで」
「やってみればわかるかな」
 昨日の現象を思い出すに、その、ノートに書いたところで何の意味もないような気がするんだよなぁ。
 中川さんは眉根を寄せながらも、丸っこい字で新しいページに字を書きはじめる。『自由研究』『守山家の年表について』『実験』『台風18号発生』『を、消す』。中川さんはここで僕を見上げた。年表に書けと催促している。僕はどうにでもなれと思いながら、台風18号発生の部分に二重線を縦に引いた。フリーハンドだからぐにゃぐにゃしてしまって、見栄えは全く良くない。
「あ」
 中川さんが声を出す。ノートを覗き込むと、先ほど中川さんが記入していた『台風18号発生』が消えてしまっていた。
「そうだった……」
「教科書のが消えたんだからノートだって消えるよね」
「え、駄目じゃん」
「駄目だね」
「えー自由研究また考え直しかー」
「塩水とか凍らせてけばいいよ」
「守山くんカブトムシとか育ててよー」
「嫌だめんどくさい」
「ひどーい」
 酷さで言えば絶対中川さんの方が酷いに決まっている。あまり言い合いするのも不毛なので、僕は知らん顔してリビングに向かった。本当に台風が消えてしまったのかを確認したかった。中川さんがついてきているのを感じながら僕はテレビをつける。ニュース番組の時間は終わっていた。
「守山くん、番組表見よう」
「……あ、そっか」
 指摘されて、ニュース番組でも詳細欄にどういう内容をするかが簡単に書かれていることを思い出した。リモコンを操作して番組表を見る。ひとつひとつのニュース番組を選択して詳細欄を確認していく。
「……ううーん」
「見当たらないけど」
「こうなる前を確認してないからわからないな」
 そりゃそうだった。これ以上調べても仕方がないなと納得して僕はテレビを消す。なんだか実感がわかないのは中川さんも同じらしい。腑に落ちなさそうな表情で僕の部屋に戻る。
「消したよねー」
「うん、ニュースで台風の話をしそうでもないし、消せたんじゃない?」
「夜にならないと分からないかぁ」
 あつかましくも僕のベッドに転がった中川さんが、疲れたとでも言いたげにうーんと伸びをした。僕は椅子に座って年表を見遣る。僕の汚いフリーハンドで確かに二重線を引いている。別に、僕は台風が来ようがどうだろうがそんなに気にしていない。どちらかといえば来ないといいかな、くらい。どうして中川さんは台風を消したいなんて言い出したんだろうな。改めて聞くのも無粋な気がした。だって中川さんは休みなのに出かけられないのは嫌って言ってたわけだし。何かめっちゃ出かけたい用事があるのだろう。
「どこに行くの?」
「え?」
「台風嫌だったんでしょ。どこか遊びに行く用事があるんじゃないの」
「……そりゃ」
 中川さんは起き上がって目をぱちくりとさせた。
「守山くんちだよ」
「僕んちかー」
 引きこもりだと哀れまれているのかな。別に僕は引きこもってるわけじゃない。わざわざ連絡してまで遊びに行くような友達がいないだけで、こっちが誘えば数人くらいは遊んでくれる男子がいる。中川さんは続けた。
「今年は守山くんと遊びたいと思って!」
「中川さんも友達いないよね」
「失礼! 誘えば何人か遊んでくれますー」
 中川さんが怒ってベッドを叩く。なるほど、つまり僕らは似た者同士だったというわけだ。まあ、中川さんってクラスの中でも割と浮いてる感じだったもんな。女子の仲良しグループなんて全く知りもしないから、僕が見ていた範囲での憶測だけれど。だからこそ女子でありながら僕でも話しかけやすかったわけで。
 
その日の夜、寝る前に中川さんから電話が来た。ニュースで一言も台風の話が出なかったから、台風ちゃんと消えてたよという報告だった。僕もニュースを見ていたので、よかったねと返答をした。嬉しそうな声音に、こういう使い方なら嫌な思いをする人が一人も出ないのだから許されるのではないかと、そんな気がしてしまった。

 自由な夏休みといえど、定期的に学校に行かなければならない。これを登校日と言い、ただ学校に行くだけならまだしも、ちゃっかり宿題の提出を求められたりするので曲者なのであった。
 朝から憂鬱な気分で食パンをかじる。えっ、知りませんでした! とすっとぼけて休んでしまいたい気持ちがとてもある。台風をそのままにしていたら、もしかしたら休みになったかもしれない……いや、そんなこと考えたって今更だ。牛乳で食パンを流し込んで、時間を確認するために点いていたテレビをなんとなく眺める。
「今日猛暑日だって。ちゃんと水分摂るのよ」
「スポーツドリンクがいい」
「駄目、溶けるから」
「氷が?」
「水筒が」
「そうなの?」
 それは一大事だ。甘いもの飲みたさに浅はかなことを言った自分を恥じる。水筒に麦茶をトクトク注いでいく母が、僕の視線を受けてひょいと肩を竦めた。
「昔の話だけど」
「じゃあスポーツドリンクがいい」
「駄目、もう入れた」
 時間稼ぎをされたような気分である。複雑な気持ちで空いた皿を台所まで持っていく。母親が微笑みながら受け取ってくれた。
「午前で終わり?」
「うん」
「お昼ご飯は冷凍してるパスタでいい?」
「それしかないんでしょ」
「ナポリタン、ミートソース、たらこスパ、好きなものを選んで」
 仕事があるので母親は若干急いでいる。ほとんどいつも仕事があるので、この人はほとんどいつも朝は急いでいる。僕はランドセルを背負って、テーブルに置いてある水筒を首からかけた。
「行ってらっしゃい」
「うん」
 猛暑日というだけあって、外に出ただけで汗がじわりと噴き出してくる。今すぐUターンして帰りたくなったが、そんなのは母親が許さないので大人しく通学路を歩いた。
 教室に入ると扇風機が点いている。クラスメイトが思い思いの格好で扇風機の風を浴び涼んでいる中、僕は周りと一緒になって両手を広げる気にはなれずにそっと自分の席に着いた。ここからも風は多少は届くので問題はない。水筒から麦茶を飲んだら、身体の火照りも落ち着いた。カランコロンと氷の音が耳に心地いい。
 本日提出の宿題を確認する。漏れがないかと算数ドリルをペラペラと捲っていたら、いつの間にか登校していた友達が僕の手元を覗き込んでいた。
「えらーい」
「やってなさそうな言い方」
「俺さぁ、思ったんだよね」
「何を」
「罪を認めることも大事だなって」
「やってないんだね」
 彼はそのまま前の席に座って項垂れた。確かに自分のしたことを認めるのは大事だろう。世の中の真理だ。幼稚園から言われている。当たり前のことだ。
 なんと言えば慰められるのか分からず、僕は話すのをやめて外を眺めた。どこかで蝉が鳴いている。肉眼で生きた蝉を最後に見たのはいつだったかと思いを馳せる。死んだ蝉ならよく見かけるのに。
「おはよー!」
「おはよ中川さん」
 中川さんと、中川さんじゃない女子の声がする。中川さんは同じクラスなので、登校日なら当然僕と同じ教室に登校してくる。横目で彼女を確認したかったけど、どんな目線の向け方をしても不自然になるだろうと予想できた。意識をしすぎるのもおかしい話だというのも分かっている。恥ずかしさもあり、何故か怒りもあり、結局僕は山の向こうの入道雲を眺めるしかない。
「優旭、何か嫌なことでもあった?」
 前の席の友達が僕の様子を訝しがる。夏休みに入る前、こういうときは何をしていたんだったか。数秒考えてから、何ともなしに見ていた入道雲を指さした。
「知ってる?あのデカい雲の下、すごい雨降ってるの」
「そうなの!?」
「調べたんだよ。自由研究で」
「俺の自由研究もそれにするわ!」
「パクるな」
 やってないけどな自由研究。入道雲の下まで行くというのもアリと言えばアリか。山を越えるのは大変だから、まぁあのへんに近付いてきたときにでも。
 この友達と一緒に雲を追うのもいいかもしれない。と、少しだけ思ったが僕は首を軽く横に振った。こいつは、僕が後ろの席だから気を遣って話しかけてくれるだけなのだ。誘ったらもしかしたら考えてくれるかもしれないが、僕以外の友達もいるし、スポーツもやっていて忙しい。断られたら気まずいのでやめておいた方がいい。
 友達と話している最中、自然な動作で中川さんを見遣ることが出来た。彼女は穏やかな表情で隣の女子と話をしている。つい、と目を逸らした。見ていても何にもならないからだ。
「頭でも痛いの?」
 落ち着かない僕の様子に、友達から心配そうな声が掛かる。僕は再度首を横に振った。

「絵、やっとけばよかったな」
 僕の家でミートソーススパゲティを箸で食べながら中川さんが呟いた。今日は登校日で、確かに絵の宿題を提出することはできたが、別に期限が今日という訳では無い。現に僕もまだ何を描くかすら決めていない。この夏、わざわざ絵の具で描きたいほど記憶に残るものなどありそうにない。
 一緒に描こうなどという流れになったら困ってしまうので、僕は何も言わずにナポリタンを箸で掴む。フォークを出しても良かったが、日本人だからか箸の方が食べやすいのである。
「今日持ち物少なかったから、出しておいたらオトクだった」
「スーパーの安売りみたいに言うね」
「うーん、効率がいいというか」
 中川さんは首を傾げて宙に視線を飛ばす。分かりやすいようにか中川さんが言い換えたけれども、未だ僕は同意出来ないのであった。
「紙一枚のことじゃん」
「その紙一枚を甘く見ちゃだめだよ。あっ、筋肉ムキムキの守山くんには分からないかー」
「んん……」
 予想外の方向からの揶揄に変な返答をしてしまった。休みは家でゲーム三昧の僕を掴まえて何を言い出すのやら。見てみろこの白い腕。ほっそほそのガッリガリである。
 皮肉がぶっ刺さって上手く麺を飲み込めない。慌てて麦茶で流し込んで息を吐く。クリティカルヒットを自覚していない中川さんは、知らん顔して箸を進めている。ロールプレイングゲームなら盗賊とかに向いているタイプだ。急所率高め。
「僕はゲームしかしてないから……」
 むしろ、ゲームしかしたくないから。この夏休みも、何本か骨太のアクションゲームをクリアしようなどと考えている。食べ終わった中川さんは、不満そうに目を丸くした。
「遊びに行こうよ」
「やだよ暑いのに……」
「プール行こうプール。水の中なら暑くないでしょ」
 ね! と中川さんは嬉しそうに笑った。僕は言い募りそうになりながらも言葉を飲み込む。自分の反論が、コミュ障の屁理屈でしかないことを理解していた。
 そして、まぁ、プールはいいかもしれない。涼しいし、泳ぐのは嫌いではない。同時に、宿題の絵の題材も決まった。プールを描こう。水色で塗ればいいし簡単だ。
「いいよ行こう」
「やった!今日は水着持ってきてないから、また後でね」
「水着」
 そうだ中川さんは女子だ。プールなら水着を着るのは当然だった。喉が渇いて唾を飲み込む。恐る恐る聞いた。
「水着……って?」
「水泳の授業で着てるじゃん。あれっ、市民プールだよ?」
 いつの間にか肩の辺りに力を入れていた。中川さんの返答を聞いて、ぷしゅーと力が抜けていくのを感じる。いや、そうだよな。わざわざ子どもふたりで遠くのプールになんて行くわけがない。
 脱力して、テーブルに伸びた。頬に当たる部分がひんやりとして気持ちがいい。謎に火照った顔面をクールダウンさせてくれる。ぐいと伸ばした手を、向かいの中川さんがつんつんつつく。
「何か期待したの?」
「してない」
 食い気味で即答する。そっと目だけを上げると中川さんがにやにやとほくそ笑んでいた。焦った僕は声を張り上げる。
「してない!」
「ホントかなぁ」
 意地の悪い笑い方だ。中川さんは立ち上がって、お箸と食べた容器を台所まで持っていった。僕も残りを食べて中川さんの後を追う。
 ゴミ箱に空容器を捨てた中川さんは、スポンジを握りながら振り向いた。モコモコ泡が立っている。僕に向けて手のひらを差し出して、箸を受け取ろうとしてくる。
 僕は箸を背に隠した。中川さんがムッとする。
「洗うよ」
「僕がするよ」
「お箸だけだし」
「お客さんに洗わせるなんてことしないよ」
「でもスポンジはわたしが取っちゃったもんね! 渡してくれないとこれで守山くんの顔洗っちゃうぞ」
「やめてください!」
 眼前に迫り来るモコモコスポンジの圧に耐えかねて、悲痛な声を出してしまった。軽快に笑い声を上げた中川さんに、渋々箸を手渡す。
「今日もわたしが来なかったらゲームしてたの?」
 上手に箸を洗う中川さんの背を眺めていたら、少し前の話題をぶり返された。僕は「うん」と返す。返事を聞いた中川さんが、洗った箸を布巾で拭きながらこちらを向いた。
「じゃあゲームしよう」
「え」
「守山先生教えてください」
「お、おう……」
 ぺこりと頭を下げられて、気恥ずかしくなり頬を掻いた。

「守山くんすごい強い」
「これでもクラスで5番目くらいの大乱闘厨なのでね」
「トップ目指しなよ」
「そんな簡単に目指せるもんじゃない」
 中川さんの操作するピンク玉が殴られて吹っ飛んでいった。おお飛んだ飛んだ、と目を細め画面内を眺める中川さんを横目で見ながら、僕は黄色いネズミを走らせる。すぐに復活したピンク玉だったが、ろくにステージを歩かせてもらえないままにコンピューターに袋叩きにされはじめた。初心者判別機能でもついているのだろうか。
 わたしマジゲームへたくそだから! ときゃいきゃい笑っていた中川さんだったが、本当にマジへたくそだった。
 まず、大乱闘ゲーをしているというのにも関わらず、歩く。中川さん自身もコントローラー放置でうろうろするし、中川さんが選んだピンク玉も場違いなことにてくてくとステージ内を歩く。中川さんは部屋に持ち込んだクッキーをもしゃもしゃ食べたりなどしている。潜在的にゲームに向いてない人っているんだなと僕は思った。
 とは言っても、女の子とゲームをしたのなんて中川さんが初めてだ。もしかしたら女の子はみんなこうなのかもしれない。女心は気まぐれのようだし。
「わたし守山くんがやってるの見るだけでいいや」
 早々に吹っ飛ばされて手持ち無沙汰になった中川さんが、コントローラーを床に置いて麦茶の入ったコップを手に取った。自分がやりたいと言ったんじゃないか。と思ったけど、嫌がる人に無理矢理させてもどうしようもないので、僕は頷くことで中川さんに了解を示す。
 ピンク玉を袋叩きにしていた二体をさっさと脱落させて、一息ついたので僕は中川さんの様子をうかがう。家に来てくれているのだからあまり退屈してもらいたくないなと思ったのだ。中川さんは言っていた通り僕を、というか画面を見ていたので、振り返った僕に対してきょとんと首を傾げた。
「もういいの?」
「中川さん暇でしょ」
「楽しいよ? クッキーあるし」
「食べすぎると晩ご飯食べられなくなるから程ほどにね」
「そういうのは別腹なんだよ」
「……へぇ」
 女子ってわかんないなぁと確信した瞬間だった。
 中川さんもゴーサインを出してくれたことだし、僕は気にしないことにしてもう一度ゲーム機の電源を入れる。ボタンを連打してキャラクター選択画面にたどり着く。使い慣れているので自然と黄色いネズミを選ぼうとしたら、後ろから引き止める声がかかった。
「守山くん」
「なに?」
「あの緑の人使ってよ」
「……え、別にいいけど」
 ちゃんと使えるかな、とは思ったが、ムキになって断るようなものでもない。中川さんが指さした先にいる緑の勇者を選んでから、僕はコントローラーをしっかりと持ち直す。
 軽くて行動の早いキャラが好きだから、このキャラクターは今まで数回しか使用したことがなかった。ボロクソに負けたら恥ずかしいなぁとついつい気合が入る。
「わぁー守山くん目がマジになってる」
「……テレビの前に躍り出るのやめてくれないかな」
 ポーズを押し忘れてしまったので、僕の操作キャラは突進をくらって画面外に飛んでいった。興が削がれてしまって僕はコントローラーをその辺に置く。投げようかと一瞬思ったけど、壊れてしまったらとんでもない。
「もう終わり? ゲーム変えようよ、わたしにも出来るやつ」
しかし中川さんはゲームをしたいという。なんだろうこの意欲と思ったけど、いいよ、と僕は軽く返答した。でも女の子がやるようなゲームを僕は持っていただろうか。さっきまでやっていた大乱闘か、サッカーのゲームか。あとちらほらとロールプレイング。さすがに女の子とやるようなゲームではないことは僕にも分かる。
 焦った僕はゲーム箱を漁りに漁って、とりあえず女の子でも出来るような操作の簡単なカセットを二つ選び出した。中川さんはゲームがドへたくそなので、操作の難しいものはやめておいた方がいいだろうと判断したのだ。
 候補に挙がった片方はこちら。レースゲーム。僕自身はそこまで得意ではないが、これなら女子でもお手軽に楽しめると思う。有名だし。
 もう片方はこれだ。パズルゲーム。同じ色のこのスライムみたいなやつを4匹くっつけて消していくという単純ながらに深みのあるゲームだ。こちらも同じく僕自身はそこまで得意ではないが、頭のいい中川さんなら多分僕よりも最大限に楽しめるのではないだろうかと思う。
 その二つを中川さんに掲げてみせてから意見を待つ。
「どっちにする?」
「守山くん任せで」
「僕どっちも普段やらないから」
「やらないの持ってるの? 男子わかんない」
 そうでしょうね。僕も分からない。
 中川さん的には本気でどっちでもいいらしい。実はそこまでゲームやりたいわけじゃないんじゃないのと思ったが、指摘したところで話が拗れそうだったのでやめることにした。本人に決める気が皆無なようなので僕が決めなくてはならない。うーん。
「中川さん、こっちにしよう」
 レースゲームに決めた。中川さんを手招きで呼んでから僕はゲーム機本体にカセットを突っ込む。がしゃりと電源を入れて、隣に座った中川さんにコントローラーを差し出した。特徴的な形をしているコントローラーに中川さんは興味津々である。
「これを今からハンドルだと思って」
「なにそれ……無理がある」
「無理があるかもだけど頑張って」
 そんなこと言われちゃ何のゲームもできなくなってしまう。変にリアリティを求めてしまうタイプなんだろう。
 スタートボタンを連打してキャラクター選択画面に移る。中川さんはてっきりお姫様でも選ぶだろうと思っていたが、案外キノコを選んだ。僕は深い理由もなく緑の恐竜を選ぶ。コースをランダムにし、お約束のようにレインボーロードに決まったので笑ってしまった。画面が派手なので最初だけ中川さんは喜んでいた。最初だけ。
「守山くんこの亀の煽りどうにかして」
「逆走してる逆走してる」
「どっちが!? 前も後ろも分からない!」
「落ちればいいよ」
「非情だね守山くん」

 別の日、中川さんがプールに行こうと誘ってきた。
 約束したでしょう、とか、実は泳ぐのが上手じゃないから練習したいとか、そういうことを中川さんは電話口で語っている。僕は了承した。
 学校でもお馴染みのスクール水着というやつを着ている中川さんが水泳帽をかぶれなくて四苦八苦している。市民プールなので衛生面的にもオシャレにノー帽子というわけにはいかない。手伝ってあげようもないのでぼーっと眺めていたら、中川さんはやっとのことで髪を帽子の中に収めることができた。
「誘っておいてなんなんだけど、守山くんって泳げたっけ?」
 プールサイドに腰かけて水を足でバシャバシャしている中川さんが問いかける。胸に『中川』と堂々記名されているのが何とも言えない。あまりそのあたりを見ていると変な誤解をされそうだったので、僕はすぐに目線を水面に向けた。少しだけ勢いをつけてプールの中に座った体勢から飛び込む。
「得意じゃないけど好きな方だよ」
「クロールとかできる?」
「二十五メートルは泳げる」
「男子は泳げないと居残りだったもんね」
「うん。居残りは嫌だと思って授業すごい頑張った」
「体育の先生怖いしね」
 わかるわかる、と言いたげに中川さんが声のトーンを上げていく。僕は何故だかちょっと居たたまれなくなって、ゴーグルを装着してプールに沈んだ。市民プールにいるのは僕たちだけではないのだ。
 どぼんとプールがたわむ感覚がした。横を向いたら中川さんがいたので、中川さんもプールに飛び込んだようだ。
 そろそろ息もやばいので僕は水面から顔を上げる。水中で見た通り中川さんは僕の隣にいた。胸に書かれた『中川』の真上くらいまで水に浸かっている。当然のことなんだけど、中川さん僕より背が低いんだなぁと改めて思った。
「中川さん練習したら?」
 午後から来てしまったからあんまり長居もできない。もともと練習したいと言っていたはずなので、僕は親切心のつもりで中川さんに声をかける。
 中川さんはうんと答えてはくれたがあまり気が進まないようで、ふらふらとプール内を歩き回ったり少し潜ってみたりしている。不思議ではあったけど、別に強制するものでもないので僕は中川さんをぼんやりと見つめるだけだ。見つめていたんだけど、途中で気恥ずかしくなって適当に天井を見たりもした。知り合いがいなくて本当に良かったなと思う。
「ねぇ守山くん」
 僕自身泳ぐ気にはなんだかなれなかったので、ひたすら天井を眺めていたら中川さんが僕を呼んだ。やる気ゼロだったので怒られるかな、と思っていたがそういうわけではないらしい。
 中川さんは僕の目の前まで寄ってきてから「あの」と口を動かす。なんだろう。
「なに?」
「守山くん泳げるんだよね?」
「まぁね」
「……あの、ちょっとでいいからクロール教えてほしいなって……」
「え」
 中川さんが目線を落としてもじもじとしながら言うものだから僕は固まってしまった。
 僕は泳ぐのは嫌いではないが、それが人に教えられるレベルのものなのだとはとても言えない。水泳教室に通っているわけでもないし、僕にはスキルというものがない。だいたい僕がクロールだとか言っても、プロからしてみたら全然姿勢がなってないに違いない。
 どうしようかな、と思っていると、中川さんは僕が嫌がっていると判断したのか胸の前で両手をひらひらと振った。
「強制じゃないから! ノーと言える日本人大事!」
「……別に嫌じゃないけど」
「え! じゃあ教えてくれるの!」
「でも僕、それほど上手じゃないし上手く教えられる自信ないよ」
「いいのいいの! わたしが一人でやっても本当になんも得られるものなくってさ」
 えへへへと照れくさそうに笑った中川さんにつられて、僕も自然と頬が緩む。
 とりあえずバタ足からじゃないかなと思って両手を彼女に差し出すと、中川さんはじっと僕の顔を見たのちにぎゅーっと両手を握ってきた。中川さんの手は小さかった。当然だ、だって女子なんだから。
「教えてください先生!」
「たいしたこと教えられないよ……」
「わたしよりは泳げるんだから自信持ちなよ。大丈夫、守山くんならできる」
「買い被りすぎだって」
 苦笑いしてから、中川さんを引っ張るように僕はコースを移動する。バタ足しようか、とか言ってなかったのでしまったと思ったけど、中川さんは察してくれてばたばたと足を浮かして水面を蹴り始めた。中川さんなりのタイミングで顔を上げて息継ぎをしている。苦しそうだったので一度足を降ろすように言って休憩してもらうことにした。
「ちょっと泳げたよね!?」
「泳げたというか、浮けたというか」
「スパルタだね! うーん頑張る! 先生手をよろしく」
「はいはい」
 再度中川さんは僕の手を掴んで水に潜った。同じように僕はコースをゆっくりと歩く。
 クロール教えるって言ったってどうしたらいいのやら。流れで引き受けてしまったけど、こんな風に遊んでいる間に市民プール閉まる時間になってくれないかなと思った。


「哲子の部屋へようこそ!」
「いや、僕の部屋だからね」
 中川さんはルールル・ルルルとご機嫌だ。そのうちメロディが変わってルールルルルーと北の国でキツネを呼ぶかのように僕に向けて手招きをしはじめる。いや、だからここ僕の部屋だからね。脱力しながらも寄ってしまう僕も僕であるが。
「歌いたかっただけでしょ」
「それもある。わたし名前哲子だから一回やってみたかった」
なるほど、そういうことならば分からんでもない。机に備え付けの椅子に座る中川さんを横目に、僕は自分のベッドに座る。悔しくも配置がパロ元に似た。
「はじまりました朝まで生テレビ、本日のお題はこちらー」
「哲子の部屋はどうした」
 知らない間に番組が変わった。急に神妙な声になりつつ中川さんはドン、とフリップを出す……ジェスチャーをした。僕はエアフリップを眺める。何が書いてあるかも全く分からないので反応のしようがない。
「深刻な水不足についてー」
「ああー」
それテレビで今日の朝見たわー。同じ番組を見たのかもしれないなぁ。番組名を覚えていないし確認しようとも思わないけれど。僕の薄いリアクションに中川さんは『ほんまそれ』と言わんばかりにしきりに頷いている。なんとなーく、原因に心当たりがあってしまう。
「台風消しちゃったしな」
「それな」
 いやぁまいったね、と僕たちは肩をすくめた。簡単に自分たちの都合だけで決めてしまわないで、ちゃんとバランスというものを考えないといけないんだなぁとどこか他人事のような気持ちだ。真夏に十数日続いたカンカン照りのおかげで、全国のダムというダムが水不足で困っているらしい。水が飲めなくなるのは困るなぁ、と僕はそれこそ他人事で麦茶をコップに注ぐ。それを中川さんに渡した。
「水が水道から出なくなるとさ」
「ん」
「こうやって麦茶も飲めなくなるねぇ」
「困るよね、喉渇く」
「夏はねー。学校行ってからも冷水器から水出なくなるのは嫌だなぁ」
「蛇口からはぬるいもん」
「というかそもそも水止まったら蛇口からも出ないじゃん」
 困るねぇ困るねぇと僕たちは言い合った。お風呂に入れないのも嫌だし、水が出ないならシャワーも無理だろう。プールなんてもってのほかだ。……泳げない中川さんは逆に喜ぶだろうか。結局あのプールの日、中川さんは僕の手を離して泳ぐことはしなかった。
 中川さんはもったいぶってマジックペンを手に取る。キュポンとキャップを取って、僕を振り返った。
「雨降らさないとだよね」
「このままだとよくないしね」
「……どのくらい?」
「あまり降りすぎるとそれはそれで大変なことになりそう」
「えーどのくらい? 台風一回来るくらい?」
「台風だとまた事故が起きたりとかしそう。風も吹くし」
「じゃあ風は吹かずに雨だけで」
「降る量も多すぎるとまたほら……何十年に一度のとかになってしまいそうだから」
「……うーん、よし、二か月に一度くらいの大雨で!」
「ちゅ、中途半端な感じ……」
 きゅきゅきゅ、と中川さんが『日本、二か月に一度の大雨』と年表に記入する。たちまち外からサァサァと雨が落ちる音が聞こえてきた。僕は部屋の窓を開けて外の様子をうかがう。決してうるさくもなく、だからといって小雨なんて量ではない雨がアスファルトに染み込んでいく様子が見て取れた。
「降ってる」
「これぞまさに恵みの雨ってやつ」
「そうかもしれない」
「……ウフフ! 守山くんが同意してくれた!」
 雨が降っているからか、ヒンヤリとした空気が部屋に入ってきた。エアコンなくていいなと思い、僕はエアコンのリモコンを押す。ピーと音が鳴って、エアコンの口がゆっくりと閉まっていく。
「しばらく降らないとダムに貯まらなそうだから、何日か続いたらいいよね」
「わかる。一か月くらい?」
「うーん……それ以上だと長い感じするよね」
「ちょっと少ないくらいがいいかな。一か月だとだいたい三十一日間だから……」
「二十五日間くらい?」
「いいですね」
 中川さんが納得したようにうんうんと頷きながら年表に『二十五日間つづく』と記入した。それを見届けてから、僕はなんだか久しぶりな気がする雨を眺めてしとしとと鳴らす音を聞く。
 実を言うと、これでいいのだろうか、という不安はずっとあった。現に、自分たちの勝手な気持ちひとつで変えてしまった未来のせいで、誰かが辛い思いをしている。あのとき台風が来てたらもっと困った人がいるだろうから。このくらいの雨だったらきっと誰も傷付かないし、何も起きないし、いろいろうまくいくはずだから。すべては理想論に過ぎないと思う。そうであったらいいな、と思って僕は考えることをやめている。胸中の違和感を見て見ぬふりしている。
 怖くなって中川さんに明るい声をかけてほしくて、僕は窓を勢いよく閉めた。一人で考え込みたくなかった。気付いた中川さんが僕の乗っているベッドに近付いてくる。
「守山くん」
「……中川さん」
「麦茶」
「うん」
 中川さんが差し出してくれた麦茶を手に取る。飲もうとして、止まる。これ、さっき中川さんに僕が渡したコップと同じだ。危なかった。
「いや、間接キスとかわたし気にしないから」
「……い、いや僕だってそんなの気にしたわけじゃないし」
 慌ててコップを中川さんに返すと、呆れたように声を掛けられた。気にしないの!? と思ったけども、そこを強く追及するのは情けない気がして、僕は自分のキャラを保つために色恋沙汰なんて興味ないです系の態度をせざるを得なかった。中川さんは受け取ったコップから麦茶をごくごく飲む。いい飲みっぷり。
「落ち込んでる感じだったから元気出るかなと思ったのに」
「……僕をからかいたかっただけでしょ」
「中川さんとの間接キスじゃ元気でない?」
「か、」
「なーんて! ねぇ算数のプリント持ってきたから一緒に解こうよ!」
 ……算数。プリント。ああ、宿題で出されたやつ。中川さんからの言葉が衝撃的すぎて、頭の動きが一瞬止まってしまった。いいよと中川さんには返事をして、僕もプリントを出そうと机の引き出しを開ける。
……中川さんとの。間接キ……、僕は首を大きく横に振った。こんなことじゃ中川さんに馬鹿にされてしまう。それはいけない。分数の計算をしよう。
分からないと駄々をこねる中川さんと算数の教科書をペラペラめくりながら、僕はすっかりぼんやりした不安が薄くなってしまったことに気付いた。


「お邪魔しまーす! 守山くん、鑑定団見よー」
 いつぞやのように、てれれれーれ、てれれれーと歌いながら中川さんはうちに来た。なんかもう慣れてしまった僕は、そんな中川さんにおざなりに返事をしてからテレビをつける。一人でよくわからないワイドショー的な番組を観るより、中川さんと鑑定団を観る方が自分にとって有意義なような気がした。
「アイスあるよ」
「やったー、わたし抹茶が好き」
「さすがに抹茶はないからチョコ最中ジャンボで我慢して」
「バニラ最中ジャーンボ」
「チョコだって」
 ごそごそと冷凍庫を漁って、十分冷えている最中アイスを中川さんに手渡しする。中川さんは某CМのメロディを楽しそうに口ずさみながらアイスの封を開けた。僕も自分の分を確保してから、コップを二つテレビ前のテーブルに置く。察した中川さんが朗らかに僕に礼を告げる。
「ありがと! 麦茶は良いよね」
「身体にいいからたくさん飲んでって母さんが」
「わぁほんとうにたくさんだ」
「飲み放題だよ」
「麦茶バーだね」
 トクトクトク、と二つのコップに麦茶を注いだ。中川さんはテレビのリモコンを手にチャンネルをポチポチ変えている。鑑定団は何番だったかなと僕が思い出す前に、中川さんはお目当ての番組にたどりつけたようで満足げにリモコンをテーブルに置いた。
 テレビでは何やら墨で書いてある縦長の紙のようなものを囲んで大人たちがわいわい言い合っている。画面の隅に、有名書道家の掛け軸と記載があることに気付いた。僕はただ、そういや夏休みの宿題に習字があったなぁ、いつやろうかなぁ、そもそも何を書こうとだけ考えた。
「うーん、偽物だと思う! あの部分二度書きじゃない?」
 中川さんは極めて真面目にテレビの中の掛け軸と向かい合っている。あの部分と示されたところを僕も見てみたけど、そもそも習字にあまり興味がないからわからなかった。
ぱりっ、と中川さんが最中アイスに挟まれたチョコ部分を割る音が聞こえる。もきゅもきゅと最中を噛む気配がする。テレビの音声なんかより、隣から聞こえる小さな音の方がよっぽど僕の興味を惹いていた。自覚したら恥ずかしくなってきた。自分の分の最中アイスにかじりつきながら話題を探す。
「中川さんさ、どうしてこの番組好きなの?」
「おじいちゃんとおばあちゃんが好きだから、小さい頃からよく見てたの」
「へぇ、おじいちゃんおばあちゃんか」
「……そうなの。わたしすごいんだよ、何回か値段当てたことがある」
「まぐれでしょ」
「冷たい! いいよ見てな、これの値段当ててやるから」
「当たったら僕のアイス半分あげるよ」
「言ったな」
 にやりと笑った中川さんが、数秒だけ悩む素振りをして「三千円!」と宣言した。偽物だと決めつけた値段設定に僕は逆に反抗心が芽生える。
「いいの? 本物かもよ?」
「大丈夫、わたしは贋作に騙されない」
「そんなこと言ってられるのも今のうちだね」
「じゃあ守山くんは何円だと思うの」
「……僕は」
 興味なかったけどここにきてまともに掛け軸に目線を向ける。何が書いてあるのかもわからない。昔の人がよく書くようなぐちゃぐちゃした文字。僕には価値がわからないけど、分かる人には分かるのだろう。
いいところでコマーシャルに入り、猶予をもらった僕は中川さんの五倍は悩んだ。悩んでいるようなふりをしながら、僕は中川さんをちらちら見る。麦茶を飲んでいる。
雨の日はまだ続いていて、年表の通りにいくなら八月の間はきっとずっと雨模様だろう。雨が上がったらジュースを買いに行きたいと思った。母は仕事で忙しいから自分で。僕の分と中川さんの分と、あとは母の分。中川さんも母親も、何ジュースだと喜ぶだろう。
 全く別のことを考え始めた僕に気付いた中川さんは僕と目を合わせて首を傾げた。僕は焦って目を逸らす。
「守山くん、そろそろCМも終わるよ」
 言外に早く決めろと言いたげだ。僕はとりあえず、適当に言った。
「じゃあ、十万円くらいで」
「……なんか無難な感じ」
「可もなく不可もないくらいがちょうどいいんだよ」
「僕に似て?」
 いたずらっぽく中川さんが口にした。少しだけ驚いて、というか、中川さんにとって僕ってそんな印象だったのかとちょっとショックで、なんだか心がすっと冷えたような感覚があった。
「……僕、そんなん?」
「すごくいろいろと中の中」
「……下じゃないだけマシなのかな」
 納得しにくい感情を持て余す。悪口の一種だったのだろうか。
CМはほどなく終わってしまって、いざ金額がお披露目になるタイミングにニュース速報が入った。自然と注意を引くような電子音に思わず目線をテレビ上部に向ける。ニュース速報。ひやりとした。掛け軸の値段なんてどうでもよくなった。内容がなかなか表示されない。小さな不安が一気に大きくなる。
急にテレビが暗転した。中川さんの仕業だった。確認したいようなしたくないような、反応に詰まって僕はいわゆる可もなく不可もない返答をする。
「……値段わからないと勝負にならないよ」
「勝っても負けても嬉しくない気がした」
「アイス半分」
「要らない。守山くん食べて」
 まぁそもそも僕のものだから言われずとも食べますけどね。溶けかけていたアイスをさっさと食べてしまって、中川さんの様子をうかがう。中川さんは外に意識を向けていた。僕たちがあれから通算十日間に渡って日本に降らせている雨。
「きっとよくないんだろうね」
 何がかなんて追及する気も起きなかった。ただ、中川さんが僕と同じようにどうにも消化しきれないモヤモヤを抱えてしまっていることに申し訳なさがあった。自分たちの浅慮が取り返しのつかない事態に触れることを、僕たちは二人して恐れている。
「わたしのせいかな」
「それは、ないよ」
「でも」
小学五年の夏休みに、クラスの女の子と、周りには言えない秘密を共有する。響きだけならとてもわくわくするものだろうに、どうしてこうも恐怖が付きまとうのだろう。僕たちしか知らないはずなのだから、誰にも気づかれるわけがないのに。誰にも怒られるはずがないのに。
 むしろ僕が巻き込んでしまったようなものだ。いくら不思議だったからって、怖かったからって、僕だけの中に留めておけばよかった。そうしたらきっと中川さんがこんな思いをすることは。
「中川さんになんて声を掛けなければよかった」
 言ってしまってから、僕は言葉選びを間違えたことにすぐに思い至った。即座に違うと否定したらよかったのに反射神経がこのときだけとても鈍くて、僕は中川さんがコップを置いて帰ってしまうまで何も言葉を発することができなかった。顔を見ることもできなかった。
 傷つけてしまった。そういう意味じゃなかった。じゃあどういう意味か、って、うまく言葉にできないのであった。中川さんに謝りたかった。あの日がなければ中川さんがあんな気持ちになることはなかった。僕が中川さんを呼んでしまったからだ。すべては僕のせいだ。
でもこのごちゃごちゃとした、形のない黒い感情は、罪を認めたからといってすべて消えて無くなってくれるとは到底思えなかった。麦茶を飲む。すでにぬるくなっていた。

 母が大雨による土砂崩れに巻き込まれたと病院から連絡が入ったのはその日の午後五時頃だった。
僕はひとしきり吐いて、泣いて、年表の『日本、二か月に一度の大雨』の部分を二重線で消した。


「あら、明日は久しぶりの雨なのね」
「……そうだね」
「どうしたのあんた、そんな疲れた顔して」
 母親は普通に帰ってきた。何も知らない顔をして僕にスーパーで買ったコロッケと野菜炒めを出して、半額だったからとケーキまで出して、僕はぐちゃぐちゃな気持ちのままでコロッケと野菜とケーキを順番に口の中に入れた。吐いたことで味が分からなくなるのではないかと思ったけど、味覚は正常に機能していて、どれもそれぞれおいしかった。なんだか笑えてしまって、追い詰められた自分がとても滑稽だったように思えて、でもやっぱりすごく安心して、僕は少しだけ泣いてしまった。驚いた母がまたケーキを買って帰ってくることを約束してくれた。
母が言うにはここ毎日ずっと晴れが続いていて、明日が久しぶりの雨になるらしい。ダムの水不足は相変わらず深刻ではあるが、すぐすぐ蛇口から水が出なくなるということではないと。僕は体調が悪いということにしてベッドで横になる。いろいろとやる気がなくなってしまった。何も行動したくなくなってしまった。母は今日も仕事へ行く。
 中川さん、僕は呟いた。会いたいとか、話したいとか、そういうきらきらした感情ではなかった。これまでは年表に何か手を加えるときには常に中川さんが隣にいたから、僕ひとりだけで年表に記入をした今、中川さんがどういう認識でいるのか気になっているのだった。
けれどもしかしたら中川さんはもう僕との夏休みを忘れてしまっているかもしれない。僕たちが遊んだり、年表と向かい合ったり、笑い合った日は長い夏休みの中の何日間かだけだったし、僕のあの言葉でもう嫌になってしまって、忘れたふりをされてしまったりもするのかもしれない。
 どうしたらいいのか分からなかった。あと十数日残っている夏休みのどこかで、自分が奇跡的に覚醒するタイミングを待つことにした。

 それから何日か経った。買い物に行ってほしいと頼まれたので、僕は近くのスーパーに向かう。頼まれたもののほかに、お小遣いでジュースを買おうと思った。中川さんにはもう会えないだろうけど、僕と母さんで飲めばいいかと。抜け殻のような日々を過ごして、クラスの前の席の友達に声を掛けようかとも思った。けれどずっと頭の片隅で中川さんが笑っていて、結局行動できなかった。
今日は快晴だ。僕と正反対だ。
「豚の小間切れ……どれがいいんだ」
 豚肉すらも僕を馬鹿にするのかと被害妄想が爆発しそうだ。豚肉だけでも種類が多く、小間切れに該当するパックを探すことすら大変だったというのに。量も金額もちぐはぐで、おそらく肉の質によって違うのだろうが、僕には何が何だかさっぱりである。
 とりあえず手近な肉を手に取ろうと手を伸ばす。色のいいものを買った方がいいような気がして見比べてみるが、どの状態が良い色なのかが分からなかったので当てずっぽうで買ってしまうしかなかった。
「守山くんそれ」
 横から遠慮がちに声を掛けられた。僕は振り返る。中川さんだった。カゴを手で持っている僕とは違い、カートを利用してそれなりの量の食材を買っている。それ、と中川さんは続けた。
「めっちゃ色わるい。灰色の豚肉はやめよ」
「ハイ」
 素直にパックを戻した。呆れたように息を吐いた中川さんは、僕の隣に並んで豚肉を眺めはじめる。
どうにも気恥ずかしくて、しかも寄りにもよって中川さんにおつかいなんてしているところを見られてしまったので居たたまれなくなってしまった。静かにその場を離れようとしたが、数歩離れた時点で気付かれて非難される。
「選んであげてるのに」
「その件はありがとう」
「思ってないでしょ。……うーん、これとか新しい感じがする」
「ピンクなのがいいの?」
「そう、ピンクがいいって」
 中川さんも誰かから聞いたのだろう、曖昧なノリで豚小間切れ肉を選んだ。そもそもどれでもいいだろと思っていた節があった僕は、これ、と示されたパックをそのままカゴに入れる。
「買ってって頼まれたの?」
「そう。中川さんは?」
「わたしはいつも買い物してるから。そんな遠くないし」
「へぇ」
 中川さんのこと、僕は全然知らないな。自分と同い年のクラスメイトが、まるで誰かの親かのようにカートを使ってひとりで買い物をしている光景が新鮮だった。初めて見たと言ってもいいかもしれない。カートに設置されているカゴの中にはいろいろと入っていて(僕に分かる範囲だと牛乳と味噌ラーメンが入っている)、小学生の女子が全部持ち運ぶのは難しいように思われた。
中川さんは簡単に別れの言葉を口にして、慣れた様子でパンコーナーに向かう。僕は後を追った。
「中川さん」
「どうしたの」
「あの」
 近くをおばさんが通る。僕は言葉を止めた。他人が聞いているところでしゃべっていい内容ではないような気がした。ゲームの話か何かにしか取られないだろうが、だからといって自分が悩んできたことをこの場で問いかけてしまうのは場違いな気がした。
 中川さんは不思議そうに首を傾けている。ずいぶん大人しい様子だと思った。いわゆる余所行きの顔というやつだろうか。中川さんが僕よりずっと年上のように思えた。
「……荷物。持つよ」
 変にならずに中川さんと二人になる方法が、これしか思いつかなかった。ぽかんと口をあけた中川さんは、しばらくして手をひらひらと振る。
「……大丈夫だよ、慣れてるし」
「いや、持つ」
「……まぁ助かるけど……」
 あっさりと折れた。僕は中川さんがレジに向かうのを待ってから、自分のおつかい分の豚肉を購入した。母から借りたレジバッグなる袋に入れる。
 中川さんも言っていた通り慣れた様子でレジバッグを取り出した。僕が手伝う隙もなくてきぱきと品物を詰めて、どうぞと差し出してきた。持つといった手前、ここで拒否はできない。
「ありがとうね」
「うん。普通に重いね」
「牛乳と野菜ジュースとじゃがいもとか入ってるし」
 それらが加わると荷物が重くなるのだということすら僕は知らなかった。中川さんは僕が知らないことを知っている。
 話を切り出す気になれずに、僕は中川さんの後をついていく。スーパーからそれほど遠くないと言っていた通り、五分ほど歩いた時点でもう少しだよと励まされた。体育でしか運動していない僕は多分クラスでも筋肉がない方だが、その程度なら耐えられるだろうと考えてレジバッグを持ち直す。
 中川さんの家は古い一軒家だった。サザエさんの家のもう少し古いバージョンというのがイメージとして近い。
「ただいまー」
「……あ、荷物」
「うん、冷蔵庫に片づけてくるねー。この時間は誰もいないからその辺でゆっくりして」
「うん」
「麦茶ないから緑茶でいい? 牛乳とかもあるけど……あ、買ってた豚肉冷蔵庫に入れとくから貸して」
 中川さんにレジバッグごと豚肉を渡す。レジバッグから出してしまったら分からなくなってしまう気がした。中川さんはそれらを持って裏の方へ消えていく。そのあたりに冷蔵庫があるのだろうと思われる。
「水で良いよ」
「さすがにそれは。野菜ジュース買ってたからそれ飲もう」
 中川さんがガラスのコップに橙色のジュースを注いで持ってくる。あまり周りを見渡す余裕がなくて気付かなかったが、居間からわずかに見える隣の部屋に仏壇があった。
「あ、それ? うち両親亡くなっててさ。おじいちゃんとおばあちゃんと住んでるんだよね。まぁ、その二人も今は病院行ってるんだけど」
 極めて明るい物言いで種明かしをされた。僕は、そっか、と返すことしかできなかった。渡された野菜ジュースは身体にいい味がする。久しぶりに飲んだ。
 中川さん自身は全然気にしていないといった。もう、そうなってしまったのだから仕方がないと。気の利いた言葉が思い浮かばなかったから、僕はもう一度そっかと言った。僕が何かを言ったところで何も変わるとは思えなかった……が。ふと思いついてしまった。
僕は中川さんに問いかける。
「僕の母さん、知ってる?」
 中川さんは自分用に用意した緑茶を飲みながら、訝しげに眉を寄せた。
「カレー作ってくれたり麦茶用意してくれてたでしょ。直接会ってないから知り合いではないけど」
「うん。そう。それがね、死んだんだ」
 僕はこれを中川さんに伝えるべきなのかとうとう分からないままだった。知らなければ知らないままがよかったのかもしれない、と、湯飲みを持ってぴたりと止まっている中川さんを見て可哀想に思った。と、同時に共犯にしてしまったことで僕の心が多少落ち着いてくれたことも事実だ。なすりつけるつもりは毛頭なかったけれど、僕だけのせいじゃなくて、僕たちふたりのせいにしたかった。
「どうしてかわかる?」
「……わ、わからない」
「雨、降らせたの、覚えてる?」
 中川さんは僕を見た。すぐに何かを考えるように目線を落とす。今度は僕が息を詰める番だった。中川さんは覚えていないのだ。水が飲めないと困るからと、水不足を解消しようと雨を降らせたあの日のことを。年表をいじるときはその場に居合わせないと、記入した本人であっても忘れてしまうのだ。
「覚えてないんだ」
「……ごめん、あの。台風を消したのは覚えてるんだけど」
「ううん」
 大丈夫、と答えた自分の声が震えていた。独りよがりだったことに思い至ってしまった。全然大丈夫そうじゃない僕の声に、中川さんが不安げに瞳を揺らす。
 なんだかこの夏休みが全てふわふわして実感のないものだったように感じられた。扇風機の前に置かれたティッシュばりに不安定な存在に思えた。僕が扇風機のスイッチを押したらそれだけでひらひらと飛んで行ってしまうのだ。とってもくだらない。
 あの日も、あの日も、あの気持ちも。消してしまえば無かったことになるのだろう。そうして僕にだけ罪悪感という形で積み重なっていくのだろう。頭を抱えてうずくまりたくなった。押し黙った僕に中川さんが困っている。
中川さんを巻き込んで安心して、それが絶対のものではなかったことが判明して、それだけなのに僕はとても心が乱された。たったひとつの思い出がなくなっただけで表しきれない感情に押し潰されそうになっている。
中川さんになんて声を掛けなければよかった。これが僕の結論だった。
「中川さんは、ずっとここに住んでたの?」
「……え、あ、いや、親が死んで引っ越してきた」
「そっか。何年前かな」
「…………八年、くらい前」
「わかった、ありがとう」
 僕は野菜ジュースを飲み干して、テーブルの上にコップを置いた。そしてすぐに立ち上がって、玄関の方へ向かう。
「守山くん、急にどうしたの」
「やらなきゃいけないことを思い出したから、もう帰るね」
「え、ごめん忙しかったのに」
「それは僕がやろうと思ってやったことだから大丈夫」
 まだ何か中川さんが言おうとしている気がして、聞きたくなかったからさっさと靴を履いて中川さんの家を飛び出した。案外僕の家から近い場所だったから道は分かる。スーパーの方に寄らずに、僕はスタスタと早歩きで家へと帰った。
 早くしないといけないと急かされていた。きっと僕のことだから、先延ばしにしたらずっとやらないままでいてしまうだろう。早く、気持ちが鈍ってしまう前にしてしまわなければ。

 家に帰った僕はおざなりに靴を脱ぎ散らかして自分の部屋へと駆けこむ。親が何か声を出していた気がするけど知らん顔をした。それどころではないのである。
 年表に目を向ける。落ち着きなく指で文字をたどって、年表に記載された数字をひとつひとつさかのぼっていく。
「2004年、2003年、2002年」
 そして、2001年。八年前。その下に連なる文字をひとつひとつ指で示しながら確認していく。
 きっとあるだろうという確信があった。それはこの年表が僕の部屋にある理由にもなる。見つけてしまうのが怖かった。けれども、僕は中川さんを巻き込んだ責任を果たさないといけないのだ。
「……あった」
 2001年、七月二十一日。埼玉県さいたま市、中川修二とその妻恵子が運転中に土砂崩れに遭い死亡。
「本当にあった」
 確信が確定に変わった。そういうことだったのかと僕はフローリングに座り込んだ。恐怖が何故か、一気に消えてなくなった。僕にしかできないことがあるのだということに気付いて、きっとこのために年表はここにあるのだとぴたりとピースが嵌った。あの終業式の放課後、中川さんに声をかけた理由がなんとなく、いや、もうこれのためとしか考えられない。そのくらい僕は、中川さんを助けるために全てがあったのだと思ってやまなかった。
 僕は震える手で筆箱を漁る。マジックを手に取る。キャップを取って、年表に二重線を。
「守山くん!」
 僕はマジックを取り落とした。中川さんだ。中川さんは遠慮も減ったくれもなく近づいてきて、僕の眼前に何かの袋を突き付ける。僕は瞬きをした。
「お肉! 忘れてるよ!」
「…………あ」
 素で忘れていた。忘れるだろうな忘れるだろうなとは思っていたけど、本当にすっかり忘れてしまっていた。それどころじゃなかったから仕方ないなと自分を擁護して、僕はそろそろとレジバッグを受け取った。豚肉がちゃんと冷えていて気持ちの落としどころが分からなくなった。
「わたしが選んだんだからちゃんと持って帰ってお母さんに渡しなよ」
「……ありがと」
「いいよ! 運んでもらったしおあいこ」
 いいよと言う割に怒っている様子の中川さんが、僕がさっきまでやろうとしていたことを改めて確認するために僕と向かい合っている年表の文字を目で追う。すぐに中川さんの目が大きくなって、ああ怒っているなぁと思った僕は俯くことしかできない。自分のダサさに何も言葉が出ない。
「守山くん、わたしに内緒でこれ消そうとしたの」
 否定も肯定もすべきではないと感じた。というかそもそも言い逃れができると思ってないし。マジックは足元に転がっている。動かぬ証拠だ。
「守山くん、これを消したら、どこまで消えてしまうの」
「……わからない」
 中川さんに言われて、初めて僕は自分のやろうとしたことを省みることができた。これを消してしまったら、中川さんはどこまで消えてしまうんだろうと。僕の頭では簡単にしか分からなかった、とりあえず全部良くなるだろうと思っていた。
「わたし、今のこの、今まで生きてきたわたしがいなくなっちゃうんじゃないの。まだ埼玉で暮らしてて、鑑定団なんて観たことなくて、ひとりでの買い物の仕方も知らなくて、当然守山くんと会うこともなくて」
 中川さんはマジックを手に取った。僕は顔を上げて、中川さんの真意を探ろうとする。中川さんは僕を見て、何故か笑った。
「それでいいんだね。守山くん。わかったよ。いいよ」
「…………中川さん」
「いいよ。消そうか。ここにいるはずのないわたしはどうなるんだろうね。消えてしまうのかもね。でも、いいよ。守山くんが決めたんだもん。なんとかできる、してみせるよ。だってこんな紙切れひとつでわたしたちずっとバカみたいだった」
 どういう感情か分からないけど中川さんがにこにこと笑って、マジックを手に取って思い切り二重線を引いていく。僕は止めることができなかった。確かに、こんな紙切れひとつでバカみたいだなぁと中川さんに同意してしまった。
 けれどきっと、この年表は僕のためにあったのだ。僕の興味のある事柄を並べ立てて、僕がいつか後悔してどうしようもなくなってしまったときに上手くやり直せるように、そのためにここにあったのだ。誰が置いただとか、そんなことはどうでもいい。
「中川さん」
 正解なのに、合っているのに、僕はこれまでの中川さんがいなくなってしまうことに思い至った途端悲しくなって、声をかけてしまった。どうしたらいいのか分からない。どちらかを選ばないといけない事実が重くて仕方がない。中川さんは手を止めて僕を見遣る。
「なに」
「……ごめん」
「どこから?」
「……え」
「どこからごめんなの? ねぇ、謝ることなの?」
「……」
「こっちこそごめんね。わたしも、自棄になっちゃったかもしれない。わかんなくなっちゃった。だって、今になって、お父さんとお母さんの事故を無くせるって、普通あり得ないから。だからどうしたらいいのかなって」
 中川さんは僕の隣に座った。そしてマジックのキャップを付けて、筆箱に片づけた。僕はとりあえずほっとして、手に持っているレジバッグに今更意識を向ける。中川さんが言う。
「冷蔵庫入れてきなよ」
「……うん」
「勝手に消したりしないよ。わたしはだって、今のわたしで何も嫌じゃないし。消す理由がないよ」
「そうだね」
 戻ってきたら中川さんはいなくなっているかもなぁと思った。それはそれで、中川さんが選んだなら仕方ない気もした。僕がいないうちに消されたら、僕にはその認識がなくなるから、僕の頭の中から中川さんそのものがいなくなってしまうことになるだろう。それでも、中川さんがそれでいいなら。うーん。
「消さないでね」
 やっぱり嫌だったからひとこと中川さんに伝えてから、僕は部屋を出た。今日は母が家にいる。中川さんがカレーを食べていた席に母は座っていた。豚肉を渡したら、あの女の子と食べなさいとチョコチップクッキーの箱を渡される。まだ中川さんが消えていないことに安心して、箱を受け取って自分の部屋に急いで戻った。
「おかえり」
「うん。中川さん、クッキー。たべてって」
「やった! お肉持ってきてよかった」
 ほがらかに笑いながらクッキーの箱を開ける中川さんはいつもの元気な女の子だ。消され途中の年表に目を向けて、僕はさっきまでの出来事が現実だったことを確認する。あのまま止めなかったら、僕も中川さんもよくわからないまま中川さんが消えてしまうかもしれなかったことを再認識して、ぶわぁと鳥肌が立った。
「寒いの?」
「いや、急に怖くなって」
「わかるよ。正直わたし、どうなるか興味もあるけど、興味あるからってそんな、勢いで決めることじゃないよね」
 中川さんがサクサクと音を立てながらクッキーを頬張る。僕も一枚手に取って、口に運んだ。甘くてチョコレートおおめでおいしい。
「ねぇ守山くん」
「うん」
 何もしゃべらずにサクサク食べて、半分ぐらいお腹に入ったところで中川さんが僕を呼んだ。僕はあえて考えないようにしていたけど、中川さんはクッキーを食べながらずっと考えていたのかもしれない。
 ちゃんと聞いてあげようと思った。分からないなんて言葉で先延ばしにしてもなんの解決にもならない。中川さんは深呼吸を一度してから話し出す。
「やっぱり、消していいよ。消されようがどうだろうが、多分わたしはわたしで変わんないと思う。思い出そうとしてみたんだよ、八年前の自分を。もちろん今より子どもだったんだけど、自分で思っている範囲だとわたし今と何も変わんないわ。おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住まないからって、会わないわけじゃないし。きっとわたしはわたしで変わらないんじゃないかな」
「……うん」
「わたしを助けようとしてくれたんだね。ありがとう。お父さんとお母さんが生きていてくれたらいいのにと思ったこと、たくさんあるよ。嬉しいか嬉しくないかで言われたら……ううん、嬉しいかもしれない」
「……うん」
「でもね、守山くんと過ごした夏休み、楽しかったんだよね。どうしよう? 忘れたくないよね」
「忘れないよ」
 そうだ、忘れない。中川さんがいる場で消すならどっちもこの出来事を覚えているはず。たとえ中川さんが覚えてなかったとしても僕が覚えておけばいい。いつか埼玉に中川さんに会いに行けば。
 クッキーをもう一枚食べようと手に取る。かじる。中川さんも僕に続いて、クッキーをもぐもぐさせながら「そうかなぁ」と呟いた。
「大丈夫だよ。中川さんが変わらないなら」
「うん」
「僕も、中川さんと夏休み過ごせてうれしかった。けど、僕の部屋にこの年表がある理由、きっと中川さんを助けるためだったと思うんだよ。これだけ消したら、あとはもう年表は片づけてしまうから。もう触らない。けど、消すだけさせて。僕の我儘かもしれないけど」
「わがままかぁ」
「うん」
「……いいよ。守山くんがわたしを助けたくて、そのために年表があるなら、そうしないといけないよね。でも、わたし見とくよ。こうなったら興味を満たしてやる」
「それでこそだよ」
 話がまとまったので、最後のクッキーを中川さんに譲る。中川さんがちまちま食べているのを横目に、僕はマジックを筆箱から再度取り出して、キャップを外した。年表に歩み寄る。この年表の最後の仕事である。
 年表はこのためにあるなんて強く言ったけど、全然違うかもしれない。それでも僕のためにあるということは分かっているので、八年前の中川さんの両親の事件を消すことに対してもう迷ったりはしなかった。僕は中川さんが引いた線の続きから引こうとマジックを近づける。中川さんが今度は僕を止めた。
「守山くん」
「うん」
 やっぱりこんなにすぐに中川さんも受け入れられないのだろうと思ったが、中川さんは何も言わずに手のひらを僕に差し出してきた。自分で消したいのかと思ってマジックを渡すが、中川さんは首を横に振る。
「手を」
「うん?」
「手をつなごう」
 その方が雰囲気出るでしょ、と中川さんは続けた。雰囲気、雰囲気。まぁ、出るといえば出るのだろうか。
断る理由もないので中川さんと手をつなぐ。柔らかい手のひらだった。プールに行った日のことを思い出して僕は悲しい気持ちになった。けれど覚えているはずだから。そして僕が忘れなければいいことだから。僕は年表に向き直った。
「わたし、泳げないんだよね」
「知ってる」
「手、あのときも繋いでてくれてありがとうね」
 ぐすんと中川さんが鼻をすする音を立てた。僕もつられて涙が流れた。もうあまり考えずに消してしまおうとマジックを年表に走らせる。
きゅっ、と線が引かれる。
「あ」
 横を見たらもう中川さんはいなかった。中川さんと食べた後のクッキーの箱だけがそこに置いてあった。とてもとてもあっけなかった。
 クッキーの箱をリビングに捨てに行ったら、母から「あんたひとりで全部食べたの!? 晩ごはん入る!?」と怒られたが、僕は曖昧に頷いた。冷蔵庫を開くと中川さんが選んでくれたピンクの豚肉が入っていて、これだけが中川さんがここにいた証になるのかと思うとむなしくなって、結局この日晩ご飯はあまり食べられなかった。
 中川さんに言った通り、僕は年表を少しずつ部屋から外していった。くるくる巻いて、結構なサイズになったけど紐で括って部屋の隅に今は置いてある。
 そういえばと思って社会の教科書を見たがオゾンホールは健在だった。僕の周りはなにもかもが夏休み前に戻ってしまった。それが良かったとも思う。僕なんて人間が思い上がりすぎていた。


 夏休みに何があろうが学校は知らん顔して夏休みを終える。慌てて終わらせた宿題を鞄に突っ込んで、僕は家を出た。八月は終わったが気温はまだまだ高いままだ。
 あれから一応、中川さんの家に行ってみたがまぁ普通にその家はあった。そりゃ中川さんのおじいちゃんとおばあちゃんの家なのだから、中川さんが引き取られてなかったとしてもそこにないといけない。聞きに行く勇気なんてなくて、僕は表札だけ確認して帰ったのだった。
 教室に着いて、鞄から取り出した筆箱や提出物を机に入れる。中川さんの席には別の女子が座っている。夏休みが始まるまでは本当にただのクラスメイトのひとりでしかなかったのに。登校してきた友達が前の席に座る。こいつに中川さんのことを聞いても分かんないんだろうなと思った。
「おう優旭」
「おはよー」
「おはよ。宿題終わった?」
「いちおう」
「偉いよなぁ。俺やたらと忙しくて半分も終わってないよ」
「やばいじゃんどうすんの」
「どうしよ、持ってくるのを忘れましたって言おうかな。実際持ってくるの忘れてるし」
「それ明日出さないといけなくなるよ」
「分かってるけど終わってませんとか言えんし」
 やってないのはやってないやつが悪いので、僕は何もそれ以上言わずにグラウンドを見た。友達も何も言わずにぼーっと時間が過ぎて、始業式が始まる放送が鳴って体育館に急ぐ。
「暑い」
「体育館クソだよな」
 ただただしんどい始業式が終わって、だらだらと教室へと戻る。何事もなく普段の毎日に戻るんだろうなと思った。自分の席に座って提出しろと言われる宿題を机の上に並べて学活が始まるのを待つ。さっさと帰ってクーラーの下で麦茶を飲みたかった。九月に入ったとはいえ気温はいまだに夏真っ盛りと変わらない。
 別のことを考えていたので反応が遅れた。ガラガラと引き戸が開いて足音が教室に響く。担任だろうと確認もしなかった。が、よくよく聞いたらなにやら足音は二人分のような気がする。
 こんなことがあってたまるかと思う気持ちと、せっかくならこのくらいあっても普通だよなと納得する気持ちとが半々であった。
「初めまして、埼玉から来ました。中川哲子です」
 あの日あの時あの記憶の中の中川さんがそのまま黒板の前に立っていた。半分納得していてもすんなり受け入れられるかは別の話だ。僕は両手で頭を抱えて顔を伏せる。とにかく表情を見られたくなかった。悲しくも居たたまれなさに涙が出そうになる。
「……ヒエェ……」
「何情けない悲鳴上げてんの」
 前の席の友達が呆れた声を出した。慌てて確認するが、小声のやりとりだったので教壇に立つ中川さんには気付かれなかったようだ。中川さんはにこにこと愛嬌よく笑ってクラスの面々を見渡している。当然間抜けな顔をしているであろう僕とも目が合う。
「よろしく!」
 中川さんはぱちりとウインクをした。