君とモラトリアム(仮)


 

 花の高校二年生、西日が射しこむオレンジ色の教室、ここにいるのは私と友人のふたり。紺のお嬢様ぶったセーラー服、洗い方が分からず少々汚れた真っ赤なスカーフ、思い切ることができず中途半端に折られた分厚いスカート、そう、私は今青春を……、……ここで私は腕を振りかぶる。BGMも決めている。
「あの大空にー翼を広げー飛んでーいきたーいー」
「なにゴミ捨ててんだお前!」
 ゴミではない。私の魂の叫びを記した……テスト用紙だ。テストで私の一体何を測れるというのか、という無言の反論言論の自由を主張するために私はこのような過激な行動に出ている。
 クラスメイトである友人から止められたときにはもう紙飛行機は私の指先を離れていた。私はごもっともなツッコミを無視して窓枠に片足を置き、外へと飛び出す勢いで校庭に注意を向ける。聞いていなかったと判断したらしいクラスメイトこと友人は、私の隣に並んで、あーあと言わんばかりに顔を曇らせながら飛行機の行動を見守る体勢に入った。
 数学赤点のテストの裏に私の思いの丈をぶちまけたその紙飛行機は、ひらりひらりと曇り空割ることなく早い段階から校庭のグラウンドを一直線に割りにかかる。
 あっさりと墜落事故に甘んじた紙切れに多少の苛立ちが募ったものの、たかが紙、しかも言ってみれば学生生活最大の汚点である赤点のテストなのだから、流れるような右肩下がりも当然といえば当然だろうと私は納得した。
 そうだ、私はこれを実際に自分の目で確認して納得したかったのだ。外から見れば放課後に赤点取って呼び出し食らってトチ狂った女がテストを校庭に捨てただけなのだろうが、それは私の本意とは違う。
 私はきっと折り合いをつけたかったのかもしれない。ああ、そうですよね。私の夢なんてこんな赤点取ってるようじゃ叶うはずがないのだ。直下型墜落まっしぐらなのだ。
「あんたあれ拾いなよ……」
「うん、それは、分かってる。遠足は帰るまでが遠足だもんね」
 後片づけをしてはじめてイベントというものは終了する。ため息混じりに告げられた言葉に力強く返答して、私は改めて落下地点を確認するために身を窓から乗り出した。
 校庭に落ちたと思ったが、うっかり目を離した隙にどこか分からない場所に飛んで行った可能性も捨てきれない。なくなったらなくなったで別に構わないのだが、なくなった後で見つかって、名前で私のだとバレて呼び出しくらうのはちょっと避けたい。だいぶ避けたい。目線を校庭に落として2階からでは見えにくい紙クズを探す。
 紙クズが落ちたとさっき私が認識したあたりに一人の男子がいた。まさか、と背筋が凍る。
 今は放課後、しかも部活動生も大会が近くない限りは大半が帰っているであろうキングオブ放課後である。もう夜になる一歩手前。まさかそんな時間にここを通る男子がいるとは思わないだろう。しかも見た感じ知り合いでもない。
 固まった私に隣の友人が気付いて、帰るために教科書を詰めた鞄で私の近くの机を叩く。固まった私に校庭にいる男子も気付いて、わりとゆっくりとした動作でこちらを見上げてきた。
 手元を確認、ああ、ばっちり紙飛行機持ってる。あなたのですか? とでも聞くかのように紙飛行機を指さして首をかしげている。
 しゃべって普通に聞こえる距離だと分かっていながら、私は首をコクコクと大きめに振る。赤点見ただろうか、というか、開いて中身見ただろうか。
 別に見られて困るものでもなかったはずなのに、いざその危機が近付いてきていると戦慄してしまう。どうしたらいいのか分からないでただコクコク頭を振っていたら、目線の下の男子が片手をメガホンのように口に添えてこちらに何かを伝えてくる姿勢を見せてきた。私は少しだけ更に身を乗り出す。
「これ、靴箱に入れとくな!」
「あ、はい、ありがとうございます……」
 タメ口だった。靴箱方向に取って返す男子を階上から眺めてから気付く。靴箱に入れると言ったからには私の学年組名前バレバレじゃないか。ガッツリ中身見られてるじゃないか。あいたたた。
 私がボランティア男子と交流を深めている間に、友人は私の分まで鞄の用意をしてくれていた。ため息が止まらない私に失笑を投げかけながら彼女は施錠を確認し、私たちは教室を出る。


 なんてことが起きた翌日、私はうっかり紙飛行機の男子と会ってしまった。
 げた箱にいつも入れているグラウンドシューズが何故か行方不明になっていたので、体育出れないじゃんと半泣きになりながら、勝手に人の靴持っていきそうな他クラスの人のげた箱を片っ端から漁っているときだった。
 友達は先に行ってもらっていたので、私は一人。もう面倒だしシューズも見つからないしで、保健室にこのまま直行しようと諦めかけていたタイミングでもあった。
 昨日、紙飛行機を拾ってくれた男子は私と同じように体育服で、三年のげた箱前に立っていた。
 あ、と思ったときにはすのこを踏んでしまっていて、ぎしりと私の足下が鳴り男子はこちらを向く。その手には白いグラウンドシューズがしっかりと握られていた。
 謎の期待をしてしまっていた。全然私と同じじゃなかった。
「……昨日の」
「あ、そうですすみません三年生だったんですね。……テストありがとうございました」
「いや、俺も通りすがりだったし気にすることじゃないよ。……大丈夫?もうチャイム鳴るよ」
 それはそっちもだろうと言いそうになったところで、私の表情からなんとなく言いたいことを察したのか、彼は「俺自習だから」と言葉を続けた。そういえば三年生の三学期は、進路が決まった人は自宅学習もしくは丸一日自習になると聞いたことがある。彼は既に進路が決まったのだろう。
 うらやましいと思うと同時に、私とは頭の造りがそもそも違うのだな、と脳内で彼を突き放した。私はきっと三年三学期最後の最後まで勉強のような何かに青春を費やす羽目になってしまうだろう。
 私が別にサボろうと思ってここにいるわけではないことを説明しようとした矢先に、無情にもチャイムが鳴り響いた。間に合わなかった……体育の教師はいちいちうるさいことに定評があるので、あまり目を付けられたくはない。
 どうしよう、と迷っていたら目の前にいる男子がグラウンドシューズを靴箱に戻す。
「授業始まったな」
「そうですね……保健室、」
「保健室? 体調が悪いのか」
「……体育ができる体調では、ないかも、しれないかも……」
 あまりにもまっすぐ見てくるものだから言葉に詰まって目線を落とした。
 そりゃあそうだ、この人は私とは違ってちゃんと勉強してちゃんと授業にも出て将来をしっかりと見据えて計画立てて、頑張ったが故の褒美をもらって今こうしているのだ。私とは違う。
 いや、私も別に自分の失態でこうなっているわけじゃないけど、それでもどうしても引け目を感じてしまう。勝ち組オーラ。私から発されているのはハンパない負け組オーラだろう。この人には私の赤点テストも見られてるし、現在結果的にサボりになってるふがいなさもがっつり見られてるし。
 なんて落ち込んでみたら確かに腹が痛くなった。病は気からである。急に言葉通り体育ができる体調ではなくなったので、適当に言葉を繕って彼の前から離れた。
 すれ違うときにちょっとだけ目を凝らして彼の名前を確認しようと試みてみる。名字部分は見えなかったが、直人と書いてあるのだけは確認できた。だからといって急にナオト先輩などと声をかけては気持ちが悪かろうから、何も見てない風を装って、首だけ振り返り小さく頭を下げる。
「お大事に」
 先輩は小さく手を振ってくれた。そんな、仮病な私を送ってくれるなんて期待してませんでしたし。再度頭を下げてから保健室に向かう。
 保健室には保健の先生しかいなかったので生理痛がきついと言ってベッドに寝かせてもらった。もちろん眠れやしなかった。

 私がテストの裏に書いたのは、本当の本当にたいしたことじゃなかった。『しあわせになりたい』それだけであり、もっと具体的に文字に表そうにもどうにも言葉にできないのであった。
 なにがあってもどうなっても、もう自分の人生とか半分くらいどうでもいいからとにかく幸せになりたい。終わりよければすべて良し、しかし幸せになるための努力は極力したくない。
 そんなダメ人間のお手本みたいな私が掲げる夢なんて、現実味がなさすぎてそもそも夢とは呼べない。
 このままで幸せになんてなれるはずがないのは分かっているのに、頭の中では夢を乗せた世界で一番いらない紙屑が投身を謀る情景が1日に1度は再生されるというのに、それでも私は羨むだけ羨んで自分から動こうとはしない。
 きっとこの、ナオト先輩をもっと知りたいという感情も、嫉妬と気後れと羨望からきているのだろう。
 だって私だったら紙飛行機が落ちてても拾わないし、ましてや持ち主のげた箱にまで持っていったりなんて絶対しない。自分にないものを持っている人には憧れる、そして羨ましい。
「だからってどうしたらいいのかなんて分からないのがなぁ」
 先が見えない。まだまだ若いから何でもできるなんて言われるけれど、何でもって、果てがなさ過ぎて逆に何もやろうという気分になれない。
 自由度が高すぎると選択肢の前で立ち往生してしまって、進む方向が分からなくなってしまうのである。いや、ここは進むべき方向とすべきだろうか。
 進んだ先が確実に正解でない限り、私はカーソルをそこに合わせることができない。ゲームしてたら絶対要所要所で攻略見ちゃう、みたいな感じ。どうとでも挽回できるように作られているのは分かっているのに安全な方法しか取れない。それはとってもつまらない。
 なんて高尚垂れておいて、私は道が決めつけられていたとしてもそこを通るのを躊躇してしまうのであった。
 テスト前の現在において、安全策である行動は確実にテスト勉強をするというその一点のみである。確実に正解だ。誰が考えても安全な方法だ。
 それでも勉強やりたくないのって何が原因なんだろう。これが解明されたら私はノーベル賞でももらえるのではないか。思考が右往左往する。そんなこと考えている間に数学の公式を覚えろ。それだけで何点か取れるだろうが。
「点数で人生決まっちゃうのかなぁ。テストができない人間は幸せになれないのかなぁ」
 母も父も、絶対ガリ勉ではなかったはずだ。私の生態が証明である。それでも度々幸せそうに笑っているのだから、勉強なんて無理にする必要ないような気もする。
 どうしようもなくなって、というか勉強机に座っているのが暇で暇で仕方がなくなって、私はリビングに向かった。リビングでは母がぼんやりとテレビを眺めていた。番組はバラエティである。隣に腰掛けて私もまたテレビを眺める。
「勉強はどうしたの」
「しなくてもいいかなって思った」
「そんなわけないでしょ」
「……ずっと気になってるんだけど、勉強ってそんなに大事?」
「今のあんたには一番大事でしょ。来年受験なのよ、赤点取ってたって進路どうするの」
「どうするんだろうね」
「自分のことでしょ、しっかりしなさい」
 しっかりって何、逆にどういう状態になれたらしっかりしてるって評価されるの。注意が抽象的すぎる。
 先生の言うこと全部聞けたらしっかり? テストで満点取れたらしっかり? ピンと来ないな、なんだか腑に落ちない。
 小言が始まってしまう予感がしたので私は自分の部屋に戻る。机に向かわずにベッドに横になる。目を閉じる。
 私なんかが頑張れない。頑張ってみたことすらないかもしれないが、そもそも頑張り始める勇気がわかないので結局のところイコールである。
 やればできると世間は言う。親も先生も知らない人ですら。
 ならばそれができない私って本当になんなんだろう。みんなやってることで、誰もが嫌々ながら進んでいる道で、それすらできない私って一体。
 悠長に自虐かましている場合じゃないのかもしれない。けど、さぁ。
「できるわけないじゃん……」
 こんなときでも枕は私に優しい。顔をうずめて息を吐く。一応頭のどこかには、今からでも立ち上がって参考書開いて並んだ文字を目に焼き付けなさいと指示してくる私もいる。しかし弱すぎる。ダラダラしてゴロゴロしてテスト日を迎えなさいと誘惑してくる私の方が強い。残念な話だ。
 寝たり起きたりしたので夢を見た。詳細を覚えていないが確実に夢は見た。やるせない気持ちだけが私に残って、それでも私はダメだった。
 
 勉強してないですと公言して回る奴ほど実は割と勉強していたりする。そしてサラッと高得点を取って、恥ずかしげに「一夜漬けなんだけど」などとほざいたりする。これは私が中学生になって、定期テストという概念と触れ合ってから実感した世界の真理である。
 見ろ、この私の真の一夜漬けを。睡眠時間も元気にまるまる享受したので、体力だけは有り余っている。
「英語、ダメだったわー」
「良かった試しがない」
 テスト週間はテストしか授業がない。その点は素晴らしい。点数でアレコレ言われないなら毎週テスト週間であれ。
 のほほんとコンビニで買い食いしながら、友人と口頭でテストの答え合わせなどをしたりする。これで案外、この友人は真面目ちゃんなのだ。セール中だからと欲張って買った、二枚目のチキンを開封した私を横目で見ながら、スムージーを吸っている。
「あんたといると全てがどうでも良くなるわ」
「それは光栄」
「これを褒められてると認識するところも嫌いじゃないぜ」
「好きっていいなよ」
「調子に乗るなよ」
 冷たい。友人がズルズル吸ってるスムージーくらい冷たい。
 私は泣き真似をしつつもチキンを頬張るという神業をやってのけた。この手のホットスナックは温かいうちが美味しいので苦肉の策だった。噛むほどに口に溢れる肉汁が素晴らしい。
「おいしー」
「それは良かった」
 しばらくそれぞれで買った食品をモグモグと食べ進めていった。時間は夕方になっていて、そろそろ帰らなければテスト勉強の時間がなくなるなぁと他人事のように考える。
 勉強に向けて意欲のある自分と、いくらやっても時間の無駄とやけになっている自分がどちらもいるかのようだ。これを古来より人間は、心の中の天使と悪魔と表現しがちである。私にとってはどちらも悪魔、もしくは天使だ。どっちつかずが一番ダメ。
「勉強したくないなー」
「しないでいようぜ……」
「そういうわけにはいかないからさぁ」
 だから、子どもは大変なのだと友人はぼやいた。何目線だよと突っ込みたい気持ちもあったが、私は冷める前にチキンを完食することを優先した。
 スムージーを飲み終わった友人は、チョコ菓子をぽいと口に入れている。ひとつ食べただけでカバンに仕舞ってしまった。いつもは完食するので、不思議に思って問う。
「食べないの?」
「うーん」
 友人は眉を寄せた。食べたい気持ちはあるらしい。
「勉強中に食べようかな」
「え、えら……」
「というか明日もテストだし、早く帰ろ」
「偉さの二重奏」
「形から入ったら案外出来るかもしれん」
「ハッ……メガネ買わなきゃ」
「百均のレンズの入ってないやつな」
 何故か揃って伊達メガネを買って帰路に着いた。家で机に向かいながら掛けてみたが邪魔になっただけで、黒縁の伊達メガネは引き出しの中に突っ込まれた。

「紙飛行機つくってー、明日に」
「投げるの?」
 五限に返ってきた生物のテストは赤点をギリギリまぬがれた。私はその解答用紙の裏に、何も書かずに紙飛行機を折る。何しても墜落するなら書くことなんてないだろうに。
 友人から投げかけられた問いには首を緩く横に振って否定をあらわにする。どうせ落っこちるんだからと風の抵抗なんて考えずに、ただ普通にオーソドックスな紙飛行機を折った。彼女は私のその行動を横からじっと見ている。
「もう諦めたの?前何書いてたのか知らないけど」
「何も書いてなかったよ。見せかけだけ。書くわけないじゃん、中学生日記じゃあるまいし」
「高校生日記」
「ブログに書くわ」
 そうだよね、と雑な会話をして話は終了。いつも友人とは一緒に帰っているので、前回のように何の理由もなく私が放課後に残っていても、彼女は何も言わずに待ってくれている。
 親友だ何だと言い合ったことはないからそこに友情があるのかは良く分からないけれど、端から見ればすごく仲良しに見えるそうなので一応友人なんだろうと思う。中途半端な余り物二人組の間違いじゃないかとも思わなくもないがそんなこと言ったらこの子まで別グループなるものに移籍してしまうかもしれない。
 友達自体は多いけれど、こうやって常に共にいるような、そういうグループ的なものには入りきれなかったのが私とこの友人なのである。必然的に似た者同士で手を組む流れとなったのだった。
「もう一回、投げてみたら?」
 話は終了したと思っていたのに友人が掘り返してきた。もう一回かぁ、と私は渋る。だって、どうせ落ちるしなぁ。
 私の気乗りしない態度には慣れっこらしく、彼女は気にしていないかのようにゆったりと伸びをしてトイレへ向かった。その背中を見送りながら、再度もう一回かと呟いて校庭へ目線をふらりと向ける。
 また、その、ナオト先輩が拾ってくれる保障はないから。もう部活終了したであろうナオト先輩があの時間にあそこを歩いていただけで奇跡だったんだし、奇跡はそうそう何度も起こるものじゃない。
 今度こそは心ない奴に拾われて馬鹿にされるか、それか誰にも拾われないで私が悲しく持ち上げるまでそのままという展開になる、絶対なる。気が引ける。
 もしかしたらナオト先輩が通るかもしれないという一抹の望みにかけて、それでも通るわけがないと心のどこかが全否定していたから、私は横目で校庭をなにげなく見下ろす。そもそも、人がなかなか通らない。当然だ、げた箱と校門は反対側なのだ。
 どうしてあのときナオト先輩はここを歩いていたのだろう。私の願いを見てどう思ったんだろう、そのわりに全く努力してない証拠である赤点のテストを見てどう思ったんだろう。
 もう、会わないかもしれない。三学期、三年生は次々と自宅学習にシフトしていき、もう来月には卒業式の話も出てくる。
 いろいろと遅かったなぁ、と冷静に状況を分析した。本当にいろいろ遅い。ナオト先輩にどこの大学行くか聞いたって、それから私が今から勉強したって無理な場所だったら絶対無理なのだ。希望がない。

 在校生である私はただぼんやり座りながら、帰宅部ゆえに特に別れを惜しみまくる先輩もいないまま眠気と戦っていた。
 卒業証書授与、のときに初めてナオト先輩のフルネームを耳にした。ナオト先輩の快活な返事が思いのほか体育館内に響き渡って私はどきりと胸を高鳴らせる。
 きっともうナオト先輩は私のことなんて忘れてしまっているだろう。なにせ、あれから会ってないのである。
 いくらでもその機会はあった。なのに、私は会いに行く勇気が湧かなかった。私なんかが隣に並べるわけがない。泣けるものも泣けなかった。私の隣の席にいる女子は、仲の良い先輩が卒業してしまうのか式が始まってからずっと今までぐすぐすと鼻を鳴らしている。
 卒業生が退場していく様子を私は遠巻きに眺める。知り合いなんていないし。ナオト先輩の横顔くらいは最後に見てやろうと思ったのに、知らない卒業生たちにまぎれて、途中から目で追うことができなくなった。
 では体育館を出てからと考えてはみたが、彼はどうやら部活の後輩であろう在校生たちに周囲を囲まれており、やすやすと近付けそうにない。私はため息を吐いて背を向ける。
 私は幸せになりたかった。
 その人任せな気持ちを第三者に全否定してもらいたかった。だったら頑張れよ、と、私は他でもないナオト先輩に言ってもらいたかったのだ。
 分かってるならいいじゃないか、と私は自分で自分を励ます。言葉が欲しいというのなら友人にこのグズ根性見せろやとでも言ってもらえばいい。頼んだら言ってくれる。むしろ頼まなくても私の言動を見ていればいずれ堪えかねて言われる。それで私は改心できる。大丈夫なはず。
 だって、私はナオト先輩を好きなわけではないから。ちょっと話しただけなんだから、そんな惚れっぽくもないし。
「いいの?あの先輩行っちゃうよ」
「……いいよ。もう向こうも覚えてないだろうし」
「このカス」
「は?」
「根性見せなよ、もう一生涯会えないんだよ」
 友人の堪えかねポイントはこのタイミングだった。彼女にナオト先輩に関してのコメントは期待していなかったのにもかかわらず、私は誰よりも私を理解していてくれた親友からの激励に、知らず知らず涙がこぼれていた。
 私自身も、友人とずっと同じ気持ちだった。
 今まで何も頑張ってこなかった私の、生まれて初めての全力を見せるときがきたのかもしれない。
 好きですなんて言えるほど自分の気持ちは固まっちゃいない。きっと別に好きなわけではない、尊敬までも行ってないと思うし、この感情の呼び方が分からない。けれども。
 私は深呼吸をして、おざなりに手の甲で涙をぬぐう。そのままその手の親指を立てて見せた。どうせこれから会うこともないなら、先輩にどんな印象を与えたってプラマイゼロだ。
 そう自分に言い聞かせて、結局は自分のためだけに、自分がこの先納得して進むためだけに私はナオト先輩の背後に近付く。
 気配を悟るのが上手いのか、すぐに先輩は気付いて私の方を振り返った。ナオト先輩の周囲にちらほらといる他の先輩たちの目線もこちらに突き刺さってくるが、そんなものはどうでもいい、だって、これは告白とかじゃない。ケジメである。息を吸う。
「先輩ご卒業おめでとうございます」
「……あぁ、あのときの……ありがとう、君も来年卒業だろ?」
「そうですね」
「受験大変だろうが頑張れよ」
「……はい」
 いやいやいや、これでは何もこれっぽちも全くもって変わらないじゃないか、こんな言葉をもらいにきたわけではない。誰にでも送っているような社交辞令の励ましを受けて、私が、この私が果たして頑張れるとでも思っているのだろうか。私は弱いのだ。なめないでほしい。
 奥歯を噛みしめて、ナオト先輩との交流が圧倒的に足りていない現状を嘆く。もうここまできたならなにも遠慮などすることはないのだ。怖気づくなどみっともない。
 ほら、私。変なところで度胸が据わっているタイプだから。マリオの歩くと落ちる道みたいなもんだ、踏み出したなら踏み出し続けるべきなのである。
「先輩、私は……、幸せになるために頑張ります、今からだから、無理かもだけど。先輩があのとき……あのあれを、拾ってくれたから私は奇跡を信じようという気持ちになれました。……無理かもだけど、それでも」
 言葉がつっかえた。保身がどうしても前に出すぎて、決意表明のはずが、無理かもだけどと後ろ向きな言葉が付きまとう。
 ナオト先輩は私をじっと見つめていた。つたない言葉で綺麗事を口にする私をじっと見ていた。どういう気持ちなのかは推し量れなかった。
 自分の言葉がフェードアウトしていくのが分かる。気持ちが言葉に引きずられてはいけない、私は声量に気を配る。
 ナオト先輩が口を開いた。
「……もし君が」
 私は驚いた。ナオト先輩の声はこんなに頭に跡を残すものだっただろうか。先輩は続ける。
「君が努力して何かを得ることができたなら、それは奇跡なんかじゃない。それだけの行動を君が起こしたんだよ。上手く言えないけど、そういう……努力ってのはそれなりに報われるから、俺は無理かもだとか言う前に動いてみるべきだと思うよ」
 息が一瞬詰まった。すぐに呼吸を取り戻して、私は何ともなかったかのように先輩を見遣る。本当に全然ショックじゃなかったし、むしろどこか晴れやかだった。そもそも自分で分かっていたことなのだ。
 きっと先輩も思いきれない私を分かっていて、後押ししてくれた。だから努めて明るく。
「……そうですよね。頑張りますありがとうございます」
「ま、数学からだね」
「そうなりますよね」
 にっこり、と笑顔を向けられて、かすかにわなないていた心臓がぎゅっと締めつけられた。目頭がじんわりと熱を持つ。この期に及んで先輩に涙を見せるわけにはいかなかったので、私は再度おめでとうございますと告げて頭を大きく下げた。
 反動で数滴涙が飛んだが気付かれなかっただろう、気付かれなかったと信じたい。頭を上げずにそのまま回れ右して教室に向かってひた走った。

 通り道の渡り廊下に私の親友が立っていた。やっぱり半泣きになっている私を見て、言う。
「もう一回、紙飛行機投げてみたら?」
 私は涙を拭った。そうね、それもいいかもしれない。今度は自分の夢と汚点を、自分自身で拾いに行くのだ。