綾さんと高校生


「珍しいな」
恋人の声に意識が引き戻される。
なにが、と問うと、それ。と、綾の両掌に収まっているものを指を差された。
「マグカップ抱えたまま固まってた。気づいてなかったのか?」
「あら、そう?」
少し熱めだったコーヒーが飲み頃になるくらいには考え事をしていたらしい。
「そうみたい」
おどけたように言うと、東は小さく笑った。
「今日ね、可愛い高校生とお近づきになったの」
「高校生?新しい隊員?」
「ううん」
一呼吸分の短い沈黙ののち、「男?」と短い言葉が投げかけられた。
大多数の隊員たちは、その声色を聞いても「いつもの東さん」と感じるだろう。

「言葉が足りなかったわね。可愛い『女子高生』とお近づきになったの」
「…からかったな」
「なんのことかしら」
などとすまし顔でコーヒーを口に含んだ綾に、やれやれと話の先を促した。
「怖くないんですかって尋ねられたわ」
「ーーー」
「いつどこで近界民が押し寄せるかわからないこの状態が怖くないんですか、って。三門市に越してきたばかりの子なの」
聡い東のことだ。綾が誰のことを話しているのか察したことだろう。
「春秋たちがいるから怖くないって答えたわ」
「そうか」
「うん」
「ふふ、ちょっと照れてる?」
「…もう飲まないなら片付けるよ」
綾の手からマグカップを取り上げ、東はシンクに向かうため背を向けた。
その広い背中に、ふと彼女の小さな背中が重なった。

わたしは子供だから。飛鷹さんみたいに、大事な人の支えになれない。
わたしはどうしたらいいですか。どうしたら大切な人の苦しみを少しでも取り払えますか。どうしたら。

三門市にやってきたばかりの少女が。
近界民への恐怖感に対してではなく、誰かのことで心を砕き。震える声で。決壊しそうな瞳で。縋るように綾を見つめていた。助けを求めていた。ぽろぽろと涙を零す彼女の背中を、そっとさするしかできなかった。

言葉をかけようとしたそのとき。複数の人間がやってくる気配がした。そういえばそろそろランク戦が終わる時分だ。
彼女は突然泣き出したことを謝罪し、「父には言わないでください」と、涙の筋が残ったまま頭を下げ、綾が口を開く余地を与えぬまま駆け出した。
ーーなんて言ってあげればよかったのかしら。
何も言葉をかけられなかったことと、もうひとつ。気になること。小さなトゲのように引っかかったこと。
彼女の想いのベクトルは、ボーダーで働く両親に対してではないようなきがした。もしかしたらーー。
推測を巡らせても仕方ない。と綾は首を振る。

私には春秋がいる。
私は春秋が好きで、春秋も私のことが好きだ。かけがえのない存在だと思い合っている。
支え合っている。
彼女のおかげ、というには少々軽薄に感じた。けれど今日のことがきっかけで、あらためてその事実が幸せなことだと噛み締めているのも事実だ。
「ありがとうね、春秋」
綾の呟きを、洗い物への感謝の言葉だと東は信じたようだった。