及川徹という男


「及川徹」という男がいる。

「なっちゃんさぁ」
ついと顔を上げると、整った顔立ちがじっとこちらを見つめていた。
「なに?」
「勉強してる?」
「それなりに。来年は受験だし」
「えーそれじゃよくわかんないよ」
「徹くんのバレーの練習ほどじゃないかな」
そう返すと、知らないくせに、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。口元がパクパクとそう口元がそう動いたので、本当にそう言ったかもしれない。
私たちがぬくぬく温まっているこたつから少し離れたテーブルを囲み、大人たちは馬鹿騒ぎをしている。夕方前から続いている酒盛りですっかり出来上がったその盛り上がりの声に、彼の言葉はかき消されてしまったけれど。


及川徹とわたしの関係は「いとこ」だ。

物心ついた頃には毎月のように父親の実家である、ここ宮城に連れてこられていた。
同い年ということもあってか、徹くんとはとても仲が良かった、と、思う。
わたしたちが成長するにつれその回数は少なくなったものの、年に何度かはこうして帰省をし、親たちは夜通し飲み騒いでいる。

「中学のときはなんか苦しそうだったし。楽しそうでよかったね」
「え?」
「荒れてた時期があったじゃない。ヘラヘラしてたけど笑ってなかったし」
「ヘラヘラってひどい」
そう文句を言いながらも、そっかー、気がついてたんだーすごいねーたまにしか会ってなかったのにさーと、ヘラヘラ笑った。
普段会わないからこそわかることもあるんだよ、なんて伝えたらふにゃふにゃ笑いそうだ。わたしは黙って漫画に視線を戻した。
うっかりそんなことを言ったら、意地悪な彼のことだ。年に数回、徹くんの持つ漫画を読みふける楽しみが邪魔されてしまう。なのでこれも伝えまい。

彼は頬杖をつきながら、わたしの顔をじっと見つめているようだ。気配がする。あなたみたいに整った顔じゃないのだから、見ていても面白くないのに。

「だから俺、なっちゃんのこと好きなんだよね」
「そうなんだ」
「ねぇ、なんでそんなに素っ気ないの?!」
「はいはいわたしも好き好き大好きチャイコスフキーストラビンスキードストエフスキー」
言い終わるが早いか突然、両手の中から紙の厚みが消えた。「感情がこもってないー!」と、頬を膨らませた彼が漫画を奪っていた。顔がいいから妙に似合っているのが腹立たしい。むさくるしい男子高校生のくせに。
「読んでたんだから返してよ」
「返さない!なっちゃん、俺のお嫁さんになるって言ったじゃん!」
「わたしが覚えていない3歳の頃の話を持ち出さないで。あと彼女に振られたからって手短なところで妥協しようとしないで」
「え、それは、あの、別の子と付き合うことでなっちゃんが大好きなのを再認識しようと」
「うん……?あーうん、そうだね、ずんだもちだね……」

こたつの温さとお腹が満たされたことで、ゆるゆると眠気が襲ってきているのがわかる。わたしは会話を切り上げ、欲求に抗うことを早々に放棄した。
必死に言い訳をする徹くんの声が、だんだん遠ざかっていく。おやすみなさいと言葉にしたつもりだったけど、口から出たのはムニャムニャというあくびだった。ああもうむり。

「えっなにゆってんの?てかなんでこのタイミングで寝るの?!ねぇー!」
「うるさい…」
腕を枕にして突っ伏したところを揺さぶられ、その方向へ振り上げた手の甲が何かに当たり。ぐえ、とうめき声とともに不快な振動は収まった。

「俺はずっとずっと、なっちゃんのことが」

たゆたう意識の片隅で聞こえた誰かの言葉の続きは、わたしにはもう届かなかった。