若松君と小話
 1時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響くと、途端に教室が喧騒を取り戻す。友達の席に集まる者、次の授業の用意をする者、宿題として出ていた問題を解こうとする者─各々自由に、様々。

「うーん……もやもやする…………」

 そんな中、私はきっと誰よりも神妙な顔つきで机に両肘をついて頭を抱えている事だろう。勿論、昨夜の千代ちゃん先輩と野崎先輩が織り成す一連の恋騒動にある。
 まるで漫画のような怒涛の展開とでもいうのだろうか、好きだった相手に告白(言葉はファンです、だけれど)をして、偶然にもその相手は少女漫画家で、千代ちゃん先輩は告白の返事ではなくサイン色紙を貰ってしまったなんて。大体、男子高校生が漫画家──なんて話すらなかなか聞いたことがないというのに、彼はその上を行く少女漫画家、しかも巷で人気な「恋しよっ」の作者なんだよ──興奮気味であった千代ちゃん先輩の熱いセリフが頭の中でリフレインする。それに、あのやり取りの後に千代ちゃん先輩から送られてきた写真にはしっかりと夢野咲子と書かれたサイン色紙が載っていた。未だに半信半疑だが、あの千代ちゃん先輩の興奮ぶりから本当に野崎先輩は漫画家の方なのかもしれない。しかし、そんな上手いことがあるのだろうか。
本当の所、おかしな話と私は思うし、正直野崎先輩を自らの目で確認しないと納得が出来ない。なんだか、千代ちゃん先輩が騙されていないかやけに不安になってしまうのだ。いつも朗らかな笑顔を浮かべているし、同性である私から見ても小動物のような可愛さがある。それを武器にしないで天真爛漫に私が作ったお菓子を頬張る姿は後輩ながらも、こう、わしゃわしゃと頭を撫で回したい衝動に駆られてしまう(そう思うだけでやってはいないが)。なんやかんや、千代ちゃん先輩の恋模様は複雑かつ一筋縄ではいかない代物のようだ。
 私もあの夏の日に会った堀先輩に未だに会えてはいないから、人の事は言えないけれど。

「(千代ちゃん先輩から色々話は聞いてたから、追求なんて失礼なことはしないけど……)やっぱり、ちょっと不安かなあ」
「何が不安なの?」
「あ、若松君」

 ぽろりと呟いた一言を救い取られ、思わず顔をあげれば2つのエメラルドと視線が交差した。私の顔を覗き込むように現れた長身の彼は、クラスメイトの若松博隆君。隣の席に座る優しくて穏やかなお隣さんだ。

「んー、なんというか、私の仲良い先輩の話でね。悪い人に引っかからないといいな、なんて思ってたんだよ」
「! そっか。さっきから瀬尾さん少し暗い顔して溜息吐いてたから。心配してたんだけど、落ち込んでないみたいで安心したよ」
「え、そんなに暗い顔だったかな……?でも心配してくれてありがとう、若松君」
「どういたしまして」

 にこりと微笑む若松君の爽やかな笑顔に疑心暗鬼になっていた荒んだ心が平になっていく、そんな安心感が胸を占拠する。
 若松博隆君──まだ入学して日が浅いというのに、クラスメイトの誰よりも背が高い彼は、所属するバスケ部ではもうすっかり期待の新人として先輩に可愛がられているそうだ。私の中では、バスケ部は上下関係の厳しい体育会系の男の人が多いイメージだったのだが、クラス内での自己紹介の時には「若松博隆です! 好きなものはカレーとハンバーグで、好きなことはえっとバスケと体を動かすことです!」ときらきらした表情で言い放つ姿を見て、思わず見方を改めようと考えてしまった。
そんな若松君は全く人見知りをするタイプではないようで、隣の席になった時から色々話しかけてくれて、その影響で友達もすぐに出来た。少し緊張していた新生活も彼のお陰で早くも楽しい学校生活を送れている。

「へえ。瀬尾さんってお菓子が好きなんだ」
「そうだよ。食べるのも好きだけど、作るのも好きかな。お姉ちゃんがいない時は私が食べるんだけど、ついつい頬張っちゃうんだよね!」

頬杖を解いて、席に戻った若松君と何気ない会話を楽しむ──ふと、何気無しに彼の首筋に視線が向かった。そこには左側を覆う白い湿布が貼られている。しかもよく見れば、右頬に絆創膏、左手首にも湿布、はたまた眉上には微かに痣があるではないか! どうして彼はこんなにも傷だらけなのだろう。訝しげな視線に気がついたのか、若松君は苦笑しつつ頬をかいた。

「男バスに週に何回か助っ人で来てくれる先輩がいるんだけどさ、その人のラフプレイでやられたんだよね……」
「その怪我、全部が?」
「最早あの人のプレーはバスケじゃないんだよ! 人の顔面に思いっきりぶつけてくるし、反則ばっかしてくるし、何故か俺ばっかり狙ってくるし……だから最近不眠症で辛くて……ううぅ……」
「はい、ティッシュ。それにしても心が無い先輩なんだね。顧問の先生に相談してみたらいいんじゃない?」
「ありがとう…」ずび、と思い切り鼻を噛みながら若松君は独りごちるように微かな声で言葉を紡いだ「もうとっくに相談してる。"瀬尾"を止めるのは無理だ。しでかす瀬尾を追いかける事しか出来ない、って死にそうな顔で言われた……」
「えっ」

若松君から零れた"瀬尾"という名字に、思わず身体と心臓が音を立てて跳ねた。いや、まさか。もくもくと脳内に現れる見覚えのある少し粗暴な姉の姿──そういえば、最近リビングでバスケの試合を見たばかり──いや、まさか! 夕飯を食べながら、「最近バスケの助っ人しててさあ。結構楽しいから結葉もやる?」と誘われた事もあるが──いや、まさか!!

「若松ー次体育だぞ、更衣室行こうぜ」

そのクラスメイトの声により、次が移動授業だという事実を思い出す。若松君も同じだったようで、二人して似た表情を浮かべてしまって、少し笑ってしまいそうになる。

「あ、そうだった……ごめん、瀬尾さん!なんか変な話聞かせちゃって…… 」
「全然気にしてないよ。体育は、確か男子はバスケだよね。怪我しないように気をつけて」
「! うん。ありがとう、瀬尾さん」

じゃあ、とジャージを持って更衣室へ向かった若松君らを見送り、男子が1人も居なくなったことを確認。すぐ様、机に引っ掛けていたバッグを引っ張り上げた。
すると、既に着替え終えた友人がにやにやと笑いながら、近づいてくる。

「結葉。見てたよ。若松と結構仲良いじゃん」
「え、ちょっと……別にそんなんじゃないよ?」
「知ってる知ってる。結葉は"ホリセンパイ"だもんねえ」
「そ、それはそうだよ!まだ会えてないけど……」
「じゃあ若松に──」

突如──友人の言葉を遮り響き渡った、ばん、という大きな音。それは空気を通して、私達D組の教室まで確かに届いた。学校生活でなかなか聞くような音ではない為、友人やクラスメイトは皆不思議そうに音の出どころである廊下にこぞって向かってしまう(気になるけど、私は今のうちに着替えないと授業に遅れる!)。

「結葉ー」
「あ、おかえり。どうだった?」

そして戻ってきた友人達は、一同なんとも微妙な呆れ顔を浮かべている。

「また若松倒れてたよ。これで2度目じゃない?」
「なんか目に真っ黒いクマ出来てたらしいよ。寝れてないのかな、可哀想」
「そ、そうなのかな、はは……」

口々に呟く友人の前で、彼の不眠症の原因は私の姉だ、という事実は口が裂けても言えないトップシークレットである。
どうにかして、彼の不眠症とお姉ちゃんの無邪気な暴力を止めることは出来ないのだろうか──私は、着かけていた半袖の上着の白い世界の中で、そっとため息を吐いた。

2017.0506.