年下幼馴染

 はじめて、十四松くんと喧嘩をした。ずっと幼馴染として生きてきて、初めての喧嘩だった。
 1時間前──うきうきしながら歩いていたであろう松野家に通ずる道を、今は足取り重くとぼとぼと歩く。ふと見上げた先は、雲1つない純粋で、濃い青が果てしなく広がる清々しい空模様─いつもならばすかさずスマホを取り出して、頭上で広がる光景を写真に収めるのに─今の落ち込みきった私には、美しい青はどんよりとした鈍色に見えた。
 きっかけは何だっただろうか。怒りでヒートアップしてしまった頭には、原因という記憶が欠落していた。気がつけば、お互い売り言葉に買い言葉、次々と言葉を重ねて、そこで十四松くんから飛び出した─きらい、名前ちゃんなんてきらい!─その言葉にかちんときた私は耐えきれずに家を飛び出した。ダッフルコートもお気に入りのリュックも背負わず、勢いそのままに逃げてしまった私。外の冷風は、火照った顔と怒りで一杯の頭を醒ますのには最適であった。

「…十四松くん、まだ怒ってるかな」

 冷静になればなる程に、喧嘩の時に言ってしまった暴言の数々が頭をよぎる。怒りで我を忘れていたとはいえ、言い過ぎた。足元からじわりじわりと後悔の影が私を飲み込んで行く。

「…謝らなきゃ」

 ぽつりと自然に出た言葉は、突如巻き起こった強風に拐かされていった。まるで謝っても意味がないと、否定されているようで心がざわつき、落ち着かない。
 もし、この喧嘩が原因で嫌われていたら、どうしよう。愛想尽かされたら、もう目も合わせてくれないのかな。もう遊べない?もうあの笑顔が見れない?─そう考えれば、十四松くんに嫌われてしまう事があまりにも嫌で苦しくて悲しくて、ぼろぼろと大きな雫が溢れてきた。謝りたい。しかし、もう嫌われていたらと思うと怖くて引き返すことができない。傷つきたくないから元来た道を辿れない、そんな卑怯で弱い自分に無性に苛立った。
 ぽたた、とコンクリートに暗い粒が落ちる。本当の鈍色は上ではなく下であった。

「名前!」
「わっ」

 人気がない、まるで私だけしか存在していなかった小さな道路世界で、突如として入り込んだ大声が1つ。音の出所を確認する前に、左肩から身体が大きく傾き、ぐるりと回転させられる。

「…っは。やっと、やっと…見つけた…」
「カラ松兄さん…」

 私の眼前には、両手に膝を添えて息を荒くしたカラ松兄さんが立っている。紅潮した頬を滑り落ちる滝のような汗─どれ程走り回ったのだろう、きちんとセットした髪も崩れてぼさぼさだ。ああ、咳き込んでる──どうして、このように慌てて私を追いかけて来たのだろうか。いきなり現れたカラ松兄さんに、私はただ無言で困惑するしか出来ずにいた。

「げほ、…んん。探したぜ、この俺と共にブラザーのい─」

 咳払いをし、いつもの調子に戻ったカラ松兄さんは目配せをして、私を視界に入れた途端に微動だにしなくなる。かっこつけなければ女の子にも負けないであろう、ぱっちりとした瞳と純粋な色をただひたすら私に向ける。─さっきの空のようだな、と密かに思った。

「…名前」今までで聞いたことのない、微かで小さくて儚い声だった「お前も、泣いてたのか…?」
「え、これは…!」

 はっとなり、乱暴に目をこすり涙を消そうとしても、それらは止めなく、際限なく、重力に従い落下してゆく─駄目、落ちるな!カラ松兄さんが困ってしまう─言い聞かせても言い聞かせても、視界は潤んだままで。吐き出した二酸化炭素はやけに熱を帯びていた。
 がり、じゃり、アスファルトを足で擦る音。

「ごめんな。俺は、お前達の兄ちゃんなのに、何もしてやれなくて…」

 ふわりと鼻腔を漂う、爽やかな洗剤の香り。そしてふやけていた視界を覆い尽くす空よりも濃い澄んだ青色。数秒遅れて、やっとカラ松兄さんが抱きしめてくれていると理解した。大きくて骨ばった手のひらが、そっとぎこちなく頭を撫でやる。そこから伝わる熱が、まるで陽だまりのように心に染み渡った。
 人の体温はどんなに落ち込んだ気持ちでいても、不思議と色をつけてくれる─何もしてやれてなんか、ないのに─感謝を込めて震える手でパーカーの裾を握り締める。名前は甘えただなあ、と優しく笑うカラ松さんの声に、さらに鼻の奥がツンと、痛んだ。

「…っわたし、十四松くんに嫌われ、ちゃったのかなあ…」
「そんな事はないさ。十四松も反省して、謝りたい仲直りしたいって言ってたぞ。──さ、早く家に帰って仲直りしよう。兄ちゃんもついてやるから、な?」

 こくりと頷くと、カラ松さんはにかっと笑っていい子だ、と頭を目一杯に撫でた。髪の毛が崩れる、と泣きながら文句を言えば、なら俺と一緒だな、なんて嬉しそうに笑っていて、なんだかおかしくなって2人して顔を見合わせて笑顔を浮かべる。

「仲直りしたら、俺と名前と十四松で兄ちゃん特製のシチューを作ろうな」
「…楽しみだなあ」

 手を繋いで三度目の道をたどる。鈍色の空はいつの間にか青色の空へと変わっていた。