image

キスをひとくち


「名前」

体育館傍の水道でボトルを洗っていると、休憩中のはずの黒尾がわざとらしく手招きしながら私を呼び寄せる。

「なに」
「チョットお願いがありまして」

黒尾がお願いとはろくな事じゃなさそうだななんて思いながら、手を止めてどんなことと問いかけた。しかし、すぐに返事が返ってくるかと思えば言い淀んでなかなか要件を話そうとしない。そんなに頼みにくいってことは、やっぱりくだらないことなのだろうか。

「言いにくいこと?」
「イエ、まあ……ハイ」
「どっちなの」

目を逸らして答える様子からして、あんまり良いお願いじゃなさそうだ。でもまあ、実際どんなことか聞いてみないことには分からないので、言ってくれないと話が進まない。このままずっと仕事を止めているわけにもいかないのだ。

「とりあえず、言うだけ言ってみて。それから考えるから」
「……その、」
「ん?」

黒尾は一度言いかけたが、すぐに口を閉じて唸った。そんなにも言いにくいお願いって何なのか、逆に気になってくる。仕方がないと一歩彼に近づいてユニフォームの裾を軽く引いた。それから上目遣いを意識して、早くとこちらから催促する。これに弱いということは最近の経験から学習済みだ。案の定、手で口元を隠して言葉に詰まる黒尾に内心ほくそ笑む。

「ああもう、なんでこんなことするの」
「意気地なしの黒尾クンのためにこっちからお願いしただけ」
「あー、うん。俺のせいです」

黒尾が大きなため息を吐いてから深呼吸する。そのとき閉じられていた瞳があらわになった。先ほどとは打って変わって真剣な表情に息を呑んだ。

「俺、さっきの練習試合でまあ不調だったわけよ」

試合には勝てたけどさ、と続ける。言われてみれば、ちょっと動きが鈍かったかもしれない。でもそれは微々たるもので、公式試合ならまだしも、放課後の部内での試合形式となれば然したるところではない。まあ、ちょっと今日気分が乗らないなとか、暑いから動きが鈍いなとか7コマも授業あって疲れてるしな、とか少なくともチーム全体の士気に関わるような大きいものではなさそうだった。

「でまあ何でかなって考えて、そういえば今日は名前が足りないかもしれないと思って」
「は、」

黒尾は顎に手を宛てて深刻な表情をする。何で私が足りないなんて結論に至るのか、あまりにも突拍子もなさ過ぎて開いた口が塞がらない。それでも彼は気にすることなく続けて言う。

「昼休みは一緒に食べられなかったし?部活前も大して時間なくて、それっていつもと比べたら足りてないってことでしょ」

確かに昼休みは一緒に食べることが多いものの、絶対ではない。部活前なんて日直だとか委員会があれば一緒に行くことはないし、部活前の雑談時間も無いなんてことはしょっちゅうある。特筆すべき事柄とは思えず、頭の中でクエッションマークを浮かべた。

「だから、なんていうか……キスしてくれたら頑張れるかなって思いましてね」

さっきの試合で頭をやられたのかという言葉は飲み込んだ。こんなことを言っているが、黒尾は真剣だ。たぶん。もちろん、付き合っているからそういういうことをすること自体に大きな抵抗はない。ただ誰かに見られるかもしれない体育館の外でとなるとさすがに遠慮したい。でもそろそろ休憩の時間も終わるだろうし、メンタルがそれで回復するならマネージャーとしてもありがたい。となれば、さっさと済ませなくてはいけない。情緒がないとかそんなことは言ってられなかった。頭の中でせめて妥協できる場所はどこかと校内地図を浮かべる。すると、反応の薄い私に黒尾は口をへの字に曲げた。

「これでも真剣にお願いしているんですケド」
「分かってる」

分かってるんだ、と目を瞬かす彼を他所に、ここだと体育館裏くらいしかないかと答えを出す。いかにもな場所だし、ちょうど誰かの告白現場とかになっていたら元も子もないけれど、もう他の選択肢も浮かばない。善は急げと黒尾の腕を引いて、目的の場所へと誘導する。幸いにも体育館裏には誰もいなかった。雑草が生え放題になっていて軽く足に触れる草がくすぐったい。

「名前?」
「屈んで、はやく」
「え、ああ、ウン」

本当にしてくれるのかという期待と驚きが混じった表情が珍しくて思わず笑みが零れる。私のせいで調子を乱しているのが可愛いなと思ってしまうのも、惚れた弱みだろうか。屈んで顔を寄せてくる彼の頬を両手で包み込んで、触れるだけのキスをする。ほんの一秒にも満たないくらいの一瞬だ。黒尾から離れると、一目散に部室へ走った。火照った顔を部員の前に晒すわけにもいかないし、彼と一緒に戻れば何かありましたと言っているも同然だ。だから、ほんのちょっとだけマネージャー業はお休みさせてほしい。10分、いや5分したら必ず戻るので、と誰にも伝わらない言い訳を頭の中で唱える。どうせ黒尾だってすぐには戻れやしないのだ。あれでいてそのまま何食わぬ顔で練習に戻れるほどできてはいない。彼も私と同じで好きな相手からのアプローチに無反応なんて無理に決まっている。でも、彼が無事調子を取り戻せたのか、はたまた物言わぬでくの坊になってしまったのか、それはそれで気になるな、と思った。