御幣島彩という男に対して、最初から素直に可愛いだとか、好きだとかそういった淡い感情を抱いていた訳では無く、ある程度関係値を深めてから、彼の猫っぽい瞳だとか、人懐っこく笑いかける表情だとか、明るくてじんわりと陽が差してくるみたいな性格とか、挙げきれないくらいの色んな彼の「良い部分」に気づいて、そういったものに絆され、惹かれていった。
黒統は今までろくに恋愛事と向き合った事が無くて、年甲斐もなく浮ついた、初心な恋愛感情を彩に対して抱きつつ、彼の友愛の好意にかまけて、一歩踏み出せないままの関係を続けていた。
人はテレパシーなんか使えないし、都合よく動く訳でもない。
彩も、変に勘は鋭い所はあれど、「言葉や行動に移さねば分からない」のだ。
彼は黒統の事を、親しい友人の一人として接していて、日和見した黒統が動かねばずっと多数の中の一人止まりなのだ。
恋愛は、誰が先に好きになったかではなく、誰が先に行動したかで決まるもの。
気づけば名も知らぬ、どこの馬の骨かも分からない男に先を越され、彩は誰かの大切な人になってしまった。
可哀想で惨めな臆病者は友人の面を被って、今日もひたすらに拗らせた愛憎を募らせ「友人」として振る舞うのだった。
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「あ、この小物めっちゃ可愛くないですか?」
「ほんとだ、かわいい」
ショッピングモールの一角にある小さな雑貨屋で、彩が手に取った小さなインテリア用品は、彼が言った通りに小洒落たデザインで、可愛らしい小動物を象った置物だった。
たまたま近場で、互いに好きな漫画の催し物があったから、それのついでだと立ち寄った商業施設。
雑貨や服、靴など、様々なものを物色して回る彩は楽しそうで、黒統もそれに釣られてか、いつもより足取り軽く買い物を楽しんでいた。
「ね、彩くん、これとかどう?」
彩が物色している棚とは反対側に並べられた、鍵置きトレイに目を向け、声を掛ければ、目を輝かせて黒統の元まで駆け寄った。
「おおっ、これ、うちの彼氏が好きそうだし、いいかも」
「……えっ」
きゅっと喉が締まって、不格好な声が漏れる。
あんな男の話を今しないで欲しいけれど、何より、自分の感性がその彼氏と似通っていたのが一番最悪な気分にさせた。
せっかく、彩と楽しく過ごしているっていうのに、ちらつく男の影に心底嫌気が差して、嫌悪感を追い出すように一度かぶりを振った。
友人同士の関係だと、笑って言えたらどんなに良いか。
けれど、もうそれすらも難しいくらいに黒統の心は彩に染められていたのだ。
ぐるぐると酷い感情が渦巻いて、脂汗がぶわりと吹き出てきた。
「……黒統さん、なんか体調わるい?すごい顔してますけど」
「…ぇ、あ…あぁ。すまない、少し御手洗い行ってくる」
彩の心配を他所に、逃げるように彼の側を離れて、トイレに向かう。
冷たい洗面台に手をついて、鏡を見れば酷い顔色をした自分が写っている。
ぐるぐる回る感情を洗い流したくて、乱雑に顔を洗うが一向にスッキリしない。それどころか、顔を拭えば拭うだけ酷い感情が沸き立って、いよいよ吐き気を催し、そのまんま洗面台に手をついて、さらさらとした唾をいっぱいにためて吐き出した。
「好きになったの、私の方が先なのにな」
鏡に映る自分の影に向かって女々しく呟く。
彩の恋人である男よりも、ずっとずっと前から、彼の事が好きだった。
だから嫉妬した。自分以外の男と関係を持つ彩が許せなかったし悲しかった。
けれどそれは全部、自分が勝手に抱いた感情で、それを彩に押し付けようなんて気は一切ない。
弱気で優しい根が、彩に嫌われることを恐れたが故に、今こうして苦しんでいる。本当に自分は馬鹿な男だと、悔しくて堪らない気持ちでいっぱいになりながら、自嘲した。
暫くして、やっと人前に出れるくらい落ち着いた頃合いに、黒統はトイレを出た。
彩はというと、とうの昔に買い物を終えて、例の雑貨屋の前で待ちつつ、スマホを弄って暇を潰していた。
「ごめん、待った?」
「遅かったですね、トイレ混んでたんです?」
能天気にいつもみたく、懐っこい笑みで彩が笑うから、黒統もつられて笑みがこぼれる。
「そうだ、さっきの鍵置き買ったんですよ〜、帰ったら早速玄関置きますね!」
「…そっか」
きっと恋人が喜ぶから、買ったんだろうと、胸の奥がずきりと痛むのを感じながら、どことなく寂しい様子で笑いかけた。
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賑わう店内は年末らしく騒々しくて、食べ物とアルコール、そしてタバコの匂いで充満していた。
ぼんやりと、手元の安っぽい焼酎ベースの緑茶割りのグラスを見つめ、目の前に座る彩の話を右から左へ聞き流す。
「黒統さん、話ぜってー聞いてないでしょ!」
彩が、手元に持ったタバコで指さすように、黒統の顔先へと向ける。
紫煙がふわりと黒統の鼻腔を擽って、前とは違う銘柄の香りに顔を顰める。
一挙一動、なんならタバコの銘柄まで男の影を感じるのは、きっと黒統が過敏過ぎるからで、気にするだけ馬鹿らしいと思いつつも、一度湧いて出た負の感情は次々湧いて出てきて手に負えない。
本当に憎たらしいと、心の中で八つ当たりするみたいに吐き捨て目の前の彼をたしなめる。
「人に火種を向けないの」
「じゃあちゃんと、話聞いてよ」
彩は拗ねたようにむすりと頬をふくらませて、タバコの火を消しながら、手元のハイボールを煽った。
黒統も手元の緑茶割りを啜れば、薄い渋みとアルコールが喉を焼きながら胃に落ちていく感覚がする。
「そういやさぁ、黒統さんって、好きな人とか居ないんですか?」
「っ、げほっ」
唐突な問いに、飲んでいた酒が気管に入り込み噎せる。
咳き込む黒統に慌てておしぼりを渡しながら、彼は心配そうな顔で見つめる。
「だ、大丈夫っすか」
そう声をかけられ、咳き込みながら頷けば、「絶対大丈夫じゃないじゃん」と眉を顰めた。
彩の心配が、今は酷く鬱陶しく感じて黒統はまた酒を流し込んだ。
むせて安酒の独特なツンとくるアルコール臭が気持ち悪い箇所に入ってくる感覚を紛らわすように、グラスを空にして、もう一杯同じものを頼む。
彩もつられて、黒統と同じものを注文し、それからは暫く無言だったけど、ぽつりと黒統が、感傷的な声色で消え入りそうに呟く。
「………きみが、好きなんだよ」
その言葉は、周りの喧騒でかき消されて、彩の耳には全く届かなかった。
何か喋ったのは分かるけれど、それが何かは聞き取れなくて、聞き返される。
そうしたら、ちょっとだけ寂しそうに笑ってから次は聞き取れる大きさの声量で「好きな人、居ないんだよね」と答えたのだった。
彩との飲み会は案外遅くまで続いて、気づけば店もラストオーダーの時間になっていた。
酒は大量に飲んでいる筈なのに、何故か酔いが回る様子がほんの少しだけしかなくて、やけに視界も思考もクリアな事に黒統は少しだけ、気味悪ささえ感じていた。
彩はというと、元々そこまで強くないクセに飲むのが好きだから、すっかり酔っ払っていて、いつもより輪をかけて騒がしい。
そんな彩を介抱しつつ、会計を済ませて、店を出る。
夜風が冷たくて、火照った頬を覚ますのに丁度良いと感じていれば、彩は覚束ない足取りで歩き出す。
「大丈夫?帰れないでしょ、そんな様子じゃ……」
彩の住むアパートまではそう遠くないけれど、危なっかしい足取りだったから、慌てて彩の腕を掴んで引き止める。
ふわりと酒とタバコの匂いが染み付いた彩の香りにくらりと、目眩がした。
「大丈夫ですって、か、彼氏が、迎えに来るって言ってるから」
「……ふぅん」
男が迎えにくるなんて聞けば、複雑な気持ちになるのは当たり前だと思いたい。
彩が自分ではない他の男に靡くのも、その恋人が彩を大事にしているのも、何もかもが気に食わなくて、舌打ちをしそうになったけれど、それはなんとか押し留める。
さっさと帰ってやりたいけどこのまんまの彩を放っておく訳にもいかなくて、2人して店の前にあるガードレールに腰をかけ、男が迎えに来るのを待つ事にした。
月がやけに綺麗な夜だ。
ぼんやりと、空に浮かぶ満月を見つめていれば、彩もそれにつられて夜空を見上げて眺める。
それから少しして、恋人の車であろうヘッドライトの光が見えてきて、その光に釣られるように彩が振り向く。
黒統は、どうしたってそんな場面を見たくないから、視線を自分の爪先に落として、彩が車に駆け寄るのを背中で感じる。
「黒統さん!今日はありがと!」
「……うん、またね」
頑なに振り向きたくなくて、後ろ手だけを振り、彩の別れの言葉を受け取る。
車が走り去る音がしてしばらく経ってから、ようやく黒統が振り向けば、彩の姿はもう見えなくて、ただ遠くの方で車のテールランプの灯りだけが見えていた。
それがなんだか寂しくて、黒統はまた酒を煽りたくなったけど、それはやめて、代わりに深いため息を吐く。
「好きな人が居ないって、思えたら…どんなに楽なんだろうねぇ」
数分前、彩と一緒に見つめた夜空をまた見上げる。
うさぎが餅をつく音が聞こえてきそうなくらい綺麗な満月と、オリオン座が辛うじて見える都会の空は、いっとう暗く見えた。
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心のざわめきをかき消すように打ち付ける真夜中の雨は、記録的な豪雨だと夕方頃のニュースで報じられていた通り、酷いものだった。
ざあざあと雨粒が屋根をうつ音がとても心地よいもので、目の前に立ち尽くす男に対する、苦しいほどの慕情を少しだけ鈍くさせてくれるような気がする。
「とりあえず…中に入んなよ」
今し方、親に捨てられた子供みたいに玄関前で立ち尽くす彩を前にしても、黒統は冷静な理性を保って、彼を部屋の中に迎え入れた。
雨に打たれてずぶ濡れになっている彩を、洗面所まで案内して、濡れた服を脱ぐよう促せば、少しの戸惑いを見せながらも素直に頷いて、黒統の言う通りに服を脱ぐ。
そのまま風呂に入らせる訳にも行かず、とりあえずバスタオルを渡してから、自分の着替えを貸してやる事にした。
生憎とサイズが合わないけれど、裸で居るよりマシだろうと彩にそれを手渡せば、彩も流石にこの雨で冷えていたのか、大人しくそれを受け取り風呂場に消えていった。
どうしてこんなことになったのか、と思い返せば少し前に彩から連絡が来たのだ。
今から行っていいですか。だなんて内容のメッセージがきて、詳細を問うてもひたすらに「お願いします、行くあてなくて」だなんて返ってくるものだから、仕方なく、家に上げた。
大方予想はつくけれど、本人の口から聞かぬ事には分からないと、真っ暗な自室でベッドに腰掛け、外の雨音と向こうから聞こえるシャワーの音が混ざって聞こえるから、落ち着いたと思い込んでいた黒統の心はまた酷くざわめき出す。
暖かな湯を浴びて温まった彩は、サイズの合わないスウェットのズボンをきつそうに身に纏い、上はさすがに入らなくて、仕方なくバスタオルを羽織るみたいに肩にかけ、髪から滴り落ちる水滴を拭いながら、リビングへやって来る。
「……なにか、あったんでしょ」
黒統が問えば、彩はきゅっと唇を結んだ。
言いたくない事なのだろうかと、眉を顰めるも、聞かぬことには何も始まらないので辛抱強く彩の言葉を待つ。
しばらく沈黙が続いたけれど、少し待ってからぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めたかと思えば、だんだん堰を切ったように、涙が零れて、嗚咽混じりで語り出す。
ー…恋人が浮気をしていて、問い詰めたら大喧嘩になった。
その言葉に(ああ、やっぱりな)なんてどこか他人事のような、変に落ち着いた感想を抱きながら、酷く冷たい瞳で彩を見つめる。
彩は、普段から人懐っこい性格で、誰とでもすぐに仲良くなれるような人間だから。そいつもそれに絆されて、つい油断して他の人間にかまけたんだろう。馬鹿な男だ。目の前で泣きじゃくるこの子は、いたく献身的で、一途で、優しくって、誰よりも素敵な人間だと言うのに。
そう心の中で吐き捨てるけれど、憤りは全くなかった。
今は不思議と凪いだ気持ちで、悲しい時にこうして一番に自分を頼ってくれた嬉しさよりも、ただただ虚しさが心に染みる方が強くて、あまりにも酷い虚無感でおかしくなりそうだから、温もりに縋ろうと、そのまんま黒統は彩の側まで歩み寄って、静かに抱き寄せる。
彩のほんのり暖かい体温が伝わってくる。
黒統の肩口に、顔を埋めて、声を押し殺して泣く彩をそっと優しく撫でながら、あれだけ待ち焦がれていた彼を抱きしめるという行為は、こんなにも酷く空っぽな気持ちなんだなと、ぼんやり思った。
ナイフで切り裂かれるみたいに恋焦がれて、狂わされた相手はいま傷心中なのだ。
今ここで、一歩踏み出して、「私にしときなよ」みたいな言葉をそれっぽく囁いてしまえばいいのに、何も言わず、ただただ言葉にできない空虚な気持ちを雨音と彩の体温でかき消そうと、黒統はただ静かに彩の頭を撫でたら、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、黒統に問う。
「なんで、なんで……こんなに優しんですか」
とても暗く、凍てついた水色の瞳が眼鏡のレンズ越しにみえて、こんなにも寂しい顔をするのかと、思わず彩は息を飲む。
そんな彩の瞳から視線を外さずに、ゆっくりと言葉を紡ごうとしてやめた。
君が好きだから。そう言えたなら良かったのに、喉奥につっかえて出てこないのだ。
彩が自分ではない他の男を愛している事なんて痛いくらい知っていたし、それを彩に言う勇気なんて今までこれっぽっちもない。
だから、黒統は彩の問いに答える代わりに、ただ一言「ごめんね」とだけ呟いたのだった。
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泣き疲れた彩をベッドへ寝かせて、黒統は真っ暗に照明を消したリビングのソファで横になって、ぼんやりと天井を見上げていた。
雨はまだ、止まない。
大粒の雨が窓を打つ音だけがやけに大きく響いていた。
黒統は彩とはまた違ったベクトルの優しさを持つ人間で、秩序だとか、倫理だとか、そういう理性的なものが根底にあった。
だから、先の弱みに漬け込む事は、どうしたって自分自身に、何より、彩を馬鹿にした行為に思えて、大人の男として正しい姿で振舞ってやらねばと、黒統は思っていた。
「でも、すきなものは、好きなんだよ」
喉仏を揺らして細い首から絞ったみたいな声を漏らして、黒統が呟く。
それは、彩に向けた言葉なのか。それとも、自分自身に言い聞かせるものなのか。
せめて、せめて最後に、区切りをつかせてくれよ。だなんてぼんやり思ってから、寝転がったソファから起き上がった。
黒統の寝室で眠りこける、目を赤く腫らした彩の顔を起こさないようにそっと覗き込む。
長いまつ毛、緩く開かれた口元から見える可愛い八重歯、彩の頬に垂れる柔い紫の猫っ毛。
全部、黒統が好きだと、愛していると思った彩の部分。
黒統は、そっと、壊れ物でも扱うみたいに優しく彩の頬を撫でた。
その体温が暖かくて心地よくて、ずっとこうしていたいと思ったけれど、臆病で優しい今の黒統では叶わない願いだった。
「彩くん。ずるい人間で、ごめんね」
そう微かに呟いてから、彩の小さく厚い唇に、自分のそれをふに、と優しく押し付けた。
今は、これだけでいい。このたったひとつの口づけで黒統は満足だった。
この唇も、指で撫でる頬の感触も、それ以上の彩の温もりを、あの馬鹿な男は知っている。
それが、どうしても許せなくて、悔しくて、憎たらしかった。けれど、そんな男を彩は愛していたから。
黒統はそっと、唇を離して、もう一度だけ彩の頭を撫でて、願わくば、彼が幸せでありますように。と、微かな祈りを捧げたのだった。