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「クラウスさんが元気になってよかったです」
「うむ。心配掛けたな、レオナルド君」
 ライブラは問題なく稼働していた。
 クラウスが不在の間も、スティーブンは仕事をこなし、事務処理も街での騒動にも片をつけていた。戻ってきたとき、ライブラの事務所が惨憺たる有様であればどうしようかとも思ったが、スティーブンはクラウスにひどくした以外は、全く以てそのままの形でクラウスへ戻した。
 クラウスの大切な植物たちもまた、ツェッドとレオナルドの手によって保たれていた。いくつか難しいものもあったらしく戻ってきて早々に「枯らしてしまってすみません」と根腐れた鉢植えに苦笑したものだった。気にするほどでもないとレオナルドの頭を撫でれば、いささかほっとしたのか大きく泣かれた。
 ザップすらも珍しく、わずかに涙ぐんだ顔をして、胸板に拳をぶつけては「……また、覚悟しててくれよ、旦那」と宣戦布告されたので、大きく頷いていた。
 明るいまでの日常、ソファーの上でぎゃあぎゃあとわめく三人の様子にクラウスは満足気にいつもの定位置に座って眺めていた。ギルベルトもクラウスの復帰を聞き、明日には戻ってくるらしい。
「そーいや、番頭はどうしたんすか」
 ザップが不意にこちらに顔を向けた。スティーブン。嘘をつくのが下手なクラウスは、なんとかシミュレーションした通りに言葉を選ぶ。「スティーブンは」聞かれることなど分かっていたのだから、そのまま答えればいいだけだ。
「スティーブンは、少し休暇を渡している。私に付きっきりで、部屋にも帰っていないようだったので」
 なるほどー、と納得したザップは何も追及することなく首をひっこめた。ほかの面々もスティーブンが不在の理由に納得したようである。
 クラウスは一人、安楽椅子を回し窓の外を見遣った。
 あのあと、スティーブンは泣きながらクラウスを眠りの淵へと誘ざない、起きてみれば手と足は元に戻っていた。部屋はあの暗がりの地下ではなく、病室のバイタル機の鳴る白の部屋だった。エステヴィスが目覚めたクラウスの検査をし、半日後には「もう大丈夫」と呆気なく解放された。
 「右足はどうしますか」もがれたそこは相変わらず伽藍堂で、スラックスの中身をぺしゃんこにしてしまっている。「また、考えます」クラウスはそういうだけが精いっぱいであった。病院から帰るとき、ギルベルトに電話をやれば、ドイツにいると言われ、迎えはレオナルドに頼んだ。それから、ライブラの事務所に戻るも、スティーブンの姿は無かった。
 スティーブンが何をしているのか、クラウスには分からなかった。電話を掛けても、向こうが着信を拒絶しているのか、それとも電源が入っていないのか、繋がることは無かった。
 一度だけメールで「なにをしている」と送ったが、それきり返事は無い。
 何事も無かったかのように、クラウスの右足だけを置き去りにして、クラウスの周囲は巡っていた。スティーブンの暗い妄執の中で過ごした日々も嘘のようだった。
「クラウスさん」
 不意に呼び掛けられ、振り向くとレオナルドが立っていた。「どうか、しましたか?」「なぜ?」問いかければ、躊躇い困った顔のレオナルドがそっと頬に触れた。
「だって、泣いて」
 そこでようやく、クラウスは自分が泣いていることに気付く。袖口で拭っても、次から次にあふれた。悲しいわけでも無かった。寧ろこれほどに喜ばしい日常が戻ったと言うのに。
「……クラウス、さん」
 おろおろとしたレオナルドの声に、なんでもないのだと手のひらで顔を覆った。何がこみあげてきているのか、分からなかった。三人の心配気な視線が突き刺さる中、クラウスは自分の膝に顔を埋ずめて、ただひとしきり泣いた。
 この日常が、ひどく怖いと思ったのだった。







 夜も更けた頃、クラウスは一人になっていた。レオナルドが残りましょうか、と声を掛けるのをやんわりと断り何かあれば必ずツェッドに声を掛けることを約束した。ザップですら一晩中、祝い酒を交わそうかと提案を申し出てくれたが、クラウスはひとりがよかった。
 事務所内のひんやりとした静けさに、そっと瞼を閉じる。膝の上に置いた松葉杖の重さが現実となって襲ってきた。ああ、無くなってしまったんだ、と。松葉杖をつき、立ち上がる。かつん、かつんと大理石に甲高い音が響き、余計に世界から隔離されたような気がした。
「困惑する私を見て、楽しんでいるのか?」
 目許を片手で覆い、クラウスは自嘲した。
 何がなんだか分からない。結局、スティーブンの悲願は達成されずにクラウスは一人放り出されたのだ。混乱するさまの中を泳がせて、何を企んでいるのか全く分からない。日常に戻りたいはずなのに、戻れそうにも無かった。
 本当に切り落とされていたのか、自由に動く腕も足も本当は無いのでは無いかとすら思う。スティーブンのあまりに奇特な行動に、クラウスの足もとは未だ不鮮明だ。
 ――右足は本当になくなったのか? それともそれすらスティーブンの手の裡に?
 三人掛けのソファーにどっと座り込み、クラウスは横になる。なんとなく、ベッドの中が空恐ろしかったからだ。人のぬくもりや息吹のある空気に少しでも馴染んでいたい。でないとまた暗闇がぞっと押し寄せるようなそんな気がした。
「電気……消さなくていいのか?」
 うつらうつらとし始めた頃、耳元に落ちた聞きなれた声にはっと目を覚ます。夢の淵に赤く燃える火を見て、それがスティーブンの目だと知りえた。
「……ど、こに」
「少しね、考えていたんだ。……きみ、寒くないかい? まだ病人だろう。僕のジャケットで悪いけど、無いよりマシだろ。……なんだい、そんな顔して。幽霊じゃないから安心してくれよ」
 スティーブンの一等すきな翠の目がこぼれそうなほど開かれているのを、指先でそっと閉じさせると、耳元でゆったりと話始めた。「さて、どうしようか」頬を両手に抱かれて、クラウスはぐっと息を詰める。
「……本当は、あのまま永遠の虚にでも身を投げてやろうかと思ったんだけどね、電話の留守電にレオナルドから君が泣いているから、様子を見てくれって入ってたもんだからさ。僕が来ない方が君は良いのかも知れないけど、気になってね。元気ならいいんだ。腕や足はそのあとどうだい? ちゃんと動く? そう、良かった。それだけだよ……僕の処断なら、後日メールしてくれよ。どんな奴でも構わないからさ」
 それじゃあ、とスティーブンが去る背を掴む。「スティーブン」声が震えた、戦慄く唇に目頭が熱くなった。ここでスティーブンに逃げられれば、もう二度と会ってはくれないだろう。それこそ、クラウスがメールを送るまで。それにこれでは、スティーブンばかりではないか。言いたいことばかりを言ってひとりで満足して、クラウスの気持ちなどいつだって置き去りだ。
 ひどい。ひどい。ひどい。
「君は、もう、ここには来ないのか」
 少し逡巡して「そうだよ」とスティーブンは言った。「だって、君、いやだろ?」分かったような顔で独言する。
「……スティーブンは、何も、なにも、分かっていない」
 シャツを手繰り、スティーブンがよろけるようにして振り返った。
「私が何を思っていようと、君の中ではきっと無理にそう言っているのだと解釈をしてしまうのだろう。あの部屋の中でもそうだ。君は一人で私に、君のその考えを一人よがって押し付けた。私のこの思いなど、てんでまるで、あたかも知らないと言うように。……私は、確かに君のその、個人的趣向や、君が行ったことに関しては、理解など出来もしない。ただ君が、最後に吐いたあの言葉だけは、私にも理解出来た。……スティーブン、私は君を傷つけていたのだろう? 君の気持ちなど知らぬ私が身勝手に傷つけて、知らなかったのだ。けれども、私にとってはこれが最善であり、動ける限りは世界に使役すべきであると思っている。君がいくら傷つこうとも、私には何も出来ない。癒す術は持っていない。だから、スティーブン、――腕のある私では駄目だろうか」
 沈黙が続き、スティーブンはひどく間抜けた顔をして、たっぷりと時間を掛けて口を開いた。
「……なんだって?」
「だから、スティーブン。君が腕のある私でもよければ、と。君の思いを受け取ろうと」
 クラウスはずいぶん不思議そうに首を傾げた。クラウスとしては、当然の答えをしたつもりであったし、それが最善だと思ったからだ。しかし、スティーブンには違うらしく、何度も瞬きを繰り返したのちに、「馬鹿か?」と吐き捨てた。
「君はッ、俺にあんなことをされたんだぞ?! それなのに、俺の気持ちを受け取るだって? どっかおかしいんじゃないのかッ?」
「そうだろうか」
 ひとたび考えるようにしてクラウスは顎を撫でた。
「……君がしたことは確かに歓迎されるべきではないことは事実であるし、私はそれについては、許しようも無い。けれども、君の思いまでを否定するつもりはない。それに、そうして君が死んでしまったら、少なくとも私は悲しい」
 「どこまで」ちからなくクラウスに項垂れる。「君は、お人よしなんだ」
「いいか? 手足をもがれて、排泄管理をされて、強姦まで君はされたのに、僕を許すと言っているんだぞ、君は」
「そうだ。けれど、君の悲願は達成していないだろう。君は私が嘆けばいいと訴えていたが、実際私は、そうはならなかった。君と暗闇の中を探求すらしなかった。そうであろう?」
 ぐ、と言葉に詰まったスティーブンの手を取り、指を絡める。
「……私は、出来れば君ときちんと触れ合いたい。こうして触れて確かめていたい。君が私のせいで傷つくと言うならば、その分は償おう。だから、スティーブン、腕のある私では駄目だろうか? 揺蕩う魚のように腕をなくし、這いつくばる芋虫の如く蠢く私の方がいいだろうか」
 じっと見つめた視線の先で、深紅が滲んだ。
「……狡いぜ、それ。僕に、拒絶が出来るわけないじゃないか」
「スティーブン、私は、君を許しているわけでは無い。ただ後ろ向きに生きるよりも、何か出来るのであれば少なくとも前に生きることを選択したいのだ。だから、スティーブン」
 手の甲に食い込んだ指先がきりきりと白く染まる。夜をまとったスティーブンの後ろを眺めて、クラウスはそっと唇を近づけた。
「腕のある私と、寝室へ」
「……もう、君を抱き上げてやれないよ」
「大丈夫だ。私には足があるから」





END