ひとでなしの恋。




――わたくしのこの情念を果たして愛と呼んでもよいものでしょうか。
 しかし、わたくしは確かにこの悔恨と盲目を愛しておりました。








「君に縁談だ」

 クラウスは、いつもと変わらない声音で、目の前の副官にそう伝えた。一体どういうつもりなのかとスティーブンは目を丸くしてクラウスを見つめたものの、けれども、彼の表情は一向に変わらない。そして言葉も変わることは無かった。むしろ続けて「十八のご息女だ」とも伝えられた。
 「クラウス」スティーブンはとうとう、渋面の中で声を上げた。持っていた珈琲の味などとうに分からなくなっていたが、冷静さを呼び起こそうとそれに口を付ける。苦いだけだった。クラウスもまた、彼専属執事の淹れた紅茶を口にし、優雅に椅子へ身を預けている。安楽椅子がぎい、と音を立てた。

「縁談とは突拍子もないね。それに俺の年齢を忘れたのか? 十八だって? ふたまわりも違う女との結婚なんて、俺にはマイフェアレディのような趣味は無いんだけど」
「それでも、君以外には適任はいない」
 けして、それは言葉を曲げるつもりはないという意志だ。スティーブンは、狡猾だと言われようとも、彼への愛を口にした。揺るがないならば、揺るがせればいいのである。狡いと詰られようとも、クラウスの傍を離れることなど出来るはずもない。
 スティーブンの身は、すべてクラウスのものだ。他者に委ねることなど許されるはずもなかった。そもそもスティーブン自身が己を許さない。

「……俺は、君を愛している。君以外とどうにかなりたいとは思っていないんだけど」
「ありがとう、スティーブン。私も君を愛している。出来ればこんな縁談など、私だって相手の女性を殺してしまいたいほどのことなのだが」
「だったら!」

 クラウスの告白は滅多に聞けるものではない。それほど、彼の口からも好ましくないと思われている縁談の内容をスティーブンは、止めて欲しかった。なんなら、スティーブンの手でその戯言を言っている奴らを皆殺しにしてやってもいいほどだ。
 二人の仲を裂こうというならばそれ相応の仕打ちを覚悟するといい。そんな気概すらあったのだけれど、クラウスは、それ以上何も言わない。それどころか、愛の言葉はそこで止まってしまう。

「スティーブン。私は確かに君を愛している。けれども、この縁談には君は臨まなければならないし、私は君の幸福を願う。お願いだ、スティーブン」

 ――お願いなどと、狡いではないか。
 自分のことを棚に上げ、スティーブンは歯噛みした。クラウスのお願いは命令のそれに近い。答えは一つしかなかった。何度も躊躇う言葉を、スティーブンは苦心して吐き出す。こんなのはあんまりだ。

「……わかった」

 式場でもないのに、スティーブンは「I do.」を唱えるほか無かったのである。














 わたくしがこの街に訪れることになったのは、親の決めた縁談のためでございました。HLという危険な場所は、今まで箱の中しか知らずにいたおぼこ娘のわたくしが来るには余りに非日常に溢れており、目をいくら回しても足りないほどでありましたので、そのような世間も余り知らぬような女に、目の前のその方は微笑みを称えてわたくしを迎えてくださったのです。

「やァ。君がレディ、あー、リリアン?」

 その方は、とてもうつくしい声をお持ちでした。なんと申し上げればよいでしょうか、極上の砂糖菓子を見つめた時の感動にも似ており、男性など知らぬ十八の初心なわたくしのそばかすの残る頬は、熱くなるばかりで、そっと瞼を不躾にも下げてしまったのです。
 親から聞かされていた話では相当に歳の違う男性であると、聞き及んでおりましたので、わたくしは多少なりともこの縁談を嫌々に思っていたのでした。四十近い男性とは、一体どのようなひどい男なのでしょう、と。
 ところが、わたくしの前に至ります男性といえば、小奇麗なスーツに身を包みまして、とても四十近い方には見えませんでした。それどころか、その柔和な尊顔が、父や兄しか知らぬようなわたくしには、とびきりの男性に見えたのです。そのうつくしいかんばせの配置には、とてと顔を上げられそうにもなく、しかし見てみたいという欲求にも抗うことも難しいもので、ついにはとうとうそっと上目に覗かせました。
 垂れた目尻は甘く、すっと結ばれた口許はとても色気があり、左のこめかみより入る傷跡が、いささかミステリアスさを呼び起こしまして、この幼気な乙女心をきゅっと掴んでしまったのでした。
 わたくしは、返事も儘ならなかったというのに、その方はそっと手を引いて「ゆっくり話せる場所に行こうか」と微笑んでくださいました。その時の光景は今でも目に浮かびます。わたくしはこのときほど縁談を持ってきた両親に心の底から感謝致しました。なんとも優しい方が旦那様に召してくださるのだと、歓喜に震えていたのでございます。
 近くのカフェテリアに誘われまして、彼は内気にしておりますわたくしに変わり、ホットティーを注文してくださいました。わたくしは、こういったことにご他聞にもれず不慣れでございましたので、とても助かりましたし、その気遣いがなんだか恥ずかしくも嬉しくなったのです。彼と真向かいに座り込んだわたくしは、あまりの気恥ずかしさに声は震えるばかりでした。みっともない幼稚な女の言葉にも、ひとつひとつ頷いてくださる彼の行動に、わたくしはとんと、参ってしまいました。
 果たしてわたくしといえば、その後も始終俯き、彼の顔など一度も真正面に捉えることも出来ず、それはそれは頷くのが精一杯でございました。

「それで、リリアン……あー、リリーって呼んでも? そう、よかった。それで僕は君と夫婦になるわけなんだけれども、こんなに歳が離れていて、大変申し訳ないと思っているんだ。おじさん過ぎて君と会話も噛み合わないかも知れないけれど、それでもいいかな? ――アア、良かった。じゃあ、僕と君との婚約について色々約束事があるんだけども、聞いてくれるかな? うん、そう、僕ねちょっと特殊な仕事に就いてるもんだから、……アア、マフィアとかじゃないから安心して欲しいけどね」

 彼は少しばかり、戯けてわたくしの緊張を解して下さろうとしたのでしょう。わたくしの愛称をお呼び下さったり、オーバー気味に見える手振りで以って、わたくしに笑いかけてくださったのです。その時のわたくしの心のうちは暖かに満ち足りておりまして、まさに春のような思いでした。
 さて、彼のその約束事と言いますのが少々変わっておりました。
 夫婦として相成してくださいます彼は、どこかしらの名家の出でお有りになりながら、こちらのHLに滞在され、お仕事をなさっておりましたので、まずはお休みが不定期であることをお話くださいました。
 約束事のひとつ目と言いますのが、まずはわたくしから電話をしてはいけないというものでございました。もし御用があるのであれば、彼がわたくに付き人をおいてくださるとのことでしたので、そちらに言付けをと、おっしゃいました。写真を拝見させて頂いたところ、その写真の中の方はまるでお人形さんのようで、肩までの長い真っ直ぐな白い御髪をばっさりと切り捨てており、片方の目を覆う前髪の長さが特徴的でありました。「少し無口だけれど、とっても良い奴なんだ。何かあれば、彼に言ってくれ。緊急時の場合は、必ず僕は君のそばに駆けつけることを約束しよう」わたくしはその言葉にすっかり夢み心地に陥って仕舞い、うっとりと彼の赤い瞳を見つめてしまったほどなのです。
 ふたつ目の約束事が、お仕事の都合上、家に帰れない日も少なくは無いとのことでございました。少しばかり寂しく思いはしましたが、お仕事のことに口を出すのは女のわたくしには幾らも無礼でございましたし、なにせわたくしには何も知らぬ女でありました。それに、父や兄も家でお仕事をなされることは少なかったものでありますから、わたくしは、家内と致しまして旦那の帰りを待つことが美徳であると考えたのです。
 そうなればこれは、誉れにございます。そう、この時分のわたくしは、端的にのぼせ上がっておりました。家のことをしかと守るに至れば、それは彼の安寧を守ることにも相違ないのだと意気込んだほどでした。笑顔で彼の帰りを待つのも楽しみでありましょう。母もそうして、父を待っていたことを思い出しましたので、きっとこれは正しい形なのだろうと思い至りました。
 三つ目の約束事というのが、仕事のことについて聞いてはならないというものでありました。

「僕の仕事はどうしても、秘密が伴ってしまって。君にどういった仕事であるかを教えることは出来ないから、君はきっと不信感を持ってしまうことがあるかもしれない。けれど誓って、僕は悪いことをしているわけじゃないんだ。この世界を助けるための仕事をしているんだ。それだけは分かってくれるかい?」

 わたくしは勿論だと頷きました。その時には、すっかりこの方との結婚生活がいかに薔薇色であるか、期待に胸を膨らましておりました。
 約束事を守ることについて、彼は書面を提示しましたので、私は彼の指差す場所へサインをすると、すっかり夫婦への誓いが出来たものだと、幼い気持ちでわたくしなりの愛をご提示してみせた気でおりました。

「アア、リリー。ありがとう。僕は、この歳になってようやく妻を持てるだなんて夢のようだよ。世界に身を落としていたものだから、すっかり結婚など出来無いものだと思っていたんだ。結婚式はどうしようか、君の好きなドレスや式の方法を選んでくれるかい? 僕は君の好みであればなんでも構わないよ」

 わたくしは、もうすっかりとスターフェイズさまに恋をしていたのでした。
 このはしたなくも、杞憂な面持ちを世の女性が経験なさっているのかと思えば、神に仇名してでも得たいものだと、確かに思ったのでございます。そのあとも彼は何かとわたくしによく、よくしてくださいました。わざわざHLへ訪れた甲斐があったものだと、帰りの飛行機の中、わたくしは胸の温かさを大事に抱え込んだのでございました。
 それから一週間ほど経った頃でしょうか。
 再びHLへと向かう頃にはわたくしとスティーブンさまの住まう新居を紹介されました。それは、少し丘のほうにあります高級住宅街のマンションの高層階でありました。そうして、わたくしの付き人と直接お会いしましたのがその時が初めてでありました。確かに彼は無口ではありましたが、特別冷たいわけでもなく、話し方はどこまでも丁寧でありました。

「彼が、――そう、エイジハルトだ。僕の信頼おける奴だから、君もどうか仲よくしてくれるかな?」
「……リリアン様。不得手なところも多少ございますが、どうぞよろしくおねがいいたします」

 深く腰を折られ、わたくしに傅かれたエイジハルト氏の目のうつくしいことに、わたくしは微笑みこれからの生活が幸せに違いないことを確信しておりました。見上げた先にはスティーブンさまが柔和な笑みを浮かべ、わたくしの手を取ると、生娘の手入れの無い指に鈍色に光る指輪をお通しになられたのです。これが、幸せの絶頂だと言わずなんと言いましょう。わたくしは、思わず涙をこぼして、おいおいと泣いたほどでありました。
 こんなに素敵な方に旦那になって頂けた女は、どの世の女性よりも幸福でありましたでしょう。
 それからほどなく致しまして、結婚式を挙げることとなったのですが、スティーブンさまの職場の皆様がいらっしゃっておりました。親族の方がいないのは、このHLにお呼びするには少しご高齢だとお答えになられまして、納得しました。その代わりに、家族同然だと仰る職場の皆様を招かれたそうです。わたくしの方と言えば、お父様もお母様も果ては兄様まで、HLの空気に耐えられそうに無いのだと、祝辞だけを送ってこられました。
 少しばかりさびしくはございましたが、テレビ電話でわたくしの晴れ姿を見止められたお母様は、しっとりと泣いて喜んでくださいましたので、同様に致しましてわたくしも涙ながらに嬉しく思いました。
 式が滞りなく進み、スティーブンさまはすっかりと職場の皆様の傍へと行かれたのでございます。わたくしが手持無沙汰に待っていますと笑顔で出迎えてくださったのは、身長のそう変わらない癖っけが特徴的な糸目の男の子でした。歳もわたくしとそうは変わらないそうで、軽やかな声で「おめでとうございます」と仰られました。
 朗らかにと笑まれます可愛らしい顔で、その方は「つらい思いをしませんように」とそのまま走り去ってしまわれました。わたくしにはてんでなんのことだか分からず首を傾げておりますと、その次にいらっしゃった褐色の肌に見事な銀の絹のような髪の男性が少し爬虫類を思い出させる異形頭の方を伴って連れてこられました。――異形頭の方はひとしくとても優しい声をされていましたので、わたくしはすっかりその変わったお顔も気にはなりませんでした。
 銀糸の方には「精々、がんばれよ」とぶっきらぼうに、優しい声の方には「無理はしないでください」と気遣いをいただきました。スティーブンさまの職場の方々は色々な方がいるのだと、わたくしはなんだか楽しい気持ちで、眺めておりました。
 代わる代わる声を掛けてくださる方々に、最後に女性の方がやってこられました。わたくしの目から見てもとても細身でありながら、芯のしっかりとされた方で、女性からみてもかっこいいと胸をときめかせてしまったほどです。思わず、目の下を赤くさせてしまったことには、スティーブンさまに申し訳ないと俯いてしまいました。
 彼女はまず、祝辞を述べると片方の目を眼帯で覆っていることを謝罪されましたが、わたくしは特別気にも留めず、その端正なお顔をじっと眺めてしまったほどです。
 金色の御髪を後ろにまとめ、きっとした目つきで、その方は凛とした声でわたくしにいいました。

「泣いてはだめよ」

 その方は、鬱蒼とした瞳を細めては一言そう述べました。それきり、彼女は何も仰らず、彼らの輪に戻ったのです。
 わたくしが、その日最後にお会いした方は、スティーブンさまとよくよくお話をなさっており、見事な赤い髪の男性でありました。口許に白磁色の牙を添えられましたその方は、ひどく物悲しいような、困惑したような顔で、始終スティーブンさまのおそばにおりましたので、わたくしはその方が一体どのような方なのかと首を傾げたのです。
 ふとこちらに視線を向けられましたスティーブンさまは、わたくしを見て笑顔で手招きをされました。その時にも隣の男性は幾分困った顔を向けられておいででした。

「アア、リリー! 紹介しよう。彼が僕らのリーダーであるクラウスだ」
「……クラウス・V・ラインヘルツと申します」

 わたくしは、スティーブンさまの上司と知れますと、深々と頭を下げました。顔は怖いものでしたが、声はとても落ち着きのある深く静かなもので、言葉の節々はとてもうつくしいものでありました。
 聞けば、なんとあのラインヘルツ家の御出になられるという方で、わたくしはますます首を垂れたのでございます。なにせ、それはご高名で、わたくしの家など足元にも及びは致しません。
 粛々とした態度に、ご子息さまは慌てた声で、顔を上げるようにと言われました。わたくしがそっと、おもてを上げますと「そんなに畏まらないでほしい」と困ったような笑みで伝えられました。それから、スティーブンさまがそっと、彼に耳打ちされますと、ご子息様はわたくしの目をまっすぐ射抜かれまして、口を開かれました。

「――貴女が、ミセス・リリアン。このたびの幸せの門出を祝える場に立ち会うことが出来、私は幸せだ。……スティーブンはとても優秀で優しい男だ。きっと貴女には、幸せが待っているに違いない。どうか、貴女の幸せにこれを送らせて欲しい」

 わたくしにそう言って差し出されたのは、うつくしいペンダントでございました。十字に赤い線が入ったそれは、なんとも神々しいもので、なんとお礼を申し上げるべきかと、感極まってしまったのです。――しかし、わたくしは、その時のスティーブンさまのお顔を知りはしませんでした。まるで、そう能面のようにおそろしい表情をされていたことなど、わたくしは知らぬままだったのです。
 柔和な笑みの先で、ご子息さまはどこまでもきらきらしい翠の瞳で見つめてくださいました。ペンダントを首につけた時、ご子息さまに「いかがでしょう」とほほ笑みかけると、わたくしはなぜだかとても恐ろしい物を眺めているような気がしてぞっとしたのです。
 その目が、とても濁ってまるで、なんといいましょうか。わたくしはその憎悪にも似た感情を受けたのでございます。
 けれどもそんなことを口にすることも出来ず、わたくしはなんとか笑みを携えることが出来ましたが、そのあともなんだかご子息さまの目がとても不気味に思えたもので、スティーブンさまのためとはいえども、さっさと式場を後にしたのでした。
 その夜、スティーブン様は初めての夜ではありましたが、帰れないという旨をメールにてわたくしにくださいました。きっと、職場の皆様と楽しんでおられるのでしょう。エイジハルト氏のいれていただいたホットミルクを口にして、わたくしはすっかりと、この式が終わったことへの肩の荷を下ろして、早々にベッドへと向かったのでした。
 ――おそらくこの時より、わたくしの命運は決まっていたのでございます。






◆◇◆





 結婚生活をはじめて、五日ほど経った頃でございました。
 スティーブンさまは、その間一度もご連絡をくださいませんでした。当然、ご帰宅もされておりません。この結婚生活は、浮かれていたわたくしにはあまりな仕打ちでございましたし、不満に思えてくるのも当然でありました。エイジハルト氏は、その理由を丁寧に教えてはくださいましたが、まだ十八の小娘たるわたくしはあまりに心の成長が未熟でございました。

「スティーブン様は、式のために時間を頑張って作っておられました。あの方が一日でも空けた穴は大きいのでございます。あの方は、重役にございますので、どうしても外せないのです。どうか、ご理解を――」
「ですけれど……ご連絡くらいは……ッ」

 わたくしは見知らぬ地に一人放り出された悲しみと寂しさが、溢れだしました。これがマリッジブルーというものだったのかどうかは、わたくしには分かりませんが、その時はひどい有様にて泣き崩れるしかなかったのでございます。

「……私の方より伺ってみましょう。奥方を長期にひとりにさせるには、あまりに無体ですので。きっと明日には帰ってきてくださるようお願い致しましょう」

 彼の言葉は身に沁みて、わたくしはとうとう床の上に伏せり泣き折れました。年端の行かない世間知らずのわたくしは、確かに面白みなど何も持ちません。魅力的な個所などどこにありましょう。それでも結婚を夢見るひとりの女ではありましたので、このような夢とはかけ離れた生活は、まるで期待していなかったのでございます。
 その夜、スティーブンさまは五日間の埋め合わせをするかのように電話を掛けてくださいました。いささか息が荒く感じたのは、どうも外の営業というもので走り回っているからだそうです。『今の電車を逃すと、会社に帰れなくなっちゃうんだ』と慌てて駅へと走っておられるようでした。
 確かにスティーブンさまの駆けずるような音が背後にしておりました。

『わるいね……、少し仕事が立て込んでしまっていて。出来るだけ早くには帰るつもりではいるんだけど、っ、う、わっ……っ』
「どうか、されましたか?」

 突然スティーブンさまが慌てた声で、押し殺したようなその声音にわたくしは心配になりました。続けて乾いた笑いが機械越しに届いたのです。『悪い悪い、少し酔っ払いに絡まれたんだ。安心して、黙らせたから』その背後では呻くような音がしました。荒い息のまるで犬のような声。『ちょっと蹴り飛ばしちゃったんだけど。僕、足癖悪いから』と茶目っ気に言われるスティーブンさまに頼もしさも感じ、わたくしはすっかりとさびしいという思いから解放されたのです。

『奥さんを一人にしてしまって、悪いとは思っているんだ。もう少しだけ、耐えててくれないかな。ごめんね、リリー』

 スティーブンさまは謝罪を口にして、また連絡をくださる約束をしては電話をお切りになられました。わたくしは優しいお声を思い出して、そっとため息をつき、床に就きました。お仕事が忙しいというのに邪魔をしてはならないとも、再度自分を戒めることにしたのです。
 もともと、スティーブンさまは仕事が大切な方であると承っていたではないか、わたくしは自分を叱り、そして律しました。明日もきっと一人ではありましょうが、彼の言葉を信じ待つのもまた妻の役目だと思えたのでした。
 それから、毎日、彼は短いながらも暇を見つけては連絡をくださったのです。時間はバラバラではありましたが、わたくしにはとても幸せなものでありました。

『そうだ、君。そんなとこに閉じこもってばかりもアレだろう。エイジハルトを連れて外に行きなよ。それとも違うやつがいいかい?』

 あるときスティーブンさまは、そんな提案をされました。確かにわたくしは未だにこのHLの街がいささか恐ろしく、そして一人で出歩くにはわずかに躊躇される場所でありましたので、このマンションの敷地内よりは立ち出たことはございませんでした。
 マンションと言えど、地下に住居人専用の買い物施設があり、また外のように人工的に作られた模造的な公園なども設備されていましたので、わたくしはそこでひとり楽しんでいたのでございます。
 とはいえ、確かにHLの街へ出てみたい欲もありました。そして出来ればだれかと話をしてみたいとも思っていたのです。エイジハルト氏を伴って出歩くのもよかったのですが、出来ればおしゃべりを楽しめそうな方がよかったのでした。けれども、わたくしにはてんでこちらに友人と呼べるべき相手もおらず、専ら部屋に閉じこもってばかりでしたので、思い切ってスティーブンさまに我儘をぶつけてみたのです。

「あの、スティーブンさま。わたくし、出来れば、式場でお会いしました、目の細い、少年と出かけてみたいです。いえ、勿論男性と二人きりが駄目だと仰られるのであれば、だれかほかの方でもございません。あとは、あのお魚のような方でも……」
『レオナルドにツェッドかい? アア、あの二人なら確かに安心だな。いいよ、話を付けておくから、明日の朝迎えに行かせる。僕が直接君と出かけられればいいのだけれど、悪いね。――明日は楽しんでおいで』

 そのあともスティーブンさまは、いくらか私に愛情のあるお言葉をくださりました。少年の名前やお魚の方のお名前も教えて頂きましたので、わたくしは翌日のお出かけが大層楽しみでたまりませんでした。ええ、わたくしは久方ぶりの誰かとの触れ合いにひどくうかれていたのでございます。
 その夜もわたくしは、ひとりきりでベッドへ入ったのでした。





 翌朝、わたくしはエイジハルト氏に何着ものお召し物を見て頂いて、持ってきていた薄い水色のワンピースとウエスト部分が山吹色のリボンに絞られたものを選びました。どこかスティーブンさまの洋服と重なる部分を見つけて、思わず顔を赤くしますとエイジハルト氏も「スティーブン様にお見せできないのが残念です」と申されたので、わたくしはますます肩身をせまくしたのです。
 つばの広い帽子と、それから首元にラインヘルツのご子息さまから頂きましたクロスを掛けまして、まだ青いわたくしにはあまり似つかわしくない、少しだけヒールの高い靴を選びました。それは、スティーブンさまの横に並んでも良いようにと、買ったものでした。
 十時を過ぎた頃に、家にチャイムの音が響きました。出迎えは、エイジハルト氏が出てくださり、リビングに入って来られたのは、レオナルドさんにツェッドさん、それから式場でお会いいたしました銀糸の麗しい男性でした。

「こんにちは、リリアンさん」

 相変わらず柔らかで優しい声音のレオナルドさんに、ごきげんよう、と挨拶いたします。続いてツェッドさんも「こんにちは」と声を掛けてくださいました。

「リリアンさん、僕を呼んでくださいまして、ありがとうございます。レオナルド君と、それからこっちはザップ……僕の兄弟子なのですが、三人でお守り致しますので、よろしくお願いします」
「それで、リリアンさん! どこか行きたいところはありますか?」

 レオナルドさんのお言葉に、わたくしはHLの街を歩いてみたいのだとお願い致しました。御三方は、快くわたくしを外へと連れて行ってくださり、久方ぶりの外の空気は実に開放的な気分を促しました。
 HLという街は、わたくしの知っている日常とはずっと遠いところにありました。そもそもわたくしは家よりあまり離れたことがありませんでしたので、十八年住んでいた街もよくは知らずにいたのですが、それでもHLという街はなんともめまぐるしく、わたくしはパレードでも体験しているようなそんな心地になったのです。
 異界の方々がふつうに歩き、おかしな建物が宙を舞い、頭上を走るモノレールの多さに、わたくしは我を忘れてはしゃぎました。なんて素敵な街なのかと、怖いと聞き及んでいた姿はその時は、微塵も無かったのです。
 ジャンクフードや食べ歩きなど、したことも無かったわたくしに、差し出されるものすべてが物珍しく、ツェッドさんやレオナルドさんは、よくよく話しかけてくださいました。ジューススタンドで、見知らぬ味のものを飲んだ時には、感動すらしたものです。

「リリアンさん、どうですか? 楽しいですか?」

 レオナルドさんの言葉に大いに頷きました。水中トンネルのような水族館や、上下ひっくり返ったかのような店にも連れて行って頂きました。
 ただ、そう、わたくしはずっとひとつだけ気に掛かっていたことがございます。レオナルドさんやツェッドさんは、話しかけてくださるのですが、ザップさんは一度も話かけてきてはくださいませんでした。
 わたくしたち三人を後ろから追いかけてくるようにして、一歩引いた位置にいらっしゃったのです。御二方にそっとそのことを聞いてみると「ああいう人なのでほっといていいですよ」とツェッドさんに一蹴されました。その時の声音は、なんだかツェッドさんらしからぬ冷たく無機質なものでした。それこそ死んだ魚のようにぬめっとした感覚がしたのです。
 すっかりと夜も更けて、わたくしはマンションまで送られました。今日一日を満喫して、久方ぶりの充足感に心を潤わせておりました。

「それでは、リリアンさんおやすみなさい」

 扉のところで、お別れを言い去っていく間際、ついにザップさんが口を開いたのです。今日一度とて、わたくしに話掛けてこられなかったのに、彼は神妙な面持ちで、すこし怖い顔をしておりました。金色の目が怖いくらいに光って、まるで悪魔の子ようで。
 思わず怯み、後ろに一歩のけ反れば、ザップさんは緩やかに低い声でわたくしに告げたのでございます。

「――番頭に気を付けろ」

 一体どういう意味なのでしょう。彼はそれだけ伝えたきり、御二方と合流して去って行かれました。わたくしには番頭が誰なのか、見当もつきません。ただ、あの目がひどく怖いものでしたので、いささか楽しかった一日が霧散してしまうようなそんな気持ちになりました。
 スティーブンさまは勿論帰ってはきません。もう二週間になりましょうか。エイジハルト氏に伺っても「仕事がお忙しいので」の一点張り。ザップさんの言葉に怯え、わたくしは携帯を握りしめて、とうとう約束事を破ったのでした。
 ワンコール、ツーコール。三度目のコール音は途中で切れました。電話の向こうに聞こえたのは、スティーブンさまの声ではありませんでした。


「ラインヘルツ」


 ――どういうことでしょう。わたくしは驚きのあまり言葉を失い、同時に何を言うべきか悩みました。ラインヘルツ家のご子息さま、ひいてはスティーブンさまの上司にあたります。どうすべきか、何度も言葉を探し、ついには声を露わにいたしました。

「……こんばんは、クラウスさま」
『――ああ、スティーブンの奥方でしたか。どうされました? なにか緊急でも』
「いえ、この番号は、スティーブンさまに繋がるものだと思っていたもので……。会社の番号だったのですね、失礼しました」
『申し訳ない。スティーブンではなく、私で。彼は今、出払っております。戻りましたら、連絡をいれるように言いましょう』

 ご子息さまの言葉はいつ聞いても流麗なものでございました。耳障りの良い発音、聞くものはうっとりと目を細めてしまうことでしょう。しかし、わたくしにはどうしても、どうしてもこれらすべてが、なにか恐ろしいものに思えました。
 というのも、これが女の勘と呼ばれる所以なのでしょうか。どこか背筋をうすら寒いものが通り抜け、ご子息さまのお言葉がすべて、そう、牽制に聞こえたのでございます。女の嫉妬など、経験もしたことの無いわたくしでしたが、これがそうなのだと確信を持ったのです。一体どういうわけだか、ご子息さまの言葉尻にそのようなものを捉えるのもおかしな話ではあるのですが、そうとしか思えなかったのです。

「あの……スティーブンさまは、こんなにも自宅に帰れないほどに、お仕事が忙しいのでしょうか。不躾ではございますし、はしたないとも思われますでしょうが、式を挙げてもう二週間になります。けれども一度も自宅に帰ってきてはいただけないのです。クラウスさま、勝手な願いだとは思いますが、一度その、スティーブンさまに進言いただけないでしょうか」

 仕事に口出しをする気は毛頭ない。けれども、わたくしはいささか限界でございました。エイジハルト氏がいるとはいえ、殆どひとりきりのこの空間、夫婦として営みなど一度も無い危機に、わたくしは狼狽えていたのでございます。
 電話の向こうではご子息さまは、なにか考え込まれているようでした。やはり、出過ぎた申し出だったに違いありません。わたくしは慌ててさきほどの言葉を取り消そうといたしました。
 しかし、わたくしが口火を切るより早く、ご子息さまの声が遮りました。

『――スティーブンの何を分かった気でいるのかね』

 どこまでも冷えた声でした。
 わたくしは背に氷水を流し込まれたかのような、そんな感覚に襲われました。携帯を持つ手がひどく震え、それが怒りからなのかそれとも恐怖からなのか、ぶるぶると指先が痙攣いたしました。ご子息さまの声が、冷やかにわたくしの鼓膜を打ちました。

『スティーブンと式を挙げ、あまつ守ってもらっているにも関わらず、何が不満だと?』

 乾いた笑い声が電話の向こうでして、それきり電話は切れました。わたくしは、どうしたらいいのか分からず、それでも女の意地でありましょうか。醜態と詰りたければ詰ればよかったのです。スティーブンさまがお叱りになるのならそれでも構いはしませんでした。
 そうです、わたくしはいささかどころか全く以て限界でした。
 部屋を飛び出し、エイジハルト氏に詰め寄ったわたくしは、珍しくも――いえ、初めてというほどに大声でわめいたのでございます。

「スティーブンさまの会社に連れて行きなさい!」

 その時の彼の表情と言えば、相も変わらず平坦で、それさえもわたくしの苛立ちを助長させるばかりでありました。一つ腰を折った彼は、わたくしを車へと乗せ夜のHLへとつれ立ったのです。昼間の喧騒を思い出せもせず、わたくしはご子息さまのあまりな言葉に胸が痛みました。
 彼はなんとひどい男なのでしょう、と。ちっとも優しさの欠片さえありはしませんでした。なぜあのように言われねばならないのか、確かにわたくしはスティーブンさまを知りはしません。けれども、ご子息さまにあのように言われる筋合いも無いものだと、わたくしの目の前は怒りで真っ赤になっておりました。
 付いた先で、エイジハルト氏に導かれるまま裏路地の入口へいざなわれました。
 ――こちらです。と、扉を開けた先はまるでエレベーターのようで、それからほどなくしてわたくしはこの愚行に後悔をするのです。
 廊下の先には、大きな扉がございました。わたくしが一歩、また一歩とおそるおそる近付くと中より声が漏れて聞こえたのが分かりました。それは、スティーブンさまのお声と、いつだか聞いた電話の背後のお声にそっくりでありました。

「……っ、クラウス、クラウスっ!」

 スティーブンさまの呼ぶものは、ご子息さまの名で。扉の前に立つ頃には、その隠しようも無く淫らがましく喘ぐ声が私の耳を打ったのでございます。

「あっ、は、すてぃ、ぶん、はぁ、っ、」

 ギシギシと鳴る音。
 スティーブンさまの荒い息遣い。
 溶けるようなご子息さまのお声。
 止せばいいものをわたくしは音を立てないよう慎重に扉を細く少し開けました。視線を巡らせたその先で、大きな椅子の上で、まるで分娩台に乗せられた妊婦のように大股を開きその間にスティーブンさまを受け入れられ、筋肉質な陶器の如く白い肌のふくらはぎが、上下に揺れておりました。
 ご子息さまは窮屈な恰好を求められ、顔を真っ赤にさせ、スティーブンさまが腰を使い何度も何度も穿たれます。そのたびに、彼の口からはまるで糖蜜を想像させるような、甘い甘い声が漏れました。

「うぁああっ、あっ、ん、く、すて、すてぃーぶんっ、もっと、あっ、あンっ、あっ」
「クラウス、ああ、愛してるよ。クラウス」

 その度し難い光景にわたくしは、くらりとよろめきました。にわか、尻もちをついて、扉の前で動けなくなったのです。耳にはおんなのように甲高くひどい声と愛する夫が愛を紡ぐ声を聞くしかありませんでした。わたくしは悟ったのです。スティーブンさまが一度もお帰りにならないわけを。わたくしに顔さえ見せてはくれないわけを。
 蒼白とした顔を上げわたくしは再度扉を覗きました。喘ぎ、揺さぶられ、おんなの顔をしている男が、そこにはいたのです。わたくしは、ひどい吐き気に襲われました。しかし、目を逸らすことは叶いません。そして、ついに、その男は、わたくしを見つけたのです。スティーブンさまの肩口の先で、翠の目がわたくしを射止めました。涙に濡れそぼった先で、ゆるりとスティーブンさまの背に手を這わせ、憂いに目を眇め、そして。
 ――おとこは、ゆっくりと口角をあげ、くちびるだけをはっきりと動かしました。

『It’s mine.』

 その時のわたくしの、怒りをなんと総称すればいいのでしょうか。
 わたくしははじめて会った時より、間違ってはいなかったのです。このおとこの、まるでおんなのようなその妬みを、独占欲を。ずっと、わたくしをそうして敬遠なさっていたのです。
 なんという醜悪さ。なんという所業。そしてまた、スティーブンさまにもわたくしは裏切られていたのでしょう。しかし、女と言う生き物は男にはけして憎悪は向きはしないのです、最低で醜悪なこの目の前のおとこをどうしてやるべきかとそれだけがわたくしの頭の中を巡り、ついには扉を力いっぱい開きました。
 二人の視線がこちらを向きました、そうしてわたくしはふたりに飛びかかるようにして駆け寄ったのでございます。一体何ができようものか、そう思われるでしょう。しかしこのときには、わたくしは確かにおとこを殺してやりたいと明確な殺意を持っていたのです。

「……ルッソ・デ・アライアム・ギギナ・ユーフォリア」

 おとこの口からゆるりと漏れ出た言葉。
 わたくしの体は一瞬ぴくりとも動かなくなりました。そして足元から腰に掛けて凍らされていることに気付いたのです。なぜ、と当惑も出来ずどこにそんな力があったのか、私は無理やり腰から下を引きちぎろうとしました。そうしても再生できると、なぜか分かっていたのです。
 おとこは、スティーブンさまから離れると、情交の最中だったにも関わらず、それすらも匂わすことは無く、悠然とわたくしの前に歩いてまいりました。手を振りかざそうとしたところで、それすらも氷に固められ動かなくなります。わたくしの四肢はついには氷の中に埋められたのです。
 目の前のおとこは、鬱蒼とした笑みをわたくしに向けると、ゆっくりと首元のクロスを手にしました。おとこの手で容易く割れたクロスの中身がどろりと、流れだしそうして、おとこの唇がゆるりと動きました。

「貴殿を密封する」

 それきり、わたくしの意識はなくなったのでした。



◆◆



「――君が結婚しろなんて言うから何かと思ったんだ。まさか、記憶喪失のBBだとは思わないじゃないか」

 スティーブンは、クラウスを引き寄せながら淫らな手つきで、胸元を撫でた。首筋に唇を落としながら、ふつふつと笑い、ことの顛末を語ったのである。クラウスはその手に少しだけ目を眇め、近くのソファーに腰を下ろす。ついで、スティーブンが乗りかかり、クラウスの顎下にキスを送り、それにくすぐったさを感じた。
 床の上で沈黙した十字を見つめながら、スティーブンの唇にそっと同じようすりあわせる。この二週間、クラウスはずっと怒っていた。嘘でも式を挙げたことに激昂し、スティーブンをずっと傍に置いていた。結婚しろ、と言っておいてひどい物言いだとは思うが、許せなかったのだ。そして機嫌を取ろうと甘やかす彼の手が愛しいものだと、再確認していたのである。
 とはいえ、今回の件はやはりスティーブンしか適任がいなかったのだとも、改めて思った。
 ――はじまりは、外の世界で、傷だらけの女が倒れていたことである。初めは何事かと、家の者は慌てたそうだ。女を家に運び込み、手当をしようとした傍から女の傷は消えていったので、大層恐ろしく思っただろう。しかし完全には治らない傷跡もあったらしく、なんとか手当をしたそうだ。
 しばらくして、女が目を覚ますとすっかり自分の記憶を改ざんしていた。そう、女はあろうことか自分の素性をすっかりと忘却し、一介のただの女に成り代わっていたのである。しかし、このときにはまだ女がBBだとは分かっていなかった。
 女は偽りの記憶より、どこかしらの名家の名を出し、あまつ婚約者がHLにいるのだと豪語しはじめた。手におえないと思った家の者は、まず神父に相談をした。そこから牙狩り、そしてライブラのクラウスの元へと届いたのである。類まれなる治癒力に対し、それがBBであるか否か、見極めようと提案されたのが女の願いをすっかり叶えてしまうことであった。このまま、何事もなければ治癒能力の高いだけの異界人で終わっていたのだろう。
 しかし、レオナルドの前ではそうもいかなかった。彼の目は如実に女の名を読み取り、クラウスにそれを告げたのである。早々に片をつけるべきだったのだろうが、記憶の無いそれをどうするべきか悩んだ。このまま思い出さなければ、ふつうの女として過ごしても差し障りは無かったにちがいない。
 ただ、クラウスの誤算は、思いのほか、女はスティーブンを愛したことだった。まるで、ずっとそうなるべきであったかのように、麗らかな瞳でじっとりとスティーブンを、旦那として慕ったのである。
 ――そこにクラウスは我慢ならなかった。
 スティーブンは、一度とて女の元には帰りはしなかった。むしろ、クラウスが帰しはしなかった。女の口から夫という単語が出ることに反吐を覚え、家に帰った時に女をその手に抱き夫しての役目を果たす気でいるのかと思えば、腹の底が煮えくり返った。嫉妬で内臓が焼けそうなほどだ。
 だから、クラウスは、わざと、女を煽った。そうして、女を高ぶらせて、どうにかなればいいと、思った。女が、外に出たいと言った時、ザップにも付いていくように進言したのはクラウスだ。「彼女を不安に煽ってくれ」と願ったのもクラウス自身である。彼は何か物言いたげにしていたが、黙って従った。
 きっと上手い言葉を吐いたのだろう。
 首尾は上々だったからだ。
 女がライブラに来ることを知っていたのはクラウスだけだ。電話の後、スティーブンに押し倒されたことをも利用しながら、女を追い立てた。
 そのために布石は打ったと言えよう。あらかじめスティーブンの技である小針も女に掛かっていることは確認済であった。クラウスとて自らの血を女のそばに置かせ、いつでもどうとでも出来るようにさせたのである。
 それが今夜発動した。
 ただそれだけの話だ。
 クラウスは、ステイーブンの腰にゆるりと足を絡ませながら、女の真っ赤になった顔を思い出す。自分の夫によくも、そんな表情をしていた。けれど、クラウスに言わせれば、ちゃんちゃらおかしな話なのだ。だれがお前のものなんかに。
(――はじめから、私のものだ)
 そんなこと周知の事実だ。なにも知らなかった女に添わせたのはクラウスだが、偽りでもこうも怒りが沸いてくるとは思っていなかった。そもそもスティーブンが指輪など送ったのがいけない。
 クラウスを人間に戻すのはスティーブンただひとりだと言うのに。

「……そこで黙ってみてればいい」

 誰に言うでもなく、クラウスは呟く。スティーブンが、顔を上げ「何か言ったか?」と首を傾げたことに首を振り、彼の手を再度、己の秘所へと導いた。スティーブンの肩越しに見つめた床の上で十字は物言わずに沈黙している。
 いつしか、呪詛が漏れ出てしまいそうだと、クラウスはうっそりと笑みを浮かべると夜のしじまに身を任せたのだった。





END