ぼくのテディベア。
昔、大切にしていたぬいぐるみがあった。
あまり似合わないかも知れないが、自分にだって可愛げのある時代というものはあったのだ。ただそれが少しばかり、早くに過ぎ去ってしまったというだけで、十にも満たない頃にはその肩口まであった大きなテディベアをいつもベッドに携えて眠りについたものだ。
両親からのプレゼントらしいものと言えばそれくらいで、いっそ感動したことを覚えている。
無機質なそれは、いつも変わらぬ顔をしてその日の出来事や、秘密の話を何食わぬ表情をして聞いていてくれたのだ。
毎日毎日、そのぬいぐるみに抱きついて眠る日々の幸せに満たされていた。
――あの日までは。
スティーブンは、不意に目を覚ますと隣が温かいことに気付いた。
寝起きで上手く開かないのを何度か瞬きし、目の前にいるのが男であることを漸く判別した。そしてそれが、紛れもなくライブラのリーダーであるクラウスであるということも。
「……っ?!」
驚き、飛び起きた。気付けば抱き着くような形で眠っていたようだ。夢も見ないほど熟睡していたのかと思うと急に不安が過ぎった。
これが寧ろ夢では無いだろうか。
こんなことがあっていいはずがない。
スティーブンが狼狽えなかったのは、お互いに服を着ていたこともある。それに何かあれば匂いでわかる。性行為の後は、隠しても片付けても鼻につく。まるで、血液みたいに。
クラウスは未だ心地よく眠りに就いていた。そっとベッドを降り、スティーブンは頭を抱えた。どんな事態であろうと、眠りの浅いスティーブンにとって、これは一大事であるし、昨夜なにがどうしてこうなったのかも思い出せない。
「ん、……スティー……ブン」
背後から、寝惚けた力ない声がした。はっとして振り向くと、クラウスの翠の目が薄く開き、柔和に笑みを浮かべていた。伸ばされた手が、スティーブンの服の端を掴み引き寄せる。
力のままに身体を傾けると、鼻と鼻が触れる距離になる。スティーブンは、ひどく絶望した。こんなに近くで触れ合ったことなど無かったからだ。
昨夜何を、してしまったのか思い出せない。
「よく、ねむれたかね?」
「……ああ」
絞り出すように、顔をしかめると、クラウスが、ふと指先でスティーブンの目尻を撫でた。「スティーブン」呼ぶ声の甘さになど、気付きたくなど無かった。
「眠れなかったか?」
「いや……、眠れたよ。夢もみないほど」
事実、そうだった。クラウスは血色のいいスティーブンの表情に納得したのか、そそくさとベッドの中に引っ張りこむと、再度スティーブンを抱きしめた。起きた時とは逆の形だ。
「私が抱き着いても、苦しくは?」
「ないよ」
クラウスにならば、圧死させられても構わないが、こうなってしまった原因の追究が先だと思い、するりと腕の中から抜け出た。クラウスが不思議そうな顔で見つめてきたのを苦く笑って、スティーブンはベッドの上に座り込む。
「あのさ、クラウス」
「なんだね」
「……なぜ、ふたりでベッドを?」
牙狩時代、野営で寝食を共にすることはあったが、それ以外、というよりもHLに来てからはそんなことをしたことがない。いくらスティーブンがそうしたいと望んだところで、クラウスに思いなど告げるはずもなかった。だからこの状況に説明が欲しい。
昨晩、己は執務室で仕事をしていた気がするのだが?
その答えをクラウスは持っていた。
ゆるりとベッドから身体を起こし、クラウスは昨晩の出来事をつらつらと語った。
「君が、あんまりに無理をするものだから心配になって事務所へと戻ってみると、コーヒーメーカーの前で倒れていて、何事かと思い慌てて駆け寄ると、君は眠りに落ちていた。眠っていただけだったのでほっとしたのだが、仮眠室に運んだところで君に、テディ、と呼ばれた。テディとはなんだと尋ねると、君は私にテディはテディベアさ、僕と一緒に眠るんだろう、と引き寄せ、口づけをしてきた。抱きついてきた君は、少しばかり嬉しそうな顔をして、私に、その……」
一度視線を逸らしたクラウスが、目許を染めた。
そしてスティーブンは出来ることならば、今すぐにでもこの場から窓をぶち破って飛び降りてしまいたかった。何がテディだ、誰がテディだ。クラウスをぬいぐるみの変わりにしていた事実が、ひどい傲慢でしかなかった。
しかも口付けときた。確かにぬいぐるみにキスをして眠る習慣があった。それが残っていたなんて、徹夜詰めは酩酊と似ている。今度からは定期的に仮眠を取らなければならない。
「……その、君は私のことが好きだと、報告したのだ。私は、それを、ひどく喜んだ」
クラウスの更なる追い打ちにスティーブンは、死にたくなった。いや、今すぐ死のう。そう思ったほどだ。
テディへの毎日の報告、秘密の打ち明け、どれも昔の自分そのままだ。そうして、クラウスは大人しく抱き枕になっていたわけか。加えて声音の甘さ。何もかもが最悪だった。
「……クラウス、君、そんな告白を真に受けたのか?」
「――きみの、言葉では無かったのか?」
いいや、僕の言葉だ。真実、スティーブンはクラウスを愛している。その手足を切り落として永遠に誰にも触れさせないようにしたいほどに、愛していた。酷い愛情だと言われようと、スティーブンは世界からクラウスを攫ってしまいたいのだ。
「……寝惚けたことを言ったね。悪いねクラウス」
「いいや、私は君の告白が嬉しかった」
破顔する表情にそっと目を落とす。「そうか」スティーブンは、体を起こしてクラウスへ乗り上がる。翠の目が不思議そうにじっと見つめ返してきた。
その目を繰り抜いて飾ってやりたい。きっとそんな風に言ってもクラウスは、分からないだろうし、この形ですら何をされるかも分かってないだろうに。
「スティーブン?」
「例えばさ、クラウスは僕にこうやって襲われても平気かい? 裸に暴かれて、僕に蹂躙されるんだ。そんな関係を僕は望んでる」
うっすらと笑みを浮かべ、クラウスの頬を撫でる。きょとん、とした顔が言葉を噛み砕くのには時間がかかるのだろうか。いささか逡巡したあと、ようやく理解したのかうっすらと目尻を染めたクラウスが小さく瞬きをした。
「……君となら、その……かまわない」
歯切れ悪くも、クラウスは同意してみせた。思わず目の前が赤く染まり、脱力した。してみたいとは言ったが、結局スティーブンには出来やしないのだ。酷くなんて、出来もしない。
傷つけでもすれば、すぐにでもスティーブンは身を投げてしまいかねない。
豊かな胸元に顔を埋めて、脱力した。後頭部を掌がゆるりと撫でてくる暖かな感触に視線だけ上げると、赤い顔でとろんと眠そうにしているクラウスが見つめていた。
「……スティーブン、良ければ私に寝物語を語ってはくれまいか?」
「寝物語?」
「テディのことを」
ああ、と苦く笑った。テディ、かテディ。懐かしむように空想し、思い出す。大きなぬいぐるみであった。
「僕が十にも満たない歳だっただろうか、両親が珍しく子供らしいクリスマスプレゼントをくれたんだ。僕の肩口まである大きなテディベアの人形だ。僕はすっかり気に入ってしまってね、そのぬいぐるみをテディと呼んでどこに行くにも連れ回したんだ。ベッドの上では秘密の友人で、その日あったことや秘密の出来事を打ち明けてみせたんだ。おやすみ、テディ。そういってキスをするのが日課になっていたんだけど、ある日化け物がそのテディを連れ去ってしまってそれ以来僕の元にテディはいなくなってしまったんだよ」
綿が溢れて、腕だけの残ったテディベア。スティーブンの気持ちすらどこか引き連れてしまったような気がした。
クラウスを見やると、すっかり吐息をこぼし眠りに落ちていた。穏やかな寝顔に、ふと笑みがこぼれおちる。確かにクラウスはテディに似ているかも知れない。温かな抱擁の中、少しだけ背伸びをしてスティーブンは頬に口づけると、すっかりクラウスの上で丸くなった。
「おやすみ、僕のテディ」