君にアイとセップンを贈ります。



こんにちは、こんにちは。
 海の底より愛をこめて。

 三ヶ月と十九日前。クラウス・V・ラインヘルツは、自分が幽霊になってしまったのだと感じた。なぜそんな馬鹿げた考えを持つようになったのかと、ほかの人間からすれば笑い種だろうが、少なくともライブラの執務室において、クラウスという人間は見えないものになってしまったようだった。
 執務室でぼんやりと、パソコンを眺めながら、ソファーでじゃれあう青年たち三人の姿をこっそり見やりながら、さて今日は幽霊ではないだろうか、と考えるところからクラウスは始めなければならなかった。なにせ、例えばその日一日幽霊だとすると、クラウスは誰に話掛けても答えてもらえないので、その日はすっかり口を閉ざし、黙々と書類に目を通してサインをするだけのものになる。仕方がない、幽霊なのだから。
 切っ掛けが何か、だとか。果たして自分は彼らの気に障ることをしたのだろうか、とか。色々考えてはみたが理由は分からなかった。そもそも感情の機微に疎いと言ったのは、一人や二人では無かったので、たとえばそうすごく怒らせてしまったのかも知れない。
 本日も、デスクトップに顔を向けカタカタとキーボードを繰る。時間は午後の休憩でもどうだろうか、と声を掛けるような時刻ではあったが、ここ最近クラウスがそうして声を掛けようとすると、途端にみんないなくなるのである。今日も、それは間違いなくザップが「よーし、外行こうぜ」とレオナルドとツェッドを連れ出しライブラを出て行く。クラウスはぼんやりとその背を見つめるしかなかった。
「坊っちゃま、本日はウバのミルクティーに致しました」
 最近ではギルベルトくらいしか、クラウスにまともに話し掛けてはくれないので、どうにか自分はまだここにいるのだと気付ける。どうやら幽霊では無いらしいが、それでもまるで透明人間のようだった。
 ありがとうギルベルト、そう言おうとして開いた口は何も言葉を発せず、舌の根を乾かすだけだった。

 最近、よく同じ夢を見るのだが。
 クラウスの言葉にスティーブンは、興味も大してなかったが、へえどんな、と相槌を打つことは怠らなかった。何せ、それはスティーブンという男であったし、けしてクラウスを無碍にはしないというのが、心情だった。それこそ、クラウスに関する出来事は例え興味が無くとも、すべて把握しておくことに意味があるのだから。
 インスタントに馴染んだ舌が、マグカップの中身を上手いと感じるそばで視線は、クリップに挟まった資料に、耳だけをクラウスに向けた。特別気にしてないですよ、とそんな風に装った風に見えるかも知れないが、情報は一から十まで仕舞い込まれる。資料の内容など頭に入ってなど来るはずもない。
「海に沈んでいく夢をみる」
「へえ。それは、なんとも暗い夢だね」
 事実、まるで自殺願望者のようななんとも言い難いものだ。クラウスがそうであるはずがないので、少し疲れているのでは、と進言した。そうだろうか、と言われたので、そうだと相槌を打つ。
「夢なんて、いわゆる自分の鬱屈した何かが表層的に出てるのさ。海に沈みたいほど君は疲れてる、ってことなんじゃないか。ゆっくり寝るといいよ、なにも考えず好きな本でも開いてさ」
 スティーブンは、資料から目を離さずそう伝えた。クラウスの顔なんて見もせずに。ライブラのボスは心配性だな、なんて笑ってみせたくらいだ。それだけ。
 それは三ヶ月と十二日前の話。

 異変に気付いたのは、レオナルド・ウォッチであった。
 昔から、みんなが気付かないことにいち早く気付き、声を上げるのは得意だった。悪いことも良いことも、どんなこともレオナルドは少しばかり人より早く察知できたのである。神々の義眼を与えられた時からは、もっとそれに対応することができるようになった。声を上げることはそう難しいことでは無かったのに、今目の前のことにはどうすればいいのかわからないでいた。
 そもそも、なにがおかしいのか口に出来なかったからである。
 その日、ライブラに訪れると、ボスであるクラウス・V・ラインヘルツがどこか不気味であった。花を愛で、机の横にある幸福の木なんて呼ばれる観葉植物の葉を撫でていた。それはいつもと変わらない光景であるはずだったし、ソニックがいの一番に彼のデスクに走り寄っては、菓子を催促する朝のはずだった。
「おはようございます」
 声を掛けると、クラウスはこちらを向いて、そっと微笑んだ。いつも通りだ。ソニックは、頭から飛び降りて向かおうともしない。なにかが、変だった。クラウスさん、呼びかけようとして声が遮られる。
「レオナルドさん、朝の紅茶はいかがですか」
「えっ」
 ギルベルトの声に気を取られ、そちらを向くとクラウスからの視線はなくなった。そして、執務室からゆっくりと去って行く。温室へ行くのだろうか。分からない。結局声を掛けそびれてしまった。
 それでも、何かがおかしいと思った。けれど、何がおかしいのか、レオナルドには言葉には出来なかった。
 それが、三ヶ月と二十日後の話。

 そもそも、クラウスが幽霊だと思い始めたのはほかでもない。スティーブンのせいであった。
 大勢でいると、スティーブンに声を掛けても無視をされることが多くなり、加えてギルベルト以外の誰かに声を掛けようとすると遮られるようになったのである。流石に人の機微に疎いクラウスにも、彼がわざとそうしていることは分かったが、どうしてそうしているのか理由が見えなかった。
 とはいえ、スティーブンは別にずっとそういうわけではなく、戦闘中であったり、仕事のことに関してであったり、あとは二人きりの時は普段と変わりなく会話が進むのである。クラウスが一方的に会話をしても、そうかい、と常なる笑みをこぼしてクラウスを慈しむのだ。
 たぶんそれが、唯一のよりどころだった。最近は、皆、クラウスを見てくれない。スティーブンもそうだが、二人きりの時は別だ。笑いかけてくれる、話しかけてくれる。他でも無い、クラウスにだ。
 彼だけがそうしてくれる。
 きっと皆がいる時は、スティーブンも皆と同様にクラウスが見えなくなるに違いない。だったら、そうだ。スティーブン以外とは口を利く必要もないのではないだろうか。
 それに気づいたのは、三ヶ月と二十日の朝のことだった。

「クラウスが壊れた」
 スティーブンはひとり、部屋でうっそりと笑んだ。仕事以外では何も反応しなくなった、声をなくしたクラウス。可哀想なクラウス。そんなに心の強い男では無かったのは分かっていた。だから、彼が壊れるのは容易だった。
 志や信念は立派だが、心は弱い。いつだって何かに胸を痛め胃を痛めていた。
 声をなくし、スティーブンにしか笑いかけることのなくなったクラウス。手を差し出してやり、僕の部屋にくるかい、と尋ねると嬉しそうにしてくれた。
 もうクラウスは喋れもしないし、外に出ても意味が無いのだと知っている。
 正気に戻るのは戦闘中だけだ。それ以外は、何をしても何をやっても反応のない木偶人形にほかならない。
「さぁ、クラウスを迎えにいかなくちゃ」
 声をなくしたスティーブンだけのクラウスが手に入った。

「あなたのせいでしょう」
 レオナルドは、四ヶ月と八日後にスティーブンを詰った。
 大きな窓の付近にあった観葉植物は撤去され、そこのデスクには誰も座っていない。クラウスは今は、スティーブンが呼ぶまで仮眠室でいつもぼんやりしながら、ジャスミンだったり異界の花であったりを愛でている。はたから見れば、サナトリウムにいる精神異常患者だ。けれど、それで間違いは無かった。
 ソニックは時々クラウスの傍に行って、彼と話をしているみたいだった。ソニックに声も無く笑いかける異常さをやはり言葉にすることは出来ない。それでもクラウスがおかしいと思った日に声を掛けるべきだった。むりやりにでも。
 目の前の男は、なんのことだい、とうっそりと笑っている。
 仮眠室に入りふたりきりになって、スティーブンがなにをしているのか、レオナルドは知っていた。クラウスは嫌がってはいないが、それが正しい行為かどうかと言えば絶対に間違っていると言えた。
 甘い声で、キスをしながら、耳元で言うのだ。「ぼくだけしか見えないよ」と。まるで暗示だ。レオナルドはこの現状を打開すべき手を持っていない。スティーブンがどれほど根回しの効く人物であるか、把握するまでにこんなに時間を要してしまったからだ。
「あなたが、クラウスさんをおかしくしたんだ」
 泣きそうだった。声がふるえた。おかしくなった彼は、以前の威厳さも優しさも、尊厳もない。ただ男のそばで愛でられる魚のように呼吸していた。
 考えたくもないけれど、きっとスティーブンの家に帰ればクラウスはもっとひどいことをされているのだ。男ににしかみえないきこえない、そういう世界で。どろどろと、どろどろ。
「……ひとつ教えてあげようか、少年。僕は、プレゼントをもらったにすぎないんだよ」
 意味の分からない言葉を吐く男に、レオナルドは眉をひそめた。うっすらと目を開くと、彼の視界の奥で記憶が混ざり込んでくる。クラウスの、彼の、肢体、脚、腕、みどりいろの飴玉のようにとけた。
「ヒントだ、少年。クラウスがおかしくなった日はいつだったかな?」
 瞳が熱を持ってぼろりと涙が落ちた。ぼたぼたと涙が出る。スティーブンが去って行くなか、彼がおかしくなった日を考えた。六月九日。クラウスが声を無くしたのは、男の誕生日だった。



END
スティーブンハッピーバースデー