地上、千メートル。



 地上千メートル。
 死ぬには十分な高さを誇ってる。そもそも十メートルもあれば楽に逝けるのだから、きっと此処から落ちれば地獄も容易いことだろう。
 風は、轟々と唸りを上げ、スティーブンの耳元を過ぎていく。煽る風は髪を乱し、草臥れたスーツをたなびかせた。見下ろした地平は、ずっと混沌としていて、異様なライトがまるでサーチライトのように煌々と光っている。人工的なまるでラスベガスの派手さを様相した場所もあれば、チカチカと点滅するのは異界の化け物の目だったりもする。すべてを判別することは、果たしてスティーブンには出来そうにも無かった。ただ、夜の、そのうえまるでロンドンのように一年中、霧の多いこの場所はいわば可不可の世界だった。それでも明かりは、よくよく霧の中を蔓延としていて、スティーブンはおかしそうに笑った。
「クラウス、見てくれ。ヘルサレムロッズは、混沌とした街だが、こうしてみると本当に美しいものだと思わないか?」
 指揮者のように、スティーブンは大げさな手振りで街に腕を広げた。さもすれば、抱けてしまうのではないというほど、目下の街はあまりにミニチュアであった。
 大型の異界の住人の痕跡がわずかに霧の向こうにも見えるが、特に気にするほどではない。なにせ、今日の生存率は珍しく五〇パーセントを超えていたからだ。五割も生きれる可能性があるのだ、この街にすれば十二分すぎる生命だった。明日にはもしかすれば、今日の半分以下の可能性とてあるのだから、その中でこんなにも安全な日は無いだろう。
 街は、活気にあふれていた。
「君が好きだと言う人類は、今日も笑顔を浮かべて、なにも知らないような顔をしながら生きている。明日も明後日も生存率を確認しながら、安心感を得ているんだよ、クラウス。滑稽にも思えるのに、なんて愛しいんだろうね。きっと君は、毎日こんな気持ちを抱だいているんだろう。俺には到底、無理な話だ」
「そうだろうか」
 隣に立つクラウスのネクタイが、ウエストコートから抜け出し、風を切っている。普段前髪に隠した富士額も露になっていた。
 翠の目が、あの輝かしい街を一望し唸りを上げている。握りしめた左手には十字のナックルが鈍く光っているのをスティーブンはおかしそうに見つめ、ひとつ踵を鳴らしてみせた。煌々しいダイアモンドダストが吹き上がる。風に舞い、冷たく頬を撫でた。
「なあ、クラウス。明日の約束をしてほしいんだが」
「私に出来るものならば、なんなりと」
「そうか、それはよかった。最近流行りのレストランにディナーを誘いたかったんだ、ああ、勿論味は保証する。そしてそのあとはぜひ、部屋で一杯どうだろうか」
 どこかで爆発音がして、百メートル先のビルが音を立てて崩壊した。狂騒に沈む声が耳を通りすぎていく。ああ、今日もこの街は吐き気がするほどの狂喜ばかりだ。
 クラウスを見やれば、やけに嬉しそうな顔をして、目を細めている。愛しさに溺れそうだ、今すぐ抱き締めてキスをしてやりたい。そんな気分を彷彿とさせる。スティーブンは、くちびるだけにクラウスの名前を刻んだ。
「君の選ぶ店に間違いなどあるはずもないだろう。そのあと君の部屋に行くことも実に楽しみだ。ぜひ、君と朝も共にしたい」
「ああ、勿論だよ。クラウス」
 数歩先は奈落である。屋上のへりで軽やかなステップを刻み、スティーブンはクラウスの前に立つ。
 背後では、流星のごとく星が落ちる。きっと地上では、ライブラのメンバーが奔走していることだろう。さきから、忙しなく胸元でバイブが震えている。
 しかし、それに応えている暇は無い。状況など、この場所より見るに明らかであった。
 世界の終わりとは、このようなものだろうか。明日が来るかなどわからない。スティーブンは風に煽られながらも、足元をすっかり氷で固めてしまっていた。
「クラウス、キスを」
 してはくれないだろうか、という声は飲み込まれ稚拙な口付けに飲み込まれる。それでも最高のキスだった。神の祝福を一新に受けた気分のようである。
 少し屈めた背を撫で、スティーブンはゆるりと離す。続きは明日の夜に。告げなくともクラウスは察したらしく、緩やかに笑みをこぼした。
 髑髏が笑う十字が、地上に落下を果たす。目下、それが何かに刺さったが、何かはわからない。ぎゃあ、と鳥の首を絞めたようなひどい声が耳に届いたきり、沈黙した。
 スティーブンは、首だけを背後に回して地上千メートルの醜態を見下ろした。
「君に愛と接吻を送るよ」
 ジーザスクライス!
 スティーブンは、クラウスの両手を取りビルの狭間に身を踊らせた。