秘め事。
僕は自分に課せられた使命を神聖なものにしようとしていた。高潔さを振り翳した中身はてんで屑のどうしようも無い男であることに変わりは無かったが、どうにか自分の行いを芸術の箱に押し込んで、うつくしく感嘆とされる所作に築き上げようともがいていた。僕の箱庭は雪解け水の溶けた澄んだせせらぎの如く、うつくしいものでなくてはならなかった。
そうでもしなければ僕は彼の隣に立つことすら果たして困難であって、どれだけ無色透明な水で注ぎ落とそうとしても次から次に迫りくる汚泥をなんとか底へ底へと追い遣る努力をするのだが、いかんせん元が煤塵のように淀んでいるものだから、雪ぐのは至って困難だと知り得るのもそう遅くは無かった。だから、僕は逆に塗り固めてみせたのだ。分厚い氷の棺の中で誰にも触れられないように冷たく覆い隠し、彼の傍に立つことを選択したのは、僕にとっては紛う事なき最善の選択肢であったのだ。
そもそも僕という人間は、真っ当と呼ぶには嘲笑を来してしまうんじゃないかしら、というほどに地の底を這いずり回って呻いているようなのがお手の物な俗物であって、高潔さや神聖さというものは至って不釣り合いな人間であったというのは推し量られるべきであろう。
彼、という人間は僕とは真反対にあり正に僕にとっての神聖な使命を指し示す人であった。神聖ではあったが、神では無かった。彼の一挙手一投足においては罪と後悔の念が重くのし掛かり、悔恨している人間を神と呼ぶには余りに傲慢であろう。彼はけしてゴルゴダの丘で磔にされる人物たり得るものでは無かった。
けれども、けして後ろを見ることも無いのが、彼という人間で、見つめる先は光り輝く庭であった。
その彼の眩すぎる光のお蔭で僕に染みついた俗事のような斑点は、よもや注視されるものではなく。掻き消えている。僕は彼に並ぶことはせず、後ろからその足跡を血で汚しながら付いていくばかりであった。元がひどいのだからなんとかその光明に強く射す影へと分からないように潜り込むばかりで、見える部分は、僕がなんとか神聖ぶった顔をしていて、彼と同等の光のように、人の良い顔をして笑うばかりである。
だから、そう、これは何かの間違いである。こんなことがあってはならないのだ。
僕の上に厚く降り注いだ雪化粧がぼろぼろと剥がれ落ちていく。丘陵を作った部分から脆くも裂けて僕の神聖さを剥がしていく。泥はいつまでたっても落ちることは無い。朝一番に丁寧にプレスをかけたスラックスの裾に撥ねた一点の泥のように、しぶとく付きまとって、そうして僕の正体を暴いていく。その一点で、何もかも台無しなのだと、僕は気付きもしていなかったくせに、やけに目立つその小さな痕を消し去ろうと必死になっていた。
これは、けして僕ではない。僕というものは彼の犯し難い金色に煌めき、さざめく燐光を見守るだけでいいのだ。明るすぎて闇になる部分に足を上手に隠して生きていくのがお似合いだというのに、僕が神聖を感じ取った翠露の目が、今目の前でどろりと溶けて、まるで僕とおんなじ場所まで落ちてきたかのような表情をしていた。暗いところだ。
「くらうす」
彼の名前を呼ぶことすら、度し難いまでの後悔の積年に押しつぶされそうで唇が震えた。ベッドのシーツをくしゃりと捩る僕の手を見て、彼は更に表情を暗くしてしまった。乱暴に引き裂いたシャツの合間に覗く僕の肌に彼の手が這う。
何をしようと言うのだ。
その答えを汚い僕は知っていたし、よく知る行為そのもので、闇夜に聳える女の横顔のようにひっそりとした秘め事であることも分かっていた。
だからこそ、彼が裸になって僕の上に乗り上げて鳴きそうになっている意味も、そもそもどうしてこうなってしまったのかすら、今の僕には余りに判別しがたく、僕の罪状を暴くように彼の目はひどく暖翠に滲んでいた。
◆ ◆
僕が君とこうなったのは、果たしてひと月も前だっただろうか。お互いが古くからの友人であり、そして決まったパートナーも長い間作ることも無かった。それもあったせいか、いい年をした男二人が独り身というものに対して、周囲があれやこれやと口を出すのも仕方がないことではあるのだろう。良い人がいるのだ、と言われる機会も多くなり僕も君も笑って断りを入れるばかりであったが、ふと僕も君には好いている人間はいないのかしら、なんて気にもなって、だからついつい君に口を開いてしまったのであった。
「なあ、君も長いこと僕と友人をしているが、浮いた話は無いのかい? 好きな女性とか、此処なら異界人っていうのもあるのかなあ」
と、僕は愛用のマグカップになみなみと注いだ珈琲に口を付けて君に尋ねてみた。深い意味は無い。敢えて言い訳をするのであれば、周囲の厄介があったからだった、という他ないだろう。いわゆる、不本意ということだ。
僕は視線を君に落とした。執務机に姿勢正しく、うつくしい彫刻のように座った君の旋毛をじいっと見遣り、重い前髪の下で爛々と光る金翠色の眼は、まっすぐを見据え、威厳のある表情で「私には、ずっといてほしい人がいるので」と真面目くさったように呟くものだから、僕はどこか茶化したい気持ちになって――多分恐らく、それは、嫉妬から来た僕の失態であったのかも知れないが――兎に角僕は「なんだい、そりゃあ。ずっと一緒にいるのなんて僕くらいのものじゃあないか」と大げさに笑ってみせれば、執務机に座っている彼の横顔。眼鏡のフレームにほんのりと色が付き、耳が桜色に染まっている。
僕はなんてことを、と思った。
何を暴いてしまったのか、と思った。
「僕が好きなのかい?」
そんなはずないというのに。いまにも叫んで走り回って壁に頭を打ち付けたいような衝動に駆られて、けれども僕は愚かなので君に答えを求めたくなり、そうして、ゆっくりと頭が上下に振られるのを見届けてしまったものだから、僕の心中と言えば、とたんに――ああしまったなあ――という感慨に陥ったのであった。だから、どうしたかと言えば君のその動く頭の旋毛を眺めて、ゆっくりと僕は「こっちを見て」と神聖さを纏ったふりをした指先で、優しく頬を撫でては、翠色の目が羞恥に滲みそっと閉じたのを見つめる。
此処には二人だけであった。誰もいない、執務室で君の唇を掠め取ったのだ。
まさにその場は天国もかくや。大窓から差し込む陽光、彼の赤毛がきらりきらりと光りおち、震える睫毛がけぶりその影を落とす仕草までがはっきりと映し出され、僕はどうしたらこの愛しき静謐を踏みにじらずにいられるだろうと、思案したのであった。
とはいえ、僕と君の間に出来たのは間違えようもない恋愛の類であったのであろう。
君に預ける恋は、まるで幼子のように無垢で純粋で煌めきのあるものであればいいと、僕は考えていた。間違いなくそれが正解であると、僕は何ひとつ疑いようのない思いを持っていたのである。
蜜月は、秘めやかに僕達の間に転がっていた。それは甘く、互いの唇を蜂蜜で浸したかのような感覚で、啄むキスや指先を絡める官能を愛していた。肌を重ねることなど、あってはならない。君も僕もそれで良かったのだと、僕は勘違いをしていた。
僕の欲望など、彼の前では小たる問題でしかないのだと思っていたのであった。氷の棺の中に暗い部分をすべて置いてきた。君と過ごす蜜月をただひたすらに、舐めてみせたのであった。
◆ ◆
「わたしは、ふあんで、ふまんだった」
これは、君の吐露である。
君の裸の胸の上に僕の掌が触れている。君の手が掴んで、僕に触れさせている。しかし、これは僕が無理やりさせている罪であろう。君はなにひとつ悪くなどないのだ。純粋の池に浸った君の肌を見るなど、僕にとっては、際限の無い罪状であった。
不意に、ぼとりぼとりと君の涙が僕の頬に落ちてくる。眼前に揺れる哀しみに暮れた君の表情が切なくてたまらなかった。
何が不安なのだろうか、何が不満なのだろうか。
僕が尋ねれば君は「もっとふれてほしい」と懇願して泣いた。「もっとひどいことして」とも愁訴して喉を震わせた。
なんてことだろう。
僕が必死に取り繕って、甘ったるく飯事のような児戯を君は嫌っていたらしい。「あさましい」と君は吐き出した。「きらいにならないで」と、僕に訴えてみせた。「くらうす」僕は一体君になにをみていたのか分からない。
名前を呼べば、彼の内がびくりと跳ねて泣いた。僕の性器を腹の奥に咥え込んで、腹筋が痙攣していた。痛みに脂汗を額に滲ませながら、痛みに耐えて動くことも出来ない。
こうなる前に「きみとこういうことがしたい」と訴えられた。僕はその成り行きをただただ呆然と見つめるしか出来ずに、ゆるゆると沈む腰と君の必死な様だけで、どうしようも無かった。
けれども、もう君のために神聖な行為だと偽っても良いのかしら、と思った。君のせいにして僕の白くまとった外面を剥がしていってしまってもいいんじゃないのかしら、とも思った。涙に濡れる頬を指先で拭う。クラウス、と名前を呼ぶと君が唇を噛んだ。
「君を不安にさせてごめん」
今から怖いことをするけど、許してね。と、僕は君の唇を上手に塞いで、氷の棺を割ったのであった。
◆ ◆
僕の神聖な彼は、僕の汚らしい欲をぶつけてみても特別、何か変わるものでも無かった。彼は案外、僕が考えているよりもずっと僕にいろんなことをしてほしいと訴えてきて、最中なんかは「ひどいことをして」というのが通常になってきて、僕はそう言われてしまえば、仕方が無いなあ、なんて顔をしながら、泥の跳ねたスラックスのように自分の全てを台無しにして、君のためにいろんなことをして上げようと思うのだった。
終。