まどろむように、君と。





 とろとろと、微睡みの中に沈み、目を開けないままベッドに潜り込む時間は、実に気持ちがいいものだ。スティーブンは糊の効いたシーツの感触を楽しむように、枕などそっちのけで頬をくっつけながらブランケットの中で蠢いていた。今日は久しぶりに何もない休日だ。勿論、事件があれば飛び出さなくてはいけないが、誰に邪魔をされること無く、アラームがスティーブンを苛むことも無かった。好きなだけ、目を閉じていられる。
 斜光カーテンの向こうからは、薄ぼんやりとした日光が透けているので恐らく朝なのだろう。しかし、スティーブンは折角の休日、再度眠りの淵に飛び込むことを躊躇わなかった。休日はなんといっても二度寝の醍醐味だ。適温になったベッドの中は離れがたい。人類は誰もこの温もりには敵わないだろうとすら思っている。睡眠は、偉大だ。
 うつらうつらと再度、眠りに足を掛けたところで、鼻腔を良い匂いが掠めた。コーヒーにそれから、パンの焼ける匂いだ。良い香りがする。今朝はヴェデッドに来てくれるよう頼んだだろうか。この部屋に入ることが出来るのは、家政婦のヴェデッドくらいなもので、あとはスティーブンの許可がなければ当然足を踏み入れることも出来ない。しかし、ヴェデッドは、間違いでなければ確か子供の授業参観だから来られないと言っていなかっただろうか。
 ――じゃあ、だれだ?
 一気に目が覚めた。がばり、と身を起こし、気配を巡らせる。シャツを羽織り、昨日ベッドの下に脱ぎ捨てた靴を履きなおした。侵入者であればすぐに対応できるように、その心づもりである。そもそもこの家に入って優雅にコーヒーを淹れているのか。相手は余程の大物か、まさかBBか――?
 思考を巡らせ、ゆっくりと寝室の扉を開く。リビングには誰の姿もない、ドアから首を出し、辺りを探るとキッチンで見慣れた後ろ姿を発見して、スティーブンは思わず脱力した。
「……クラウス?」
 燃え盛るリコリスのように赤い髪、仕事ではないからか、ストレッチの効いた白いワイシャツに黒のスラックスと言った極めてラフな格好でクラウスはキッチンに立っていた。「おや」フライパンの上でたまごが躍っている。上手にひっくり返し、火を止めると、クラウスはスティーブンの元へとやってきて、「おはよう、スティーブン」とコーヒーの入ったマグを渡したのだった。
 ありがとう、と受け取ると同時にクラウスがなぜここにいるのかが、理解出来ない。「なんで、ここに」合鍵を渡したのは覚えているが、それが理由にはならない。昨日の夜は疲れていて、二人で現場で別れてそのまま彼は執事の車で送られて帰ったはずだ。今頃、自宅の方でゆったりとした時間を過ごしているはずだ。
 そうすると、これは俺の夢か?
 都合の良い夢を見ているような気がして、渡されたマグカップから伝わる熱伝導すら感じられない気持ちだ。ぽかん、とした間抜けな顔のスティーブンを見つめて、クラウスは普段の強面ではなく柔らかい笑みを向けて、鼻にぬけるような可愛らしい声を立てて笑った。
「ふふ、驚いたかね」
 こくり、とまるで出来の悪いネジ式の人形のごとく頭を落とすと、クラウスは目を細めてにんまりと、悪戯が成功した幼い表情をした。愛らしさに、きゅう、っとスティーブンの心臓が音を立てる。
 ああ、なんだこれ。俺の都合の良すぎる夢にしか思えない。
 けれども現実だと言うように、クラウスはひとつスティーブンの頬にキスをくれ「ブランチにしよう」と誘う。手を引かれて、あっという間にソファーに着けば、ぼんやりとするスティーブンの目の前には食事が並んでいく。
「昼前とはいえ、君は寝起きだろうから少々、軽いものを用意した。ポタージュ、クルトンとホワイトマッシュルームが入ってるが嫌いでは無かっただろうか?」
 特別嫌いなものはないスティーブンは、スープボウルの中味がとてつもなく美味いことを知っていた。最高の目覚めだと思う。が、しかし、なぜクラウスが。
「なんで、いるんだ?」
 なんとも間の抜けた質問だっただろうか。クラウスはふ、と表情を翳らせ「いては駄目だろうか?」と幾分も切なく眉を潜めるものだから、恋人に対しなんて愚鈍な質問をしてしまったのだろうかと、スティーブンは狼狽した。
 百戦錬磨の男は、本気の恋の前では形無しである。
「だ、ダメなわけ無いだろ!? いや、ただ、そう、事務所をどうしてきたのかと思って」
 クラウスがここにいるということは、ライブラには誰もいないことになる。構成員各位は、拠点ごとに仕事をしているだろうが、大本の執務室はツートップが不在であれば空っぽだ。別に常にいなくてはいけない、という決まりも無いが、二人揃って空けることは余りない。
 そりゃあ、クラウスと休日が過ごせるならば願ったり叶ったりだが。何せ、ひと月ぶりくらいじゃないだろうか。時々セックスだけのために夜だけ一緒にいたりしたが、丸一日というのは滅多に取れるものでは無い。いや、セックスだけが目的ではけして無いのだが、それでもつい丸一日ベッドにいられたらいいな、と考えるのは、スティーブンだってまだまだ若いからだ。恋人と休日が一緒だなんて、それはもう色々頑張るしかないのではないか。
「事務所はギルベルトに任せて来た。ツェッド君もいるので、大丈夫だろう。ここの所、多忙であったので、休みを提案されたのだ。最初は断ったのだが、君と過ごす時間が久しいことを思い出して、朝一番に合鍵で入ってきたというわけだ。勿論、何かあれば出向くが、それは君も同じだろう」
 話す合間に並べられる、生ハムの挟まったサンドイッチ、じゃがいものガレット、クロックマダム、ボイルされたヴルスト。ブランチの準備には豪勢で、スティーブンは思わず顔を覆った。クラウスが恋人という事実が幸福で仕方がない。いち早く同棲したい、と心中で思う。
「ずいぶん、君といる時間が無かったので、その、私も君と共にいたいと思い、予定も考えず訪れたのだが、迷惑だっただろうか?」
 すとん、と横に腰を落とされ、気落ちした表情で尋ねてくる。やり手の商売女みたいな手練れにも見えたが、クラウスはこれを素でやっているのだから始末に負えない。首がちぎれるくらいに、ぶんぶんと横に振り、否定する。迷惑じゃない、驚いただけだ。早口にそう述べると、ほっとしたクラウスは頬を緩めて笑った。良かった、と胸を撫で下ろしている。
 ああ! ちくしょう、なんて可愛いんだ俺のテディちゃんは!
 いますぐその白いシャツをひん剥いて、ソファーに押し倒したいのをぐっとこらえ、スティーブンは生ハムとエッグフィリングの挟まったサンドイッチにかぶりつく。牙狩り時代野戦で、ずいぶん世話になったクラウスの料理の腕前は未だ劣らずだ。相変わらずの美味さに、早く嫁にもらいたい気持ちがどんどん募っていく。
「君は、そういえばそんなちぐはぐな恰好をしてどこかに出掛ける予定だったのだろうか?」
 クラウスも、ヴルストを切り分け齧りながらスティーブンの恰好を見遣る。敵襲かと思い、慌てて出てきたものだから、シャツの前は開襟したまま、下はスラックスではなくスウェット、そのうえ革靴なのだから、本当にどうしようもない。恋人の前でこんな残念な姿をさらしていたかと思うと、スティーブンはさ、っと血の気が引いた。
 いつだってクラウスの中ではかっこいいままが良い。取り乱しながら、革靴をさっさと脱ぎ捨て、前のシャツのボタンをいくつか留める。「わ、わるい、クラウス、こんな恰好で」クラウスだと知れていたなら、もっときちんとした服を着て、キスで迎えたのに。熟睡しきった寝惚けた頭では、残念な結果しか得られなかった。
 くふん、と花が舞うように微笑むクラウスが、スティーブンの鳥の巣のようにあちこち跳ねた髪を撫でた。「君のこういう姿は、とても好ましい」ぼん、と顔が沸騰しそうなほど赤くなった。反則だ、起き抜けにクラウスの優しいテノールは。ごくりと飲み込んだ、サンドイッチの味なんてひとつも分からない。
「君が、休みだと言うならば、今日はやりたいことがあって、色々買ってきたのだ。バケツアイスに見たかったSF映画、それとサスペンスもの。君と一緒に、休日を」
 理想の、休日デート。そう言えばいいのだろうか。楽しいことが好きなクラウスは、やってみたいことを盛り沢山この部屋に持って来たようだ。鬼の居ぬ間に、なんて言えば人聞きが悪いが、生来わりとおおざっぱな面があるクラウスは、少しだけ羽を伸ばしたいのかも知れない。「ギルベルトさんに怒られるぞ」と苦笑すれば、そ、っと人差し指をスティーブンの唇に、ぶに、と押し付ける。
 しー、っとまるで幼い子供に秘密を託すようにして、首を傾げた。
「恋人の君は、私には優しくないのかね?」
 なんて言われた日には、甘やかすしかない。スティーブンは、ひとくちふたくち、さんくちで、あっという間にサンドイッチを飲み込むと、クラウスの手首を取り、「クラウス!」と呼びつけた。驚いたクラウスは赤い睫毛をぱちくりとけぶらせて、こちらを見つめる。
「ご飯食べたら、一度ベッドに行こう。そのあとは、アイスでも映画でも、お風呂でもなんでもしよう!」
 もうだめだ。この可愛い男を今すぐ貪りつくしたい、スティーブンは自然と荒くなる息と、あんまりなクラウスの態度にこうふんした。叫ぶような願いに、クラウスは、ふわりと笑みを作り、そして少しだけ目許を赤く染めると、小さく「Ja」と頷く。
 そのまま頷いた瞬間に、唇をかすめ取って、スティーブンは幸福にまみれた。かわいい、かわいい。それしか頭に浮かばない。俺のクラウス、愛してる。その思いをありったけにのせて、柔らかく厚めの唇を塞いだ。
 部屋の中は、ブランチの香りが漂って、隣にはクラウスが。外は相変わらずの霧模様だが、スティーブンの心の中は晴天だ。くちびるを離す頃、クラウスはとろとろとした、金緑色を目を細め、ゆるりと笑っていた。
 しあわせが胸を塞ぐ。くらうす、と呼べることが心底、嬉しくてたまらない。ハニーマスタードのキスを気に入ったのか、今度はクラウスから、キスが降る。
「すき」
 スティーブン、と柔らかなテノールの告白にぎゅっと抱きしめたのだった。