君と私の食物連鎖。


「ギルベルト、今日は私が食事を」
 主人であるクラウスがキッチンに立つことは少ない。そもそも、立つ必要などない。ナニーや給仕女たちの仕事を奪うことになるのは、主人としてあってはならないことだ。そして、此処ヘルサレムズロットにおけるクラウスの立場は、ライブラのリーダーであり牙狩りの権位でもあるが、それ以前にラインヘルツ家の三男坊という生粋の貴族であった。連れ立ったのはギルベルト・アルト
シュタインという一人きりの優秀なバトラーであるが、彼の仕事を奪うというのは余り得策なことでは、当然なかった。
 しかし、今夜はクラウスにとって大切な客が訪れる日である。ギルベルトには打ち明けたが、先日クラウスは、とある男と恋仲になった。この巨躯をこの強面をこの不器用さを愛してくれるという稀有な男だ。本人はとても器用で顔もよく世渡りの良い人物だ。女性の影も多かったはずなのに、それでもクラウスが良いのだと熱心に説かれた。ライブラの副官である男、クラウスと昔よりずっといた男。彼に口づけられた唇は熱く、とても魅力的な味がしたのだった。
 その恋人であるスティーブンが、今夜この家を訪れるのだ。食事のセッティングはすべて温室にしよう。柔らかな間接照明だけならば、けして、植物に悪影響はしない。それに、人の声を聞いた方が、植物も明るく咲いてくれるのだから。スティーブンとの甘い話をするには充分な場所であった。
 ギルベルトを下がらせたクラウスは、早速調理に取り掛かる。
 解凍した肉は丸太のように立派な厚みがあり、包丁を丁寧に走らせた。このままステーキにして食べてもいいのだが、それでは少し味気ない。そもそも彼に出す料理なのだから、手の込んだものにしなくてはならない。肉にはソルト、ペッパーで簡単に味付けをし、馴染むように撫でる。それから生臭さを消すために温室のハーブ類を何種類か摘んできたので、それを肉の上に置き、紐で巻き付け、四〇〇度に予熱したオーブンでローストする。
 その間にカンバーランドソースを作るべく、ラズベリー、オレンジジュース、ポート酒を加え、中火で鍋にかける。沸騰するまで、しばらく待つことにしよう。さて、これだけで終わるはずが無い。メインは肉料理だが、サイド料理も作らなくてはならない。
 先ほどの肉を少しだけ切り分けた細い筒部分の中を繰りぬき、フードプロセッサーへ。ミンチにしたならば、マッシュルーム、ほうれん草、それから食感用の軟骨を少々。それらも同じくフードプロセッサーへ掛け、ミンチと混ぜ合わせる。ポケットのように繰りぬいた筒状の肉の中にそれらを詰め、アルミホイルに包み、フライパンで焼いていく。
 サラダは、タマネギ、ニンジンをスライスし、サーモンと併せたマリネだ。
 デザートには、彼の故郷であるスペインの伝統的菓子にしようと、ブラソ・デ・ヒタノを作ってみた。生クリームたっぷりのロールケーキだ。彼のためにと、クリームはコーヒー味にしてある。きっと気に入ってくれるだろう。
 二〇分ほどすれば、オーブンの肉は焼けた。勿論ミディアムレアだ。ハーブを取り除き、十五分ほど寝かせておく。切り分け、ソースを掛ければ、メインは出来上がりだ。
 何か、もう一品作ろうかと、手持ちの材料を見て、美味しい生ハムがあったことを思い出す。ガレットならば簡単に出来る、とオリーブオイルを薄く引いたフライパンに、生地を流し、クレープのように外の皮を作る。中央に卵を落とし目玉焼きを作り、生ハム、チーズ、余ったサーモンを一緒に入れ、包む。完璧だ。
 食卓の準備は出来た。後は、上等な赤ワインでも用意しよう。シラーのボトルを取りに、クラウスは彼が訪れるのを待つのだった。




 夜の帳も落ち、スティーブンは落ち着かない気持ちでクラウスの家のノッカーを叩いた。ゲットーヘイトの中にある高級住宅街の一介にクラウスの家はある。別にそんなところでなくても良かったのに、と彼は言うが恐らく家のものが許さなかったのだろう。不自由な生活など、彼にさせられるわけがないのだ。とはいえ、甘やかすばかりでは無いのも知っている。住居だけが用意され、あとは放り投げられたと言っても過言では無い。
 クラウスが扉を開けるまで、髪型を気にしたりスーツはよれてはいないかと丹念に確認した。内に開いた扉の奥からは、破顔した愛らしい恋人が立っていた。「スティーブン、ようこそ」招き入れられ、そこでクラウスから一つ口付けをもらう。普段はかっちりとウエストコートを着込んだ恋人が、今日は、眩しいほどの白いブラウス一枚に、赤のネクタイ、それから黒のコルセット。そんな彼の腰を抱いて、もう一度顔を手招きすれば、今度はスティーブンから口付けを送った。目を潤ませ、赤くなる顔が愛らしく、食事の前にクラウスを食べてしまいたいという衝動に駆られるほどだった。
「今日は、温室にディナーの準備をしたのだ。君と久しぶりの夜を過ごせることが楽しみで、とても興奮を抑えきれそうにも無く、ずいぶん頑張ったのだ。君の口に合うといいのだが」
「ふふ、僕もとても楽しみにしていたよ。頑張ったってなんだい? 君が料理でもしてくれたのか?」
 そんなまさか、という思いでスティーブンはクラウスに尋ねた。彼は照れくさく笑って、「そのとおりだ」と呟いた。花が綻ぶかのような僥倖だ。クラウスの首をひっぱり、スティーブンは深く唇を重ねる。
「アア! 最高だよクラウス。ディナーよりも君を食べてしまいたいくらいだ。この幸せを、ベッドの中でたくさん聞いてくれ。風呂も一緒に入ろう。くまなく、余すところなく洗ってあげるから、ね?」
 恥ずかしそうにして俯き、しかし、クラウスはしっかりと頷いた。指を絡めて手を繋ぎ、クラウスはスティーブンを温室へと招く。電式のキャンドルが設置され、温室は色めいていた。
 テーブルに用意されたボトルと、グラス、ナイフ。まだ食事は、並べられていない。「君が来てから運ぼうと思って」クラウスはスティーブンをエスコートし、席で待つようにと微笑みを投げかけた。恋人のサプライズに浮足立つスティーブンは、そわそわとした気分を抑えられそうにない。今夜はとびきり甘やかしてやるのだ。彼の肌のすべてに唇で触れてやろう。彼が嫌だと言っても、けしてやめてなどやらないのだ。こんなに幸せにさせて、どうする気でいるのだろうか。
 今夜のとろけるような夜のことを考え、スティーブンが待っていると、クラウスは三段式のカートに乗せて、料理を運んできた。サラダ、メイン、オードブル。デザートはまだ冷蔵庫の中だと、教えられた。淡い灯の許では、彼の碧玉がたまらなくうつくしいものだった。
「今日のメインは肉料理だ。それに合うように、赤のシラーを用意した。マッシュルームとほうれん草の肉詰めに、ガレット、サラダはマリネにしてみた。スープは忘れていて、簡単にオニオンスープにしてしまった。すまない、今度はきちんとしたものをつくろう」
 並べられた料理の多さと、完璧な様子にスティーブンは感嘆の声を漏らす。「アア、君!」思わず顔を覆って、指の隙間からクラウスを覗き見た。
「最高だ。完璧だ。なァ、今すぐ僕のお嫁さんになってくれよ。僕のためにご飯を作ってほしい」
「す、スティーブンッ。そ、その気持ちはとても嬉しいのだが、今すぐとは、その、指輪も用意しなければ……」
 顔を真っ赤にさせたクラウスは否定もせず、寧ろ肯定的な答えを寄越したので、スティーブンは今夜はもう眠らせてなどやらないと決意する。もう一度だけ、立っている彼を抱きしめキスをした。クラウスもまた、ゆっくりと背に腕を回して、抱きしめ返してくれたので、ひどく幸せである。互いに席に着き、二人で食事を始めるころには、すっかり幸福さが二人の間にあったのだった。