可愛くないと、駄目かしら。





 ブラウン管のテレビでは、古い映画がやっていた。
 タイトルは知らないが、コルセットやクリノリンといった大層なドレスをめかし込んだ女と、貧困層の男の話だった。少なくともロミオとジュリエットなんていう、馬鹿げた悲劇の恋愛ものでは無かったし、特に興味が沸くドラマでも無かったけれども、見るともなしにぼんやりと眺めていた。
 右端には黒丸が点滅し、画面には古い画像特有の縦線が幾つも入っている。とても見易い画面では無かったけれど、二人のいまの空間には適していた。照明は付いていない。酒瓶を空けて、二本目。つまみはもう尽きてしまっていて、キスをしてベッドに行きたいと思う夜でも無かった。ただ、ひたすらにこの密やかな空気の中を何をするでもなく、ふたりはぼんやりと現をぬかし、そうしてただ互いの呼吸を愛していた。
 酩酊していた。クラウスは既に酒気にやられたのか、それとも気が緩んでいたのか。うとうとと、スティーブンの肩口に頭を預けている。モノクロの画面がチカチカとするたびに、彼の白い肌を余計に際立たせていた。彼も、スティーブンもまた、映画を見ているのか、眺めているのか分からない。けれど、ふたりでいることに意義があった。
 画面は相変わらず濃淡の濃い画面で、暗くなればひとたび仔細は明確ではない。けれども、女のくちびるや、髪の色、ドレスの色はなぜだか赤色だと思った。隣にいるのがクラウスだから、だろうか。目を見張るような、燃える赤。どうやら画面の中では、女が傲慢を振りかざしているシーンだった。いや、自分に自信があるから言える言葉だろう。
 モノクロの、それでもスティーブンには真っ赤に見える唇が、口角を上げて男に告げる。
『美人で何が悪いの? ――』
「スティーブン」
 傲慢なお嬢様の台詞は、途中で掻き消える。そもそも、真面目に見ていたわけではなかったので、女の声よりももっとずっと大事な声が隣からすれば、意識がそちらに向くのは必然であった。
 春の海の微睡みを集めたような、とろとろとした碧がスティーブンを見ている。眠たいのだろう、彼の顔はいつもより幾分も幼かった。「どうした」額に柔らかく唇を寄せてやりながら尋ねると、彼はねむい、と一言吐き出した。なんとも簡素な要望だった。チェーホフの作品じゃないのだから、誰も咎めはしないと言うのに、スティーブンに許可を求めねばならないと考えているのは、実に愛らしいと思う。
 それとも、スティーブンと眠りたいとでも思っているのだろうか。どちらにせよ、クラウスが愛しくてたまらないという想いを抱かせたことには間違いなかった。
 クラウス、とスティーブンが蜂蜜を垂らすかの如く、名前を呼んだ。
「ねむいの?」
「……ああ」
 いつもはずっと確かなクラウスの声は、今は溶けている。まるで水あめのようにどろりとして、そしてなんとも甘美だった。ベッドの隙間に連れ込んでしまいたくなるような声音だったけれども、今夜はそんな雰囲気は疾うに消えていた。スティーブンは、口角が自ずと上がっていくのが分かり、そっと髪を撫でてやる。
 「クラウス」砂糖菓子のように甘い声で以て耳元に声を落とす。むずがる赤ん坊のように、クラウスは胸元に擦り寄り、まるで飼い猫のきまぐれみたいに喉を鳴らした。
「ここで、ねむっても……?」
「ベッドに行く気力も無いのかい? 明日の朝、文句を言わないのならいいよ」
「いわない……」
 既に眠りの淵へと足を掛けていた彼は、スティーブンの許しに、すよすよと寝息を立て始める。画面は既にベッドシーンになっていた。ドレスの女を剥いだ男が馬乗りになって、女を追い立てていた。喘ぐ声が聞こえ始めるころ、電源を落とし、そっとクラウスの身体を横たえてやりながら、自分もまた静かに目を閉じたのだった。




◆ ◆




 レオナルドの上司は、基本的に頼りになる。そして、恐らくどこの現場の上司よりもずっと面倒見がよく、けして見放したりしないという出来る部類の上司だ。ライブラに来て、命の危険は上がったが、人間関係に置いては概ね悪くは無かった。何よりライブラの面々はとても仲が良い、というのがレオナルドの見解だったのだが。
 ――半径一メートル。
 現在レオナルドの周囲はブリザードが吹き荒れていた。これは、けして比喩じゃない。目の前ではシベリア寒気団も真っ青のブリザードである。氷使いの美丈夫が足許から噴き出すアイスダストは尋常では無いほど寒かった。
 対して、特に属性の乗っていない方の上司は、熱気だけでその吹雪を溶かしている。いや、どうやってんだよそれ、と思わずレオナルドが突っ込みを入れたくなるが、すべて「クラウス・V・ラインヘルツだから」で片付いてしまうのが恐ろしいところである。
「なんでこんなことになってんスか〜!」
 ソファーを盾に、レオナルドは鼻声で訴えた。既にもう泣いている。事務所はレオナルドにとって憩いの場でもあった。第一はハンバーガーが美味いダイナーだ。隣にいるザップも自分を抱きしめるようにして身を縮ませている。「知るかよ!」震える声で叱咤が飛んだ。
「なんで、旦那も番頭もあんな怒ってんのか俺にもわっかんねーよ!」
「アンタがなんかしたんじゃないんスか?! スティーブンさんめっちゃ怒らせたとか?! クラウスさんにすごい迷惑掛けたとか?!」
「ンなわけねェだろ! おまえ、いい加減しろよ!? なんでもかんでも俺のせいにしてっと、後で泣かすかんな!」
 ギャーギャーとソファーの隅で罵り合っていると、こつん、とこの喧騒の中ものともしない優雅な足音がした。見上げると、クラウスの執事であるギルベルトが立っていた。「温かい飲み物をお持ちしました」いつもと変わらない声、動作で二人に湯気の立った飲み物を差し出す。
 あざっす、と二人して受け取るも、絆され掛けたところで「ちがーう!」と叫んだ。勢いよく立ったせいで、マグカップの中身がザップに掛かり、隣でのたうち転がっている。
「いや!? 飲み物とかの場合じゃないですよ、ギルベルトさん! 二人ともどうされたんですか?!」
「喧嘩、だそうです」
「は?」
 熱さに顔を抑えたザップと、レオナルドは二人して同じように間抜けな表情で、声を上げた。
 喧嘩?
 いや、意味が分からない。喧嘩に血法使うってどんだけ迷惑なんだ。レオナルドはそう思ったが、口には出さなかった。なぜなら彼は、賢明であったし、口が災いの素であることをよく知っていたからだ。「けんか」力なく項垂れる。原因を聞いてもいいのかと、ギルベルトを見るも、彼は意味深な表情で笑みを浮かべているのみだった。
「君には愛想が尽きた!」
「こっちこそ、お前なんて願い下げだ!」
 乱暴な物言いは、互いに珍しいものだ。スティーブンもクラウスも、声を荒げることは、非常に少ない。そもそも、スティーブンがクラウスに乱暴な物言いをすること自体も珍しい。
 そろりとソファーの背もたれから顔を覗かせると、両者一歩も引かずにらみ合いの強硬状態だ。レオナルドは、止めるべきだろうかと、ギルベルトを煽り見るも、やはり彼は笑みを崩すことは無かった。
「お前とは別れる! もう知らないからな!」
「……ああ、いいだろう! 私も君のような恋人は不要だ!」
 その時の衝撃は、いかほどだっただろうか。レオナルドは、まるでブリキの人形のようにギギギと首を動かした。「え?」隣のザップも見たこともない顔で、いや寧ろ崩壊した表情で、上司ふたりをながめた。
「付き合って、たの?」
 喧嘩よりもなによりも、二人が恋人だという事実に驚きを隠せない。「おやおや」とギルベルトが困ってもいないだろうに困った声を上げていた。
 本日より、事務所は絶対零度と化したのであった。




 スティーブンが事務所を荒々しく後にし、乱暴に「ザップ!」と呼びつけられたためレオナルドは嘗てないほど、彼を憐れんだ。死んだ魚の目と青白い顔を晒しながら後を追った彼は、きっと例がないほどにやつあたりされることだろう。特になにも出来ないが、夕飯くらいは奢ってもいいかも知れない。
 とはいえ、クラウスと二人残されたレオナルドもまた胃が痛い思いだった。こんなに怒れる彼を見ることは稀である。いや、そもそもみたことが無い。
 レオナルドが知る限りにおいて、クラウス・V・ラインヘルツとは、実に温厚な人間であったからだ。草花を愛し、人々を愛し、世界を守る。そして、いつでも穏やかであり、敵対すれば恐ろしいほどの怒気を身に纏う。それでも、絶対的な安心感のある。それが、クラウスであった。
 けれども今のクラウスは、どこかピリピリとしていて、少し肌がざわつく。話掛けると取って食い殺されそうな、そんな気がした。
「坊ちゃま」 
 不意にギルベルトが、クラウスの前へ紅茶を置く。「レオナルドさんがお困りですよ」いくらか諌めも入っているのだろう。常よりきつい口調に、クラウスがはた、と肩を竦ませた。
「……ああ、済まない。レオナルドくん」
 ふ、と空気が緩和される。レオナルドはいつの間にか緊張していた糸をほどき、深く息を整えた。「あ、の」デスクの傍までいくと、重い前髪に隠れた碧い目は穏やかにレオナルドを映す。
「何が、あったんですか?」
 「あっ、いや言えないことならいいんですけど」と、慌てて付け加えた。クラウスは苦く笑って、くだらないことだ、と言った。
 くだらないことで、事務所が半壊するかもしれないほど怒りあってたのか、とレオナルドはぞっとするけれども当の本人はそのあたりは問題ではないようだった。
「朝、彼が女性と関係を持つと言ったので、じゃあ私もしばらくはスポンサーと関係を持つと話をしたのだが」
「は、えっ、えっ?」
 ずいぶん軽く言われたが、ぜんぜん軽くない話題だった。というか、レオナルドではこの話題は役不足でしかない。こういう話題に明るいのは間違いなく、今し方スティーブンへとドナドナされて行ったザップの方である。
 とはいえ、いくら恋愛や男女の仲に疎いレオナルドでも、今の発言は浮気をするという堂々とした宣言ではないだろうか。しかも互いに。
 そもそも、スティーブンがハニートラップを仕掛けているというのは周知の事実だ。その整った顔立ちと、甘い声で情報源を引っ張り上げている。レオナルドには逆立ちしても出来そうにないやり方だ。そしてそれは存分にライブラ、ひいてはクラウスの役に立っていることを知っていた。
「えーっと、その、それはどういう意味で取ったらいいんですかね」
 困ったレオナルドは、堂々とした浮気宣言をクラウスに尋ねると、デスクに肘をつき手を握ると、そうだな、と思案した。
「彼は、どうしても情報に必要な女性がいたため、その女性と関係を持ちたいと私に言ってきたのだ。しかし、私はその間、自分が放って置かれるのが好きでは無いので、では私も彼が情報を手に入れる間は、スポンサーの方々の恋人になろうかと思って」
「は、はぁ……」
 付いていけない。
 いや、そもそも彼らは、恋人同士ではないのだろうか。世間一般では、数多に恋愛を投げかけるのは余り許されてはいないと思うのだが。いや、勿論一夫多妻は存在するし、クラウスもスティーブンも互いにそれで良いならば、レオナルドが立ちいる問題ではけしてない。
 けれども、それで喧嘩しているのであれば、問題なのではないだろうか。
「……あのクラウスさん。つかぬところを伺いますけど、スティーブンさんとお付き合いされてるんスよね?」
「ああ。かれこれ、二年ほどだろうか?」
「結構長いですね。……で、そのスティーブンさんが浮気をするっていう宣言をしたからクラウスさんも意趣返しに浮気してやるーって言ったら喧嘩になったっていう解釈ですか?」
「浮気?」
 きょとん、と首を傾げたクラウスに、おや、とレオナルドも首を傾げる。「いや、だって」関係を持つということは、夜のあれやこれやを含むお付き合いをするということだ。レオナルドの認識はそうだった。それとも、二人の間ではまた違った意味合いになるのだろうか。
「スティーブンさんが、女性と関係を持たれるんですよね?」
「そうだ。仕事上なので、仕方が無いと理解している。けれど、その間、私との付き合いも蔑ろにされることがあるので、今回は私もスポンサーと関係を持とうかと思ったのだ」
「あ、え、っとその、クラウスさん。スティーブンさんが、その女の人とキスとかその先とかしても許可しちゃってるんスか……?」
「ああ」
「で、今回は、クラウスさんもスポンサーの女性の方々とスティーブンさんと同じようなことを……?」
 頭が痛くなってきて、レオナルドは目頭を押さえながら尋ねた。もしかして、ライブラの人々は貞操観念が緩いのか。それとも自分が間違っているのだろうか。少しも臆する様子も、悪びれた様子もないクラウスを見ていると、自分の常識が誤っているような気すらした。
 クラウスは、安楽椅子をギイ、と鳴らし背もたれに深く腰掛けると、そうだな、とひとつ相槌を返す。
「私はどちらかと言えば男性に人気があるので、彼らと話をしたりゲームをしたり、食事をする程度だろうか。親愛のキスを頬に受けることはあるが、唇はスティーブンだけに」
 なぜだろう。惚気られた気がする。
「そもそも、私が相手をするスポンサーの方々はわりと御年を召されている老獪な方々ばかりでね。彼らと話をしたり庭で一緒に草木を嗜むと心が和らぐので、彼が女性と関係を持っている間は、そうしていたいだけなのだ」
 はた、とレオナルドは首を傾げる。なぜだろうか、その言葉を額面通り受け取ると、彼は嫌なのではないだろうか。だから、違う人へ逃げているだけに思えたからだ。
「あの、クラウスさん」
「なんだろうか?」
「もしかして、なんですけど。スティーブンさんがハニートラップ使われるの、嫌いなんですか?」
「……そう、なんだろうか?」
 そうなのかも知れない。クラウスはここにきて、ようやく自覚したらしかった。




◆◆




 ひとつきが経とうとしていた。
 が、二人の喧嘩は一向に改善される様子もない。加えて、スティーブンは本当にクラウスと別れた気でいるらしく、ある特定の女性と付き合っているのではないかと、ザップからの言葉だった。
 それがハニートラップの相手なのか、はたまた本気なのかは分からないが、それによってどんどんクラウスが落ち込んでいるのは目に見えて分かっていたが、原因であるスティーブンが事務所に寄りつかなくなってしまったため、解決策は無い。
 クラウスもまた、逃避するかのように彼曰く複数の恋人ごっこに興じているようだった。スポンサーと会う機会も増え、ますます二人はすれ違いを送っている。
 今日もまたクラウスは余り浮かない表情をしていたので、レオナルドは気分転換にとでも、新しく出来たドーナツの店へと誘ったのだった。
 ヘルサレムズロットの喧騒は、相変わらず慌ただしい。ドーナツ店に行くまでに銃弾が数発掠めたし、火事には二件も遭遇した。しかしこんなこと日常茶飯事で、加えて本日はクラウスがいるので、レオナルドは特に危険な目に合うこともなく、無事にドーナツを買えたのである。
「美味しそうですね〜。クランベリー味のドーナツってどんな味がするんでしょうかね。あとカシューナッツのクリームも良さそうですよね。そういえば、今回出たもちもち食感のも楽しみですね。……ってクラウスさん?」
 返事の無いクラウスを振り返ると、足を止めどこかを見つめていた。視線の先を辿り、あ、とレオナルドは口の中でこぼす。中央道路を挟んだ向かい側の歩道に、見慣れた人物が立っていた。
 スティーブン・A・スターフェイズ。
 最近めっきり、姿を見せなくなってしまった彼が、今はブロンドの髪の、ひと目にうつくしい女性と仲睦まじく歩いていたからだ。
 「クラウスさん」小声で呼びかけると、彼は少しだけ悲しそうな表情を作って、それから不器用に笑みを浮かべた。
「……どうやら、本当に愛想を尽かされたみたいだ」
「そんな」
 しかし、レオナルドに掛ける言葉は見つからず、再び先を歩きだしたクラウスの後を追いかけるしかなかった。



 事務所に戻り、レオナルドはドーナツをギルベルトに預けた。クラウスは事務所に一度顔を出したあと温室へと向かってしまったためここにはいない。本格的に拗れてきた、とレオナルドは思ったし、喧嘩の原因としては、クラウスが素直では無かったせいではないか、と彼が自責に追われていることも知っていた。とはいえ、これはどちらも悪いと思うのだ。喧嘩両成敗というやつだと勝手に考えている。
 何にせよ、一度二人は話し合うべきではないだろうか。しかしながら、レオナルドがこれ以上口を出すのも憚られた。
 けれども、できれば、彼らが仲の良いライブラの事務所の方がいい。ふたりが笑っているのが一番良いと思えたからだ。
「レオナルドさん」
 紅茶の香ばしい匂いと、穏やかな声に顔を上げるとお茶の準備をしてきたギルベルトが立っていた。ドーナツはカシューナッツのものが添えてある。
「あ、ありがとうございます」
「余り、お二方のことは考えなくてもよろしいですよ」
 まるで見透かしたかのように、年長者の助言であった。「……そうですかね」ドーナツは甘たるく舌先に広がる。まぶしてあるシュガーコートで口の周りを白くさせながら、レオナルドはもぐもぐと口を動かした。
「そうです。まぁ、今回は少し気掛かりですが、お二方ともいい大人なので。そのうち、どうにかなりますよ」
 はぁ、と力の抜けた返答をするしかレオナルドには出来ず、結局そのまま一日は終わり、事務所はクラウスだけとなった。
 誰もいない事務所にひとり、クラウスはぼんやりとデスクに腰かけ、チェスの駒を弄っていた。スティーブンとしばらくチェスもしていない。このライブラで相手になるのは、彼くらいだ。プロスフェアーにおいては彼は覚える気が無いのか、あまりよく取り合ってはくれないけれど、それを無理やり覚えさせたのもクラウスだった。
 昼間、彼と女性が歩いていたのを思い出す。
 きっと、あの方がいいのだろう。クラウスとこの二年付き合って、彼と釣りあっていると思ったためしがない。社交的で、気が利いて、それでいてクラウスの我儘にも笑顔で付き合ってくれる。
 だから、あの日、スティーブンに反抗するような口ぶりを利いたのだ。
 放って置かれるのはいやだから。また、自分の我儘を吐けば彼はやめてくれるかと思っていた罰だろうか。
 クラウスは自嘲し、黒のナイトを握りしめた。ノックも無く、事務所の扉が開くと久方ぶりに顔を出したのはスティーブンだった。驚いた顔をしたのは互いで、スティーブンは苦い顔をしてそそくさと自分のデスクに向かった。
「こんな時間に、なにか?」
「……書類をいくつか取りに来ただけだ。すぐ帰るさ」
 素っ気ない言葉にクラウスは、きゅう、と胸が痛くなった。目も合わせてくれないのか、と悲しくなる。彼が逃げるようにして、去ろうとするのを慌てて追いかけた。
 掴んだ腕に胡乱気な視線が這わされ、クラウスは唇を噛む。「なんだ」見上げてくる、どろりとした赤銅色の目が恐ろしいくらいに冷たかった。
「離せよ」
 スティーブンの技のように冷気を帯びた言葉が、クラウスの胸に刺さる。舌の根が震え、上手く口に出来ない。それでも、何か言わなければと、クラウスは口を開いた。
「スティーブン、その」
「なに」
 頭が上手く働かない。賢明な知識も、蓄積された認識も、何も役には立たない。スティーブンを引き留めるための言葉が見つからなかった。
 何も話さないクラウスに焦れたのか、スティーブンは力任せに腕を引き抜こうとして動かすも、クラウスは彼を逃すわけにはいかず、勢いのままスティーブンを床へと押し倒した。
 腰をしたたかに打ったのだろう彼は、顔をしかめて痛い、と呻いている。
「なにすんだっ……よ……」
 スティーブンの怒気は最後まで続かなかった。
 なにせ、クラウスが酷い顔をしてみていたからだ。迷子の子供のように、道を知らない幼子のように。母親を見つけられず、途方に暮れた、そんな顔をしていた。
「……私は、君に似合わないのも分かってる。君より体格もいいし、顔だって怖い。話題作りも下手で、君の感情のひとつにだって気付けない。君が嫌だと思っていることも、私は平然としてしまう。だから、君にはきっと可愛い女性の方がお似合いだと分かっているのに」
 目の淵に涙がたまっていた。緑色の目がとっぷりと揺れている。クラウスはどこか、諦めたような顔に、空気の抜けるような笑声を漏らした。自嘲だったのだろう。なにせ、次の言葉はクラウスには似合わない台詞だったからだ。

「可愛くないと、駄目かしら」

 下手くそな笑顔と、緑色の目からぼたぼたと水が落ちてくる。押し倒された床の上で背にはひんやりとコンクリートの冷たさが這った。どこで、そんな言葉を覚えてきたのかと思ったが、少し前に一緒に見た映画でそんな台詞をヒロインが吐いていた。彼の生白い頬を抱いて、唇を歪めた。
「ごめん」
 ひどい言葉を言った。彼の我侭や、自分勝手な様などいつものことだった。それを補える人間でなければならないと思っていたはずなのに。自分の気持ちなど二の次で動け、それが彼と付き合う時の鉄則だった。
「お前がいちばんかわいいよ、クラウス」
 嘘でも冗談でもない、本心だった。

 涙に濡れた碧い目に唇を寄せ、スティーブンはゆっくりとクラウスの身体を抱きしめたのだった。