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「番頭の好みって、ブロンドの女っすか?」
 ライブラ本部にあるバルコニーにて、唐突にザップが尋ねてきた。大勢のいる場では、あまり下世話なことを話題に上げないきらいがあるスティーブンは、二人きりならば容易に答えてくれることをザップは知っていた。勿論だが、スティーブン自身に不利になることはけして話さないが、それ以外であれば我らライブラのリーダーたるクラウス・V・ラインヘルツなどより、よほど「育ちのいい」会話をしてくれるのだ。
「ブロンドに別にこだわってはいないぞ。ブルネットの髪の好きだ。なんだ、突然」
「いや、なんか毎回連れてる女がブロンドだなァ、とか思って」
「たまたま、だろ」
 煙を外に逃がしながら、ザップはもう一口、葉巻を口に含む。粗悪品ではないだろうが、フレーバーの甘ったるい香りがした。下手な香水より香る気がしている。スティーブンはそれを横目に、JPSのボックスを叩く。ザップと二人でいる時ならば、スティーブンも容易に煙草を口に出来た。
 別段、ライブラ事務所が禁煙を推奨しているわけでもなく、はたまたリーダーたるクラウスも嫌煙家ではない。多少、紅茶の匂いに混じることや植物に影響がよくないことを憂いていたりもするが、その程度であり、特別咎められることもしない。ただ、なんとなく、クラウスの傍で吸うことに気が咎めたのだ。
 白煙の先がくるくると曇り空に吸い込まれる。相変わらずこの街、ヘルサレムズ・ロッドは深い霧に沈んでいる。太陽が恋しいと感じることはなくなったが、時々は欲したいようなそんな気にもなる。ロンドンの憂鬱な霧でなくて良かった。ああなってしまったら、ビヨンドの奴らなんて善悪関係なく氷漬けにするところだ。エルム街の悪夢だって真っ青の出来事に違いない。
「どんな女が好きなんすか」
「なんだ、やけに食いつくな……。どんな女と言われても、そうだな、頭がいい子は好きだよ。美人であれば申し分ないけれど、女性はどれもすべがらくうつくしいと思っているからな。――ああ、ひとつだけ条件があるならば、ウエストのうつくしい人だろうか」
「ウエストっすか」
「ああ、そうだ。こう上体から流れるようなフォルムが好きなんだよ」
 煙草で、空に図を描いてみせるとザップが、口笛を吹いた。「抱きやすそうな女」にやにやと口端を上げ、スティーブンを見上げた。確かに引っ掴んで腰を振るには充分な細さを要していた。
 けれど何も細い女が好きなわけではない。そこそこ、肉が付いていて指に沈む感じがたまらないような、そんな女がいい。太腿に関してもそうだ。自分の冷めた指がきゅっと肉にうずまるようなそんな感覚が、好きだ。ザップに言うこともなく、ひとりごちる。
 「番頭って、」ザップが言いよどんだ。視線をやると、困惑したような顔をしている。ザップは馬鹿だが、けして頭の悪い馬鹿では無い。勉学も戦闘も、この男は感覚で察知するのだ。誰よりも容易く、把握し、自分自身の能力を過信もせず、出来る範囲で応用をきかせる。そして、空気を読むのも上手な男だと、スティーブンは評価していた。
「なんだ、ザップ」
「……番頭は、気付いてるんですか」
 言いにくいことを尋ねている自覚があるのか。ザップは何度も葉巻を口にした。「……旦那ってさ」決まってこういうときの話題がクラウスだということを、スティーブンは知っていた。
 なにせ、スティーブンの琴線だからだ。ライブラのため、ひいてはクラウスのため。クラウスの障害になるならば、仲間だとて容赦などするつもりはない。それをザップは知っている。あと分かっているのは、老獪のコンバットバトラーと、腐れ縁のワンアイドの美女だけである。
「クラウスがなんだ」
「……旦那って病気?」
 直球すぎる台詞は、散々悩んだ結果だろうか。ごまかし、遠まわしにしても意味が無いと悟った結果に違いない。ザップの銀糸を風が攫う。ぎゃあぎゃあと異界の鳥が喧しく鳴いていた。
「なんでそう思った」
 スティーブンの冷めた声が、まるで技の発動時のように、温度がなくなる。ザップの瞳が細くなり、キン、と愛用のジッポを鳴らした。答える声はなく、何度が言葉を紡ごうと口が開くのを確認したが、声は無かった。きっと、スティーブンとて上手く問うことはできるわけではないだろう。
 だから、スティーブンは、代わりに聞きたいことを答えた。
「あんな大けがをしたのに、何も感じず病院に運ばれた。その直前まで、骨が折れようと頭が割れようと、ブラッドブリード目掛け拳を奮っていたクラウスを――お前は恐ろしくなったんだろ?」
「……っす」
 短い返事が、ザップのすべてだった。スティーブンとて、恐ろしいと思う。クラウスという男のその体現が。
 ライブラの事務所は今や閑散としている。だから、事務所で吸ってもよかったのだろうが、習慣は抜けないものだ。
 事務所に必ずいるはずのギルベルトも、クラウスの姿も今はない。クラウスは未だ病床に就き、余談を許さない状態である。スティーブンは現状報告をかね、クラウスが寝たきりの病院から一時戻ってきたに過ぎない。現場の混乱は既に解決させた。なにかあれば携帯に連絡が入る以外、今のライブラ本部は機能していない。
「しばらく、クラウスと僕は此処にこない。ザップ、ツェッドとレオナルドを頼む。お前が一番古株だ、様子は見てやってくれよ」
「……あいつらなら、なんとかしますよ」
「それでも、だ。ザップ、分かるか。今、クラウスがいない。レオナルドはきっと不安定だ。いつもみたいに馬鹿して、ふざけてろ。大丈夫だ、クラウスが死ぬはずがない。無いんだからな。――悪いな、ザップ。お前にまで気を遣わせて。雑談なんて性に似合わない真似までさせて」
 女の話がフェイクだということは分かっていた。不自然なほどに唐突だったからだ。ザップは、歳相応に、困惑した拗ねたような顔をして、短く返事をした。子供ではないが、スティーブンからすればずっとずっと幼い。自分の感情を抑えないのは若さだ。こんな本音も吐けない男になどならなくていい。
「じゃあ、な。俺は、病院に戻るよ。あとは、頼んだ」
 ひらひらと手を振り、スティーブンはバルコニーを後にする。その背をザップは、まるで道に迷った子供のように、ひとり途方に暮れたのだった。





◆◇◆




 クラウスの記憶は、白い部屋から始まる。
 天井も床も壁も、そのリノリウムの白さにそっと目を細めたのは、何も眩しかったからではない。上手く、そう、瞬きが出来なかったからだ。どれほど眠りに就いていたのだろうか、目を空けることすら儘ならないほどの体力の疲弊は、無尽蔵と言ってもいいクラウスにしては珍しいことだった。
 なんとか目をこじ開け、辺りを見渡す。首を動かすことも実に億劫だった。病院、だろうか。耳に届くのは機械の規則正しい音、それから何本ものチューブが天井やその機械に繋がっている。さすれば此処はブラッドベリ総合病院であろうか。果たして、何をどうしてこのようにベッドの上で倒れ伏しているのか、思い出すことは実に困難を極めた。ふつりふつり、考えるそばから瞼が落ちる。身体が休息を欲しているのは確かだった。しかし、自分の顛末がどうなったのかを知る必要もあると思えた。
 するすると記憶を辿ってみるも、どのような経緯で、またどんな戦いの末であったのかクラウスは上手く思い出せない。記憶力だけならば、己は自信があるほうだ。なにせ、旧NYの市街地ですら完璧に留めておけるほどには。けれども、クラウスがこうなってしまったという事情は、霞がかっていてちっとも何一つ、手掛かりは出てはこなかった。引出しをこじ開けるように、いくつも時系列を辿ったが中身は空っぽのままだ。
 それにしても、機械音のほかに何も聞こえない。集中治療室にでも入っているのかも知れないが、それでも静かだった。医者の姿も無ければ、こうしてベッドの上に倒れ伏した時、いの一番にそばにいるのはライブラの副官である男の姿も無かった。目を覚ませば、気配を察して「やァ、クラウス」と声を掛けてくれる常なるもので、くわえて言うならば、クラウスの専属であるコンバットバトラーの姿も見当たらない。こういうとき、滅多に側を離れたりしない男だ。副官のスティーブン、もしくはバトラーのギルベルト。必ずどちらかがそばに付いていた。
 そこで、クラウスはようやく動き始めた脳内で、はっとした。
 自分がこうして重傷の目に合っているのだ。もしや、他のライブラのメンバーはもっとひどい怪我をしているのではないだろうか。そう考えれば、この部屋に誰もいないことに合点が行った。もしかすると、目を覚ましたのは自分が一番先なのかも知れない。そうとなれば、リーダーたるクラウスは、この場で寝ているわけにはいかなかった。
 なんとか無理やりに体を起こそうと奮闘する。まずは上体を。ベッドに腕をついたところで、骨がギシギシといやな音を立てるのを聞いた。けれどもクラウスは気に留めなかった。ギブスで固定された右腕がぼきり、と言ったような気もしたが上体を起こせればそれでいい。
 そしてベッドから降りようと、脚を床に降ろそうとしたところで、クラウスの世界は途端にひっくり返ったのだ。ベッドから転げ落ち、天井が余計に高く見えた。上手く受け身を取れなかったせいで、脳震盪に目の前がひどく揺れている。ぐらぐらとする視界、規則正しかったはずの機械音は異常な音を鳴らし続けていた。
 目が回り、思考も上手く定まらない。それでも皆の心配を考えた。力の無いレオナルドが死んでいたりしないだろうか。ザップやツェッドは、きっと最後まで賭してくれたに違いない。KKは家族に無事に会えただろうか。チェインは無理をしなかっただろうか、己が覚えているので符牒はきっと発動されていないはずだ。――それから、スティーブン。
 恐らく、クラウスがこうなった以上、彼はきっとほかの誰よりも傷ついたに違いない。彼自身の技はとても協力で広範囲かつ遠距離支援にもつながるが、パワーで言えば足りない面も多い。それでもきっとなんとかしたのだろう。いざとなれば自らを犠牲にして盾になるのがスティーブンという男だ。自分以上に傷ついていないことをクラウスは願った。
 けたたましい機械音は未だ頭上にて響いている。クラウスの内臓器官や、酸素量など、色々な面で異常をきたしているせいだと言うのは理解していた。なんとか募る呼吸を整えようとするも、上手くいかない。まだ目の前は回っている。病院特有の金網に覆われた細長い白熱灯が何重にもなり、万華鏡のようにいくつも展開していた。
 これでは、駄目だ。
 自覚はある、けれどもどうしようも無かった。扉の開閉音と叫ぶような女の声がした。それきり、クラウスの意識は潰えた。
 ――皆が無事でありますよう。
 目を閉じる最後まで、クラウスの願いはただそれだけであった。





◆◇◆





 ブラッドベリ総合病院、敏腕の女医は自らを分裂させた小さな体を幾人も活用し、クラウスの治療に当たっていた。その中の一人が、スティーブンと会話をしている。薄い透明なビニールの幕に包まれた奥で、クラウスは、ぐったりとベッドに横たわっていた。
 少し眠気覚ましに、と珈琲を買いに行っていた隙に目を覚ましたらしい。その報告を聞いたとき、しまった、とスティーブンは思った。そして、なぜ傍にいてやらなかったのかとひどく後悔をした。こんなことになるのならば、しっかりと付いていてやるべきだったし、若しくは誰か別の人間を宛がっておくべきだった。目を覚ましたクラウスはきっと困惑しただろう。そして、焦燥したに違いない。存外に脆い心の裡を秘めている巨躯の男は、寂然とした病室に慌てたのは目に見えていた。
その結果が、ベッド上よりの落下。後頭部の出血、右腕はくっ付きかけていたものが再度折れたため、ギブス固定が念入りにされていた。
 今は鎮静剤と抗生物質の入った点滴が、投与されクラウスは深く寝入っている。
 入ってきた際にけたたましい音を立てていた機械の数々と、ベッドの下に転がったクラウスを見た時には血の気が引いた。まさか起き上がって動き出すなどと思ってもいなかったからだ。なにせ、動けるような状態では決してなかったからだ。
 肋三本が折れ、いくつかの内臓器官が出血しており、背骨にもヒビが入っていた。おまけに肩のあたりも折れているはずだ。ほとんどが激痛で動けるはずのない身体にも関わらず、クラウスは動いたのだ。それは果たして精神論だけの話であるのか。彼の気力は人並み以上だとは分かっている。けれど、それだけでこうも動けるものなのだろうか。
 スティーブンはどっと疲弊して、額を手で押さえた。眠気などあっという間に吹き飛んでしまったからだ。この場にいるのがギルベルトで無くてよかったと思う。彼は優秀ではあるが、きっとこんな主人の姿を見つめれば心を痛めるだろう。高齢の彼にこれ以上の負担などさせられはしなかった。ただでさえ、現状を憂いているというのに。かと言ってスティーブンとて、この状態には参っていた。クラウスがかれこれ四日も寝込んだうえ、目覚めてすぐに無茶をし、そして今また眠りに就いている。あまりに横暴だ。目覚めた彼が何を思ったのかは、見当もつかないが、それでもナースコールを押してくれるだけでよかったのだ。なぜ、動こうとしたのか。結局、また彼の回復はまた一歩と、遠ざかる。
 ――この、馬鹿が。
 胸の裡で悪態を吐いた。彼の勇姿はどこまでも美徳だとは思う。自分を顧みず気高く生きようとするそれは、人々を魅了することをスティーブンは理解している。しかし、それらは何も自分自身の身体が死にかけている時にまで発揮するようなものでは決してない。
 薄い膜一枚隔てた向こう側で、酸素マスクをしたクラウスの姿はどこまで弱弱しい生き物に見えた。世界を守ろうとせんその身体は頼りなく、燃え上がる闘志も今はすべて白に包まれている。これではあんまりだ。
「……今は、安定したわ」
 ミス・エステヴェスが静かに言った。カルテの書かれたバインダーを眺め、困った顔をしているのが見てとれた。恐らくスティーブンもまた同じ表情をしていることだろう。
「急に起き上がろうとしたせいで、心拍数の上昇が機械を鳴らしたみたいね。頭を打ったせいで、余計にアドレナリンが活性化したみたい。――そもそも、起き上がる時点で骨を一本また折ったようなんだけど……。ねえ、ミスタ・スターフェイズ、ひとつ聞いても構わないかしら?」
「ええ、どうぞ。ミス・エステヴェス」
「彼、搬送される前もふつうならば激痛で動けもしないような状態だった。――勿論、ミスタ・クラウスが気骨のある人だというのは分かっているし、ほかならぬ丈夫さもあるだろう。けれど、それだけでは解決出来ないような、状態だった。私の言っている意味は、君に理解されるかな?」
「――言いたいことは分かります」
 クラウスを助けたのは、他でもないスティーブンだ。
 激闘を果たしたその右腕が酷い方向に折れ曲がっていたことも、付けていたグローブが血で滲み破れ、白の骨が見えていたほどだった。腹の部分からは骨が飛び出し、背にクラウスをおぶさった時には、それが当たり、スティーブンの肝は冷えた。そもそもクラウスは痛みで倒れたわけでは無い。血法と失血による気絶だった。敵を殲滅した時にはそれがクラウスのものなのか敵の血なのか、分からないほどに赤く染め上げられていたのを思い出すだけでぞっとした。
 ギルベルトの運転する車に運び入れた際、彼には珍しいほど悲痛な顔をしていた。よっぽどのことだ。スティーブンとて、とうとうクラウスが死んでしまうのではないかと絶望したほどだ。ここブラッドベリで、なんとか命が繋がりいささかほっとしていたのだが――。
 そもそも、クラウスが無茶を図ることは数えきれないほどある。いつだったか横腹を食いちぎられ、肉が削げていようとも平気な顔をしていた。血を抑える真似事だけはしていたが、次にはその両の足で立ち上がり力強く敵へと攻撃をしかけていたものである。だから、そう、エステヴェスの言いたいことをスティーブンは嫌というほど分かっていた。
 スティーブンも最初は疑い、そして、クラウス自身に聞いたことがある。ギルベルトの答えも得ているので、間違いなどあるはずもない。
 だから、これは恐らく間違いないのだ。
「クラウスは病気です」
 澱みなく、スティーブンは答えた。
 ワーカーホリックだとかそういう類ではなく、難病指定されている類の病である。クラウス自身、隠すつもりもなかったようで、尋ねた時にはするすると答えてくれたものだ。同時にスティーブンは、クラウスの傍からはけして離れられなくなってしまうのだが、それはそれで心底たまらない幸福でもあった。クラウスをけして見逃さないよう、なるべく連れ添っていたのだが、このざまだ。ギルベルトには、気にするなとは言われたが、スティーブンは自分で自分を許せそうには無かった。
 病気だと言う答えに得心したエステヴェスは、カルテをボールペンの背で撫でながら呪文のように唱えた。
「発汗が異様に少ない。下手をすれば無汗かと思うほどだ、そのためミスタは常に高温状態に保たれる。間違いないよね? ――そう、良かった。逆に過敏症も併発してるでしょう。……ああ、そう、やっぱりね。典型的な無痛症の症例か」
「幼少期は、ふつうだったそうです」
 スティーブンは、それだけ伝えた。エステヴェスは、何か察したのだろう。「そういうこと」と言って、頭を乱暴に掻いた。
 そういうこと、だ。スティーブンも彼自身から病気の話は聞いたもののそれ以上は何もなかった。ただギルベルトは、先天性だとは言わなかった。クラウスも、だ。ということは、これらのことを総括すれば、この病気は、後からきたものとなる。
 なぜ、無痛にならなければならいのか。スティーブンには反吐が出そうな答えだった。
「後天性の無痛症、ね。ラインヘルツ家は、物悲しいものね」
 眼鏡の奥の表情がどうかは分からないが、エステヴェスの声はどこか沈んでいる。スティーブンとて、その話を聞いたとき何と馬鹿げた呪いだろうかとラインヘルツの家系を呪った。しかし、牙狩りに属す能力者たちはどこを含めても恐らくこういったものは付き物なのだろう。現に、スティーブンの技とて制約はある。
 クラウスの無痛病は、ひどいものだ。とはいえ、戦闘でも滅多に怪我を負うことのないクラウスは少々のことで、傷ついたりもしない。グールや通常の化け物であれば、大抵は平気だ。相手を完膚までなきに叩きのめし、自分は無傷ということなど、よくあることだ。
 ――それが、BB戦や十三王となれば、話は別である。
 あれは、通算して四七体目のBB戦であった。



 蝙蝠の群れが街全体の人間から血液を奪い蠢いている。そう連絡を受けたライブラのメンバーが見たものは、HLの街一角がグールに姿を変えた人間どもの有象無象にあふれていた。封鎖体制を敷き、スティーブンとKKはグールを足止めするため、広範囲に技を掛ける。二度目の崩落時にもやってのけた技だったので、発動は容易であった。クラウスは、十字を何本も街の出入り口に落とし、封鎖を手伝いながらブラッド・ハマーの肩に乗り、件の敵へと果敢に向かっていた。レオナルドは地上より、ギルベルトの車で左右に斗流のふたりを連れ、クラウスを追った。
 皆が出来ることをまずはやったのだ。この均衡を守るためには必要なことである。クラウスが叫び十一式が発動したのが見えた。
「三九式、ケイルバリケイド! ……スティーブン!」
 続き、小型の十字剣が降る中、蝙蝠たちがひとつにまとまるのをバリケイドで固める。理にかなったやりかただ。ひとつに合体する瞬間だった。スティーブンもそちらに合流すべく、ビルの縁にまるでジャンプ台のごとく氷を生やし、とびかかる。「クラウス!」スティーブンの叫びに反応したクラウスが、ハマーの肩から飛び上がりスティーブンの前へ躍り出る。
「ランサデルセロアブソルート」
 足許に発生させた氷上の舞台。攻撃だけが、要ではない。足場をつくることとて、容易いものだ。吐息が白く染まる中、クラウスも同様にスティーブンの傍に落ちてくる。
「不安定なダンスホールで悪いな、クラウス」
「君の隣いるのだ。リードは完璧だろう。なにを不安がることが?」
「……君、ホント僕のテンションを上げるのが上手いよね」
 空を浮いて、男なのか女なのか。もしかしたら、そのどちらもかも知れない。異形の性別など分かりはしないが、白髪の長い髪を携え、覗く血のように禍々しい赤を宿したブラッドブリードが、にんまりと笑っていた。
 本当に気味が悪い存在だ。恐怖で背筋が寒くなる気がして、スティーブンは吐き捨てるように「ばけものが」と呟いた。クラウスの眦が細まり、グローブを握る鈍い音が響く。だらりと右を下げ、左で構えるクラウスが、じり、と動く。
 不意に空に赤いひも状のものが舞った。下方にはザップとツェッドが血法を持ちいり空にまるで網を張り廻らしているようだ。どうする気だ。スティーブンが思案した時、不意にザップの視線が訴えていた。技を打て、と。
 自嘲にも似た笑みだ。口角を上げ、思わず口許を抑える。――ああ、本当に。お前らほど僕は天才じゃないんだよ。そう訴えてやりたかったが、恐らく三人はスティーブンの技を期待している。全く見上げた根性じゃないか。
 不確定要素しかないものを信頼だけで信じる、その馬鹿みたいなものをスティーブンが選ぶのだと思っているのだから。それに乗るスティーブンもどうかしている。
「……ああっ、くそっ! どうなっても知らないからな! クラウス、分かってるのか!」
「君なら、大丈夫だ。往け、スティーブン! 遠慮はいらない!」
 クラウスの高揚した声が耳を打った。死闘だというのに、実に楽しそうでたまらないといった顔をしている。こういうところは、クラウスとは絶対に相容れないないだろうと思う。「GO!」とまるで犬のように手綱を離されたスティーブンは不安定な足元を踏み抜き、網状の上にダイアモンドダストを散りばめる。
「デヴィオンデルセロアブソルート!」
 半ばやけくそにスティーブンは叫んだ。網状の上に、氷上のスケートリンクが張られ、クラウスが降り立つ。そんなに厚い氷では無い、降り立てばその場から氷は割れていくことなど、百も承知だろう。けれどクラウスはそのうえを、まるでステップを刻むかのように楽しげに渡っていくのだ。
 戦闘における変革さは、打ち合わせがなければスティーブンとて付いていくのは難しい。スティーブンが間違わないなどと、どうやってクラウスは理解するのだろうか。
 跳ねる氷の音、一歩一歩と近付きクラウスの拳が唸った。ごう、と風が唸る。完全に氷解した空中のリンクから飛び出た赤い線たちが、ブラッドブリードを捉えてみせた。
「しゃ、ら、くせぇっ!」
 絞るようなザップの声、カグツチが炎を巻き上げ、クラウスに火の粉を注ぐ。そんなもの意にも返さず、クラウスは燃え上がるブラッドブリードを地面へと叩きつけた。
 混凝土がめくれあがり、まるで派手な噴水のようだ。瓦礫片が飛び交い、クラウスが着地する位置にはハマーが駆けつけ、手で受け止めていた。
 落ちる瞬間、拳を奮われた相手が爆ぜていたようにも思うが、地上にいたのはそんなもの意にも返していない、異形の姿だった。
『次は、こちらの番だ』
 恐らくそう言ったに違いない。なにせ、言語は聞き取れるものでは無かった。流星のように突進をしたブラッドブリードは、クラウスの前で一瞬にして蝙蝠になり、服の上から肌を切り裂いた。血液が、霧状に吹き上がる。
 クラウスはそんな攻撃を尻目に、吹き出た血液へそのまま叫んだ。「ヴィルベルシュトゥルム!」十字が雨のように降り注ぐ。ぎゃあ、と情けない悲鳴を漏らした異形は、ぎらりと目を光らせ、黒くたなびくマントを刃物状にし、円心で振りぬく。クラウスの腹が裂けた。ぐらりと、傾く身体目掛け、凶悪な手が伸びる。
「クラウス!」
「旦那!」
「クラウスさん!」
 三者三様に叫びを上げたところで、声に反応したそれは車の前には瞬時人体を象った。笑みを浮かべボンネットを蹴り上げると、ひどい音を立てて車が停まる。ギルベルトが運転席のスイッチを押し、ミサイル砲を追尾させたが、意味などなさない。レオナルドを庇うように、斗の二人が躍り出ては矛と刀を構えた。
 二人では、無理だ。
 恐らくそんなこと、スティーブンが考えるよりはるかに対峙している二人の方が理解しているだろう。投擲のように放たれた二人の武器が交差し、溶けるようにして網をはる。「シナトベ!」「カグツチ!」二重属性に阻まれた奴が、怯んだ。――かのように見えた。
 瞬時、己へ放たれた殺意に激昂し、咆哮を上げた奴はマントをまるで形状記憶合金の如くしならせ、円錐の槍が、二人に襲い掛かった。アア、くそ。だから、無理だと思ったんだ。スティーブンが舌打ちをし、間に合うか間に合わないかではない、間に合わせるべく、地を踏み抜く。
「エスクードデルセロアブソルート!」
 氷壁が二人の前に立ちふさがるも、ザップの右足を抉った。慌てて受け止めたツェッドが、横転し車中から零れ落ちる。氷の向こうで嘲る化け物の姿があった。こんなもので勝つつもりか? そう訴えるように瞳が細められる。
 悠々と空に浮かぶ、そいつを叩き落したのは矢張りクラウスだった。筋肉の収縮に筋から血が吹き出ることも構わず飛び上がり、まるでバレーのスマッシュを決めるが如く、振りかぶった拳がかつらを割った。
 着地したクラウスの足は、どこか無様な方を向いているにも関わらず、白のシャツを鮮血に染め上げながら瓦礫の上に君臨する。ああ、これじゃあどちらが化け物なのか。
 目の前に流れる血を豪快にクラウスは拭い去り、口内に混じる血を吐き捨てた。普段とはかけ離れた行動ではあったが、誰もそんなことに気にも留めなかった。
「クラウスさん!」
 レオナルドが叫ぶ。諱名を打ち終えたのだろう。クラウスの携帯から音が鳴った。
 危機を察知した化け物が旋回し、クラウスに突進する。その際、冗談のように首が裂け、長首竜の如く伸びる。
 ――なんだそれは。本当に化け物でしかない。
 ブラッドブリードがどこまで変体できるかなど、詳細なことは何一つ分かっていない。認識としてあるのはただひとつ。死ぬほど強いということだ。
 ぎゃあぎゃあと怪鳥のような鳴き声を上げた奴をクラウスが諱名を述べた。
「……――貴殿を密封する。ブレングリード流九九九式・エーヴィヒカイトゲフェングニス!」
 その足でどう、踏ん張るというのか。しかし、そんなことクラウスは意にも返さなかった。振りかざした拳は、そいつを捉え、胸中で爆ぜる。これで、安心かと思えた瞬間だった。
 最後の足掻きと共に、蝙蝠がまるでブレードか何かになってクラウスの折れた右足を、文字通り吹き飛ばした。
 崩れ落ちるクラウスと封印された十字が落ちるのは同時であった。




 ベッドのふくらみは、その片方の足を残して不自然に凹んでいる。右足は、吹き飛びどうなったのかは見てはいないが、クラウスの近辺には無かった。恐らくクラウスは、この現状を憂うことも無いだろうが、これからいささか困ることになるのは事実だった。
「……まさか筋肉が断裂してるのに動ける人間なんて、いるはずないと思ってたんですけどね」
 上手く笑えただろうか。冗談のようにして傾けた言葉に、スティーブンの舌が震えていないことを望んだ。エステヴィスは、カルテに何か書き込み終えると、分裂した自身を引き連れ病室を離れる。
「もしまたその膜の中に入るようなら、きちんと無菌服を着て。何かあれば、ナースコール押して。すぐに駆けつけるわ」
 その申し出にひらひらと手を振り、スティーブンは言われたように真っ白な無菌服を身にまとい膜の内へと入る。備え付けのパイプ椅子に座り込み、頭を抱えた。
 今後もクラウスは恐らくこういった危機を繰り返す。そのたびに地獄の淵を覗き込んで、皆をひやりとさせるのだ。
 あの戦闘後、クラウスを抱きあげた時、スティーブンは確かに自分の心に針が射抜いた。死ぬかもしれないという恐怖に頭から冷水を浴びたようなそんな恐怖を覚え、手が震えた。クラウス、と力なく呼んだ声が情けないほど枯れていたのだ。
 人類の希望だからとか、そういうものではない。スティーブンはクラウスを愛していた。ずっとずっと愛していた。きっとクラウスも知っている。けれど、二人の関係はこのままでいいのだと、お互いそう思い続け背中を合わせ、肩を並べて歩んできたのだ。
 この距離が愛おしくて、二人きりでいる空間に泣きそうなほど幸福を覚えた。
 なのに、クラウス。君は、俺をひとりにするのか?
 スティーブンは恐ろしかった。怖かった。クラウスのいない世界にひとり放り出された時、果たして自分は自分であるのだろうかと。きっと無理だ。分かっている。
 この手のぬくもりが無ければ、歩んでなどいけないことなど分かっていた。ただ呼吸して、ただ日常の流れるままを死んだように過ごす。それならば清く、いっそう後を追わせて欲しい。クラウスは怒るだろうが、スティーブンはそうしたかった。
 目の前の体はわずか小さくなった気がする。足がなくなったことと、それからもう八日も点滴のみで過ごしたせいだ。食事なんて取ってもいない。クラウスの草臥れた髪に手を当て、静かに梳いてやれば苦痛そうな顔がわずかに、緩んだ気がした。
 君は夢の中でも胃痛を拗らせているんだろうか。
「……悪夢なんて食べてやれれば良いんだけどね」
 生憎スティーブンは獏ではない。けれども、少しでもクラウスの夢が幸せなものに変わればいいと。額にそっと唇を落とし、スティーブンも安堵と疲労に眠気が来る。クラウスの呼吸音、機械の規則的な音。すべてが、メトロノームのようで、瞼が落ちる。ゆるりとクラウスのベッドに頭を預け、目を閉じた。
 目が覚めた時、クラウスも起きていればいい。それだけを希望に。



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