16.鴻雁北

やらかしてしまった。
まったく、新学期早々やらかしてしまった。頭を抱えたくなるとはまさしくこのことだ。考えたってもうどうしようもないことだというのに、しかしどうにかして無かったことにできないかと無駄に頭を回転させてしまうのは、一種の現実逃避だ。けれど、午前中の授業を終えた段階で最早どうでもよくなった、正確には考えることを放棄した。だって、もうどうしようもない。

事の発端は、昨日の夜に五条くんの部屋に泊まったことからだ。元々行くつもりはなかったのだが、なかなか寝付けずに寮の談話室に置かれているDVDでも借りて部屋で見ようかと廊下を歩いていた時に、たまたま任務終わりの五条くんと鉢合わせてしまったのだ。そこから何となくいつもの流れで五条くんの部屋に泊まったのが、朝早めに起きて部屋に戻ろうと廊下に出たところをよりによって新入生に見られてた、きっちり出てくるところから扉を閉めるところまで。まったくもって誤魔化しようのない現場だったと思う。名前の知らない、少し日本人離れした顔立ちの彼は、ひどく不愉快そうに眉間にシワを寄せて私を凝視していた。あの視線にはきっと軽蔑の意も含まれていたと思う。
そんな訳で朝から頭を抱えたくなる思案が発生した訳だが、それをもう考えるのを辞めた。もうどうしよもうない、言い繕うこともできない。
五条くんにも迷惑をかけてしまうかもしれないが、まあ彼のことなのでその事を伝えたところで何も気にしない可能性の方が高い。ていうか、こんなに悩んでいたことすら「バカじゃねぇの」くらい平然と言い放って鼻で笑われそうだ。


「ユイさん」


修練場の隅で、紫檀と共にうたた寝をしていた私に声をかけたのは硝子ちゃんだった。ぼんやりとした頭で彼女を見遣ると、どうやらいつも一緒にいる同期の男2人は不在のようだ。そういや、五条くんが任務と言っていたような気がする。夏油くんと一緒だったのか。
硝子ちゃんは一度微笑んで、私の隣に腰掛けようとする。その瞬間、紫檀は大きな尻尾を動かしてその場所をあけた。


「賢いですね」
「機嫌がいい時はね」
「そしてふわふわ」


座っている紫檀に背中を預ける形で2人並んで日向ぼっこをしている状態になる。毎日がこんなに平穏だったらいいのにな、と心の隅で思いながら空に浮かぶ薄い雲を眺めていると硝子ちゃんが口を開いた。


「ユイさんって、五条と付き合ってるんですか」


あまりに唐突でストレートな言葉に体が強張った。それが何よりの肯定ということはわかっていたが、しかしあんまりにもそんなことを聞かれると思っていなかったので否定する言葉も誤魔化す言葉も何も出なかった。それは多分、朝のショックが尾を引いていたからだ。
というか、付き合ってはいないのでそれはまず否定しなければ、そう思って口を開くが何とも不恰好な声しか出なかった。


「付き合っては、ない…」
「ああ、じゃあセフレってことですか?」


さらに私の思考回路は固まる。そうです、その通りです。と思ったけれど、これは否定するのが正しい選択だろう。この関係のことを勝手に私が他人に言うことは、何というかマナー違反というか、少なくともこの限られた数の人間関係をややこしくするものはなるだけ隠しておいた方が賢明なのは明白だ。そうして、私が言葉を紡ぐ前に重ねるように硝子ちゃんが話し始めた。


「ユイさん、結構朝に部屋帰ってきますよね。今も五条とおんなじシャンプーの匂いがするし」
「…、硝子ちゃん、良く見てるね」


そこまで言われてうまく言い逃れできるほど私は頭良くない。朝、五条くんの部屋のシャワーを借りたのが間違いだった。せめて自室で入ればよかった。そして、ここでうまくかわすことができない自分の頭の悪さが恨めしい。
バツの悪そうな顔をしていると硝子ちゃんはなんてことないように微笑んでいた。


「なんか、ごめん」
「別に私は全然気にしませんよー、面白いし」
「うん、笑ってくれるんならよかった」
「でも、めちゃめちゃ趣味は悪いと思いますけど」


それは多分、私が硝子ちゃんの立場でも思うだろうな。散々、ばかにしてくる後輩とそういう関係になるって普通に考えてありえない。仮に好き、とか好意があればまあそうなっても仕方ないのかもしれないけれど、私の場合はそうじゃないのだから。


「で、なんでそうなったんですか?」
「まあ、あんまり言いたくないけど、提案したのは私からなんだよね」
「え、そうなんですか。意外」
「いや、うん、まあ、そうだよね。これは、本人にも言ってないんだけど…」


そう前置きをして、話し始めると硝子ちゃんは相槌を時折打ちながら話を聞いてくれた。
そもそもの始まりは、およそ1年前の帰省の出来事がきっかけである。私は毎月1回、本家への帰省が義務付けられている。それは入学する際に条件として突きつけられたもので、おそらく高専側にも話を通してあるのだろう。だから外泊届がすぐに受理されてスムーズに帰省させてもらえるようになっている。

いつも通りであれば現況報告と、本家の方で勝手に受けた呪霊討伐なんかをやって1泊して帰るのだが、その時ばかりは様子が違った。帰省時に当主である伯母と一緒に1人の男性がいたのだ。外見で判断する限り30代半ばのその男は、濃紺の着流しを着てニタニタとした笑みを浮かべていた。とても不愉快で同じ席につくことをためらったほどだ。そして、いつも通りに現況報告をしようとした私を遮ったのは伯母だった。
高専卒業後この男と結婚しなさい、ただ一言そう言われた。
最初はあまりその言葉が理解できなかったが、なるほど凋落している仁木家の建て直しのために子供がいるのかと悟った。術式を持っているのは今のところ私だけなので、確率的に私の子供が呪術師になる才があるとの算段だったのだろう。そういう薄汚い考えが透けるようにわかった途端、スーッと頭が冷えていくのがわかった。男が名前を名乗っていたが、覚えていない。多分、遠縁か何かだったと思う。
そして、そのまま病院へと連行されてあれこれと検査を受けさせられた。ただただ胸糞悪かった。勝手に自分の体を内部を見られる不快感、子供ができるかどうか知りたかったんだろう。屈辱的、その一言に尽きる。そして、それはまだ自分にもそんな感情が残っているのかと思うくらいの激情だった。

それから、高専に帰ってきて五条くんにあの提案をした。元々月経不順で低容量ピルはいつも飲んでいたので、避妊についてはあまり心配していなかった。ただ、仁木家に嫌がらせがしたかった。あの男に処女を捧げたくなかったというのもある。五条くんを選んだのは、彼は全てが完璧だったからだ。万が一バレても仁木家が手を出せないような家柄と彼自身の実力、そういう打算的な考えがあった。
私としてはたった1度でよかったのだけれど、なんだかんだ居心地が良くてそのままズルズルと続けてしまっての現状だった。今は別に家への嫌がらせとか思っておらず、ただこの快楽に流されてしまっているだけなのだ。彼の隣は、なぜか落ち着くから。
ひとしきり話終わると、結局私もあの家の連中と同じように良いように他人を使っているだけなのだと思い知って、少し落ち込んだ。


「そういうわけで、五条くんは私に色々付き合ってくれてるだけなんだよね」
「へえ、でもあの五条が許してるってことは、あっちもユイさんと同じこと思ってるかもしれませんね」
「え?」
「居心地、いいんじゃないですか」


そうなのだろうか。だとすれば、それは少し嬉しいことかもしれない。


「私以外に知ってる人います?」
「ううん、硝子ちゃんだけ。でも、今朝1年生の子に部屋から出るところ見られちゃった。なんか、色素の薄い子」
「ああ、七海ですか。あんまり気にしなくていいんじゃないですか。他人に興味なさそうだし、口堅そうだし」
「そうかな、だといいけど」


硝子ちゃんの背後で夕日が沈みそうだ。初めて抱え込んでいた胸の内を吐露したからか、何だかスッキリとした気分だ。そういや、前に五条くんに「何で?」と聞かれた時にそれとなく誤魔化してしまったけど、もし今度機会があれば伝えてみようか。彼はそんなことどうでもいいかもしれないけれど、おそらく私の話に耳は傾けてくれるだろう。そんな気がする。

Lips on you