19.白露
あたえられた任務は、都内の廃ビルに蔓延っている呪霊の討伐だった。事前調査の結果によると2級呪霊が少なくとも2体と3級以下の呪霊が複数体とのことだった。それ以外の詳細は不明、ひとまず呪霊を祓うことを目的とし、もし完遂不可と判断した場合は正確な呪霊数などの調査のみを実施て引くようにと、現場監督の男性に念を押される。
後部座席の隣に腰掛ける七海くんは淡々と返事をして、報告書に目を通している。彼とは初めて一緒に任務に赴くわけだが、以前に五条くんの部屋から出てくるところを見られて以来、一言も話さずに今日を迎えてしまったので非常に気まずい。出発の際に簡易な挨拶と自己紹介をしたが、ひどく素っ気なかった。超ドライでとりつく島もないとはこのことかと思ったくらいだ。もっとも、硝子ちゃんの言うように彼からは一切何かを言ってくるでもなく、いかにも他人に興味ありませんという雰囲気がありありと感じられたので、気にしているだけ杞憂なのかもしれない。
到着した廃ビルは5階建てで見るからに呪霊が蔓延っている、物々しい佇まいだった。複数体いることが私でも感知できるほどだったので、よほどたくさんの呪霊がいるらしい。七海くんも眉間に皺を寄せて不快感を隠さずにいる。
補助監督が帳を下ろしたので、「行こうか」と声をかけると七海くんは一度頷いてくれたので2人でビルの中へと足を踏み入れた。
空気が全体的に澱んでいて、どこか息苦しさが感じられる。すぐそこにいた低級呪霊を薙刀で祓いながら慎重に足を進めていく。全容を正確に把握できていないので、ひとまず階下にいる低級呪霊を祓いつつ5階を目指すことになっていた。万が一、上級の呪霊と遭遇してしまった場合は各踊り場にある窓を突き破って脱出すること。それを伝えると七海くんは「わかりました」と抑揚のない声で返事をした。
2人で行動を共にしながら各部屋の隅々を回っていくが、ビルの敷地面積はさほど広くなかったので1フロアあたり20分くらいで終わっていく。七海くんは呪霊の数に怯むことなく、冷静かつ淡々と鉈を振るいながら一太刀で呪霊を祓っていく。1年生ながらしっかりとしたその姿に感嘆の声が出た。
「2級呪霊いませんね」
「そうだね」
いよいよ最上階のみになったが、ここまで出てきたのは3級以下の低級のみだ。事前調査にあった2級呪霊が一体もいない。何とも言えない不気味な雰囲気に息を呑みながら、最後の階段を登っていく。
最上階は階下と違い、一体も低級呪霊がいなかった。その代わり大きな呪霊の気配が濃くなるので、紫檀を呼び出して気配の元へ行くように促す。
リノリウムの床を歩くと2人分の足音が廊下に反響した。じっとりと汗が背中に滲み出るほど、いわゆる嫌な予感がして悪寒すら感じられる。それは七海くんも同じようで、先ほどよりもずっと険しい表情を浮かべていた。
紫檀が一目散に飛び込んでいった奥の部屋へと向かうと、交戦中なのかガラガラと物が崩れ落ちる音と呪霊の断末魔のようなものが聞こえてきた。突き破られた扉が横たわる入り口から中の様子を覗き見ると、薄暗い部屋の隅で紫檀がしとめた呪霊を捕食していた。おそらく2級だろう。
「この部屋にはもういなさそうだね、別のところへ…」
七海くんにそう話しかけた瞬間、背後からとてつもない気配がしてとっさに振り返る。まずい、初動が遅れた。
次の瞬間、私の視界に入ってきたのは斜め後ろを歩いていた七海くんが弾き飛ばされる姿だった。防御の姿勢をとってはいたが、もろに相手の打撃をくらってまるでおもちゃのようにその体は宙を舞う。
「七海くん!」
私の声に気づいた紫檀が駆け寄り、壁に叩きつけら崩れ落ちた七海くんを守るように覆いかぶさる。ふと視線を向けると、無数の目をもったまるでトカゲのような姿をした巨大な呪霊がこちらを見て高らかに笑っている。そして、視認できなかったがその後ろにもう一体の気配が感じられた。
相手はこちらを侮っているようだったので、ひとまず七海くんの状態を確認しなければ。それに狭い廊下では七海くんを巻きまずに戦える自信がない。そう判断し、紫檀に七海くんを運んでもらい先程の奥の部屋へと向かう。
七海くんは意識はあるようで、痛みに低く呻いている。はっきりとした出血はみられなかったが、もろに打撃をうけた右腕は骨折しているのかもしれない。動かせないようだった。
「七海くん、足は動かせる?」
「…は、い」
背後からゆっくりと床を這ってこちらに近づいてくる気配がある。
おそらく七海くんに攻撃をしかけた呪霊は1級相当で、その後ろにいたのが先程紫檀がしとめた2級と同じものだろう。いま、七海くんは実質戦闘不能な上、あの2体の呪霊を振り払っての脱出も難しいだろう。
七海くんはまだ走れるだろう、ならば私がその隙を作ってあげればきっと彼は逃げられる。呪霊2体を私に引きつけて、その間にー…
そこまで考えて、頭を振った。違う、だめだ、そうじゃない。私が犠牲になるんじゃない、私が祓って2人で帰らなければならない。その方法を考えなくては。
…かなりしんどいけれど、やるしかない。
「…七海くん。万が一、私が動けなくなったり、式神が出せなくなったら補助監督のところまで連れて行ってもらっていいかな」
「仁木さん、」
「大丈夫、死なないよ。祓って一緒に帰ろう」
振り返ると呪霊がこの部屋に入ろうとしているところだった。ずりずりと不愉快な這いずる音が鼓膜に響く。
紫檀を呼び寄せ額に手をかざすと、紫檀の体毛が白から黒へと変化した。そして、そのまま呪霊の元へと勢いよく飛びついて行った。私は横たわる七海くんをかばうようにして立ち、薙刀を構える。
問題ない、勝算はある。
「…紫檀は基本的に打撃しか攻撃の種類がないから、式神としては弱い」
呪霊同士の間をうまく行き来しながら、紫檀は鋭い歯で食らいついていく。時折、相手に薙ぎ払われながらも怯むことはなく、攻撃の手を緩めることもなかった。
瞬間、紫檀の右前足に1級呪霊が噛みつくと同時に私の右腕上腕部から血液が噴き出した。あまりの衝撃に体が傾いて、薙刀を杖のようについてなんとか体勢を保つ。
「仁木さん!」
「…大丈夫。これ、縛りだから」
そう告げると七海くんは驚いたように目を見開いた。出血を少しでも抑えるために、トップスの裾を割いて右腕を圧迫させるように結ぶ。
「紫檀の受けるダメージをすべて私が受け止める代わりに、紫檀のすべての能力を攻撃に全振りする。そういう縛り」
紫檀が躍動するとともに私の体には少しずつ傷が増えていく。血液らしい液体が体中から滴っているのがわかった。
大丈夫、耐えられる。まだ、死ねない。帰らないといけない。脳裏に浮かんだのは、以前死にかけた時に怒ってくれた五条くんの顔だった。
まだ、死ねない。こんなところで、死んでたまるか。
「そして紫檀は、私が受けたダメージの分だけ自身の能力を上げることができる。さらにこの術式開示で能力は底上げされる」
皮膚が裂けていく感覚がする。痛みは当然ないが、衝撃に体が倒れそうになるのをどうにか耐える。目の前では紫檀が1級呪霊の首元に食らいついて、その身を引き裂いていた。紫檀の地を這うような咆哮が小さな部屋に木霊する。
まだ、死にたくない。帰らなくちゃ。ただその想いだけで、気力のみで、私はそこに立っていた。
「七海くん、私のせいでごめんね」
払い終わった後に速攻で高専の医務室に運び込まれた私と七海くんは、あっという間に治療を受けてその日の内には動けるくらいに回復していた。もっとも、私はまたしても出血量が多くてしばらくは安静に過ごすように指示されたけれど。
戦闘後、なんとか意識を保っていられたので負傷していた七海くんの世話になることなく、2人で紫檀に乗って補助監督の元に帰れたのでよかった。
七海くんはなんとも言えない表情で私のベッドのそばにある椅子に腰掛けていた。沈黙が、ただただ気まずい。
「…私が負傷したことは、他の誰でもなく自分の責任だと思っていますので、仁木さんが謝罪する必要はありません」
「そっか、強いね七海くん」
眉間に深いシワを刻んでいる七海くんの口調は厳しいものだった。何を思い詰めているのかわからないが、少し苛立っているようにも見えた。
「なぜ、あんな無茶をしたんですか?想定外の呪霊でした、どうにかして逃げ出そうと考えなかったんですか」
腹の底から絞り出したような声でそういう七海くんの表情はますます険しくなっていた。どうやら指示通り動かなかった私に怒っているのかもしれない。…ううん、これは心配してくれているのだろうか。
「計画通り、できなくてごめんね。でも、言い訳になるけど、勝算はあったんだよ。2級呪霊はフラットな状態の紫檀で難なく祓えてたから、1級さえどうにかできれば大丈夫だと思ったの。1級は七海くんを吹っ飛ばして完全にこちらを侮ってたし、縛りと術式開示の底上げ効果を得た紫檀なら祓えると判断したんだよ。もし重傷の怪我を負っても高専までは近い現場だったから、多少の無茶もできるかなって」
私がそう言うと七海くんは何とも言えない、苦しそうな表情をしていた。きっと、真面目で根が優しい分、私が捨て身のような戦闘をしたことに納得できないんだろう。
「結果論だけど、2人とも無事でよかった。それじゃダメかな?」
「ダメに決まってんだろ、ばーか」
唐突に声がしたかと思うと、無遠慮にベッドを仕切るカーテンが開かれる。そこにいたのはこれまた険しい表情の五条くんだった。
「弱いのに無茶してんじゃねぇよ、死にたがりか」
「いやいや、最初から最後まで生きて帰るつもりだったよ」
「七海ぃ、コイツのやり方は絶対真似すんなよ。命がいくつあっても足りねぇから」
そう言いながら七海くんに絡む五条くんだが、七海くんの方はというといかにも迷惑だという態度を隠すでもなくただ押し黙っている。まあ、この2人の相性はよくないだろう、おそらく。
居心地が悪くなったのか、七海くんは「ゆっくり休んでください」と言い残し、さっさと医務室を出て行ってしまった。
五条くんは先ほどまで七海くんが座っていた椅子に腰掛け、長い足を組む。先程よりも苛立ちを隠すことなく視線をこちらに向けている。
「こないだ言ったこと、忘れたわけ?」
「忘れてないよ、だから生きて帰って来れた」
「はあ?」
私の言葉が理解できないのか、五条くんは眉を寄せる。
「あんまり死にたくないって思ったことなかったんだけど、今回は違ったよ。五条くんのこと思い出して、絶対生きて帰ろうと思ったから」
そう告げると五条くんは舌打ちをして、私から視線をそらした。
それは、間違いない私の本音だった。死ぬつもりは毛頭なかった。初めてあんなに生きるという衝動に突き動かされた。誰が見ても無謀な戦闘だったかもしれないが、私は生きて帰ることができると判断した。むしろ、生き残る可能性が一番あった方に賭けたつもりだった。
そして、そう考えられたのもそれもすべてあの時五条くんが怒ってくれたからだ。
「…傑も硝子も心配してた」
「うん、また連絡しとくね」
「じゃあ、俺も帰るわ」
そう言いながら立ち上がった五条くんに手を伸ばすが、うまく届かず袖の裾を掴む形になってしまった。が、それに気づいた五条くんは徐に立ち止まってくれる。
「なに?」
「五条くん、ありがとう」
すると、少し照れ臭そうに眉根を寄せるので、思わず笑ってしまった。彼はそれが気に入らなかったのか、大きな掌で頭をぐしゃぐしゃとかき乱される。そして、五条くんはそのまま大きな足音を立てて出て行ってしまった。
乱れた髪の毛で視界がまばらに遮られる。ちゃんと生きてる、帰って来られてよかった。今更ながら、その安堵感に手が震えた。
そして気づいてしまった。私、五条くんが好きなんだ。
Lips on you