21.春霖
護衛任務が失敗に終わった。
そう硝子ちゃんから聞かされたのは、すでに3日経過した日のことだった。
結局、東海地方での任務が長引いて予定よりも2日帰還が遅れることとなった私は何も知らないまま高専に帰ってきた。なんとなく、敷地に足を踏み入れた段階で重苦しい雰囲気には感づいていたが、しかし誰も何も言わなかったので本当に何も知らなかったのだ。緘口令が敷かれていたわけではない、みんな容易く口にできないことをわかっていたのだ。
私はと言うと、何かあったのなら一報があるだろうからきっと無事終わったのだろうと、何とも呑気なことを思っていた。ゴウンゴウンと地鳴りのように唸る洗濯機を眺めながら、ケータイを握って五条くんに連絡するかどうかを悩んでいたのだ。
結果として連絡はしなくて良かった。きっと何も知らずに、見当違いな言葉をかけていただろうから。
硝子ちゃんが教えてくれたのは、任務失敗と夏油くんが重傷を負ったこと、そして五条くんが名実ともに【最強】となったことだった。
五条くんは襲撃された際に瀕死の状態に陥り、そこから反転術式をとっさに習得し、そして仇を討ったのだと。一体全体、何が起こったのか。言葉数の少ない硝子ちゃんの様子から、きっととてつもなく壮絶な修羅場だったことが読み取れた。さすがに言い淀む硝子ちゃんに詳細を尋ねる事もできず、私は絶句した状態のまま、任務開明けに与えられた休暇を部屋で無為に過ごしていた。
気がつけば夜になっていて、何故かふと思い立って五条くんの部屋へと赴いた。それはあまりにも衝動的なもので、実際会ってなんと言葉をかければいいのかわからなかった。部屋の目の前でノックをするのさえ躊躇われたが、ここまで来たので控えめに叩いてみる。返答はない。
「…あいてる、」
出来心でドアノブを回してみると、部屋に鍵はかかっていなかった。部屋には電気がついたままだ、眠っているのだろうか。
不法侵入よろしく、足音を立てないように中へと入ってみる。人の気配は感じられない。どこかに出ているのだろうか。
ふと視線を落とすと、床に五条くんの制服のシャツが転がっていた。目を疑うほど、血で染まったそのシャツは無造作にそこで存在を主張するばかりだ。
時間が経って変色した血液の色が、ただ生々しい。そっと屈んで手を伸ばしてみると硬くて冷たい感触に肌が粟立つ。思い出されるのは、あの同期の遺体だ。あの時と同じくらい、死の臭いが蔓延してゾッとするほど生きた心地がしなかった。
そのシャツを手繰り寄せててギュッと抱きしめる。勿論、冷たい感触しかない。あの夜電話した時の声が勝手の頭の奥から聞こえてきて、たまらない気持ちになった。
「あ?なに勝手に入ってんだよ」
どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、五条くんが帰ってきた。振り返るといつもと変わらない出立ちでそこに立っていた。いつものオーバーサイズ気味の部屋着に、真っ黒いサングラス、そしてぶっきらぼうな声。ただ、彼のまとう雰囲気が以前とは異なっていた。それはまるで誰にも触れられたことのないような高潔なもののようで、けれどピンと張り詰めた糸みたいな、どこか危うさを孕んでいた。
「五条くん、無事だったんだね…」
「あー硝子にでも聞いたんだろ?この通りピンピンしてるよ」
五条くんは手に持っていたコンビニのレジ袋をローテーブルに置いて、ペットボトルを冷蔵庫へと詰め込んでいく。
「なんでそんなシャツ持ってんだよ、汚いだろ」
私が掴んでいたシャツを取り上げて、雑に丸めて近くのゴミ箱に捩じ込んだ。
何をしているのだろう、私は何を言えばいいのか。どうしてここにいるんだろう。
バカみたいに何も言わずにいると、五条くんは私に目線を合わすように屈んでくれる。その時にのぞいた青色の目はよく見知っているものだったのに、目の前の彼がとても遠い人のように感じられて私は余計に何も言えなくなった。
五条くんはそれでも何かを問い詰めるでもなく、しばらくの沈黙の後に私の首筋へそっと手を伸ばしてきたかと思うと、そこをそっと抓った。
「なあ、これ痛くないわけ?」
「…うん」
「じゃあ、噛みつかれても?」
私が頷くより先に五条くんの唇がそこに宛てがわれた。噛まれる、そう思った瞬間には歯の感触がして、ぶちっと皮膚が裂けるような音がした。
それはほんの一瞬のことで抵抗の暇もなかった。五条くんの顔が離れていって、その口元にわずかに血液がついていて赤く染まっているのが劣情を煽る。
「…、痛そう」
噛んだ張本人が愉悦をこめた表情でそんなことを言う。私は為されるがまま、ただ受け止めるだけで精一杯だった。首筋をなぞる指先は冷たかったけれど、たしかに私に触れていた。
この目の前の人は、生きている。
「……お前、意外と泣き虫だよな」
気がつけば大粒の涙が頬をいくつも流れ落ちていた。瞬きもできずに、滲む視界の向こうにいる五条くんをただ見つめる。
失くしたかと思った。無事と聞いていたけれど、失くしてしまったかと思った。彼は私のものではないと理解しているけれど、それでも失いたくなかった。
そっと頬へ手を伸ばせば、五条くんは拒否するでもなく受け入れてくれた。暖かい、その事実がさらに激情に火を注いだ。
膝立ちになって五条くんに口付ける。勝手なことをしたと怒られるだろうか、嫌われてしまうだろうか。けれど、そんなことどうでも良かった。ただ彼の体温を貪りたくて、衝動に身を任せて唇を重ねた。
触れるだけのキスを角度を変えながら何度も繰り返す。それだけなのに何故か呼吸がうまくできなくて、息がどんどん荒くなる。柔らかい感触と焼けつくような熱にめまいがした。涙はその間も溢れて、五条くんの表情はよくわからなかった。
五条くんは私を諌めることなく、また拒否することもなかった。しばらく彼の唇を堪能し終えた私は乱れた呼吸のままで体を離して、溢れ続ける涙を震える手で拭った。
「いま、めちゃくちゃブサイク」
そう言いながら五条くんは濡れた私の頬を優しく指先で拭ってくれる。また鼻の奥がツンとしたが、唇を噛んでなんとか堪えた。
「…生きてて、よかった」
掠れたその言葉は、私の声ではないような気がした。もっとちゃんと言いたいことはあったかもしれないが、それしか言葉にできなかった。
「お前って本当にバカだな」
五条くんは私の脇に手を差し込んでそのまま体を持ち上げたかと思うと、ベッドの上に寝かされた。そして、ゆっくりと私に覆い被さるように抱きしめられ、今度は私が食べられるかと思うように深い口付けを与えられる。
粘膜の絡み合う音が鼓膜を犯す。熱をもった舌が口内に侵入してくるのを止めるでもなく、ただ応えるように私も舌を絡ませた。
熱くて、気持ちよくて、そして少しの不快感が私の全てを支配している。
ぼんやりと視界に入るのは、名残惜しそうに糸を引く五条くんの唇だった。いつもよりも赤く熟れたそれはゆっくりと私の首筋へと向かい、そしてそこを舌が這ったかと思うと先ほどのように噛みつかれた。が、さっきよりも優しくより深く跡を刻み込むようで、そして確実に皮膚を犯していった。
こんなにも近いのに、この皮膚さえも邪魔に感じられる。もう一層のことこの美しい獣に噛みちぎられて捕食されてしまいたい。そんな卑しい衝動に体の芯がどんどん熱を帯びていって、そしてそれを暴いていくように五条くんの指が肌を滑った。
時折、吐息混じりに私の名前を呼ばれて、とてつもない快楽が体を走る。それらを必死で受け止める。今の私はただ受け止めるだけの器官だ。
五条くんに置いて行かれないよう、必死でしがみつく。それは私が望んだことだったはずなのに、奥の方で死に絶えゆく悲鳴のようなものが聞こえた気がした。けれど、私はそれをそっと黙殺した。
Lips on you