26.堅雪
結局、そこに着いたのは次の日の昼過ぎだった。タクシーでひたすら走ってもらい、始発が出る時間になって新幹線に飛び乗った。その移動の時間がとにかく惜しくて、もう死んでしまうのではないかと思うくらい私の心臓は逸っていた。
霊峰の麓、集落から少し離れた場所にある昔ながらの日本家屋が本家であった。他の家よりも随分と敷地が広く、その分家も大きいので目立つ。年季の入った白壁の蔵が、いかにも代々続く名家であることを滑稽にも主張していた。
いつもなら忙しなく人がいるのだが、今日は訳が違った。人の気配が微塵も感じられない。
おそるおそる足を進めてみる。玄関の鍵はかかっていないので、息を殺しながら敷居を跨いだ。人の影はない。
誰が兄にあんな仕打ちをしたのか。そもそも家族は無事に生きているのか。どうしてあんなことをしたのか。
すべては私の責任だ。自分のことを優先してしまったから、わかっていたはずなのに。あの場所が、人が、自分にとって心地よくて理性的に行動できなくなっていた。
ギリっと唇を噛み締めると鉄の味が広がった。逸る鼓動をなんとか抑えながら、足音をたてないようにいつも当主がいる広間へと向かった。
そこにも人の気配はなく、ゆっくりと顔を覗かせる。
「…な、んで…」
そこは目も当てられないほどの血溜まりと化していた。誰のものかももうわからない。膠のように固まった血液が畳の井草を変色し、あたりには悪臭を放っていた。息をすることさえ躊躇われた。
部屋の奥には、人間の死体のようなものが乱雑に積み重なっていた。何人いるのかさえわからないほどだ、そっと足を踏み入れてみる。目を逸らしてしまいたい現実がそこにあって、あの死体の山の中に家族がいないことを願うことしかできなかった。
「これは…」
積み重なった死体のほとんどは仁木本家の人間たちだった。この家に連れてこられてから見知った顔のものばかりだ、その中にはあの当主である伯母もいた。全員が同じように刃物で滅多刺しにされて絶命していた。
どうして、伯母がここにいるのか。兄に危害を加えるよう命じたのは伯母ではなかったのか、何がどうなっているのか。この状況を受け止めることだけで精一杯だった。
その刹那、背後でなにか気配がしたので振り返ろうとしたが、頭部を何かが直撃してその衝撃に体が傾いだ。鈍器で思いきり殴られたのだと気づいた時には、もう一度衝撃が襲ってきて私は意識を手放すしかなかった。
目を覚まして視界に入って来たのは薄暗い闇だった。まだクラクラとする頭でどうにか自分の状態を確認しようと努める。
手足はそれぞれなにかで縛られて固定されているのか動かすことができなかった。足に至っては動かそうにも膝から下の感覚があまりなく、骨を折られたか腱を切られたのだと理解した。血液のようなものは流れ出ていなかったので、今すぐ死ぬことはなさそうだ。
服はそのまま着せられており、埃っぽい板張りの床に寝かされている。こんな場所は家の中にはなかったはずだ。近場で窓は見当たらず、随分と上の方、天井間際に取り付けられた小さな覗き窓のようなところから差し込むわずかな日差しだけが光源だった。おそらく、ここはあの蔵の中なのだろう。
目を凝らしてみると、すぐ横に3人分の人の塊が見えた。ヒュッと息を呑む。顔が見える位置にまでどうにか移動して、覗いてみた。
「父さん、母さん…、兄さん」
そこにいたのは紛れもない家族だった。兄は幾分か成長して大きな体になっていたが、しっかりと面影がある。そしてその耳は切り落とされていた。
家族は先程見た本家の人間同様に血塗れで、垣間見ただけで絶命していることがわかるほどだった。けれど、その現実を受け入れられなくて、何度も彼らを呼んだ。何度も、何度も、何度も呼んだが、返事は返ってこなかった。
「…、どうして…」
不思議と涙は出なかった。あまりに受け入れ難い現実を突きつけられると、存外人は冷静さを取り戻すのだと知った。むしろ、これは夢なのではないかと、自分にとって都合のよい方に考え始める始末だった。
けれど、いま目の前にあるこの身体たちは間違いなく、家族だ。事切れてしまった、家族。
その時、ゆっくりと正面の扉が開いた。観音開きのその扉から飛び込んでくる光が眩しくて目を細める。
「目が、覚めたかな?」
そこにいたのはいつも伯母と一緒にいた、あの男だった。私の、婚約者とかいう人。
いつにも増して卑しい笑顔を私に向けている。まるでこの状況を心の底から楽しんでいるようだった。
「…、お前が、やったのか」
「ああ、そうだよ。君が私のモノということを忘れてしまっているようだったからね」
私がその言葉に絶句していると、それすら楽しんでいるのか飄々とした声で男は続けた。
「俺と結婚する女が、知らない男と遊んでるんだからそりゃあ躾をしないといけないだろう?だから、考えたんだよ。君に1番効く方法を」
「…それで、殺したの」
「そうだよ!それが1番のダメージになるだろう?君が本当の家族と離れていることは聞いていたからね、調べてここまで連れ出すのは大変だったよ」
ニヤニヤと笑う目の前の男は饒舌にしゃべった。
「いやあ、最期まで君のことを心配していたよ。素晴らしい家族愛だね!本当は君の目の前で殺そうかと思ったんだけど、まあ、あんまりにもうるさいものだからつい殺してしまったんだよ、失敗したなあ」
あまりにもあまりにも軽い口調で話すので、私とこの男の使用言語は別のものかと錯覚するくらい、男の言葉を理解することができなかった。
「本家のヤツらもいちいち止めに入るものだからさ、面倒くさくて一緒に殺してしまったよ。でも、これでいよいよ君には俺しかいなくなったということがわかったかな?」
後頭部の髪を掴まれて無理やり顔を上げさせられる。へばりついたにやけ顔に怒りを通り越して、憎悪が湧き上がってくる。
コイツは私が殺す。呪霊なんかよりよっぽど恐ろしいモノだ、殺された家族より苦しめて苦しめて「殺してくれ」と哀願するほど嬲ってやる。
それは今まで感じたことのない、感情だった。呪霊にさえこんな怒りや憎しみを抱いたことはない。今すぐに四肢を引きちぎり、腑を引き摺り出して、思いつく限りの痛みと苦しみを味合わせたい。その衝動に突き動かされそうだった。
「まだ自分の立場がわからないのかな」
ふっと男から表情が消えたかと思うと、左頬を拳で殴られた。カランカランと情けない音がして、私の歯が転がった。頭がぐらぐらとして、目眩に視界が歪に揺れる。
そしてそのまま床に叩きつけられ、思いきり腹部を蹴り上げられたことで反射的に胃液を吐き出す。それを何度か繰り返した後に、男は声を荒げた。
「反省するまではそのままだ!」
そう言い捨てて男は蔵を出て行った。バタンと扉の閉まる重厚な音ともに静寂が満ちる。
呪力は出せる。ただし印は結べないから紫檀は呼び出せない。ならば、次来た時は呪力をぶつけて殺してやる。鋭利な殺意が私を満たしていた。殺す、殺す、殺す。ありったけの苦痛を与えた後に、その体が一片も残らないほどに消し飛ばしてやる。
本当に?それで報われるのか?
その瞬間に頭に浮かんできたのは五条くんだった。もう3ヶ月以上会っていないが、彼の表情や声、仕草すべてが鮮明に思い出された。まるで瞼に焼き付いているかのようで、何もかもが瑞々しくて途端にあれほどの沸騰した殺意が収束していくのがわかった。
「五条、くん…」
こんなことになるなら、逃げ出さずに会っておけばよかった。声が聞きたい、あの大きな腕で抱きしめてもらいたい。名前を呼んでもらいたい。それが私の心の底から湧き出た本音だった。私の愚行のせいで骸となった家族の傍で、あまりにも愚かしい懸想をする。
きっと、あの男を呪力でもって殺せば私は呪術界から追放される。処刑されることだってある。そうすれば会えなくなる。五条くんを遠巻きに見ることすら許されなくなるだろう。
ならば、あの男を殺せない。私は、殺せない。
中途半端に五条くんの傍にいようとした報いだとも思った。彼と共にいることを望むなら、もっとちゃんと家と向き合えばよかった。そうすればこんなことにはならなかった、すべては私の責任だ。
何もかもから逃げ出した私が悪い。
そして今、家族の仇を討つ決断もできず、記憶の中の五条くんに縋り付いてしまう自分の弱さが痛かった。痛くて痛くて、涙がボロボロと溢れた。
Lips on you