27.千歳
それからどのくらい時間が経ったのかわからなかった。何度か男と、おそらく取り巻きの男たちが来ては脅しの言葉を吐いていったが、それに対して反抗的な態度を貫いた私を男たちは怒りに任せて何度も殴ったし、何度も蹴り上げてきた。床には私が吐き出した胃液や体液が飛び散って、死臭と合わせてかなりの悪臭を放つようになっていた。
痛みはないが、確実に体力は消耗していた。思えば高専を飛び出してから何も口にしていない。どんどんぼんやりとしていく頭で考えていたのは、五条くんのことだけだった。それが、今の私の蜘蛛の糸だった。
足を負傷しているせいで、ここから自力で逃げ出すのは困難ということは明白だった。どうやらあの男たち以外の気配はないので、誰かが助けに来てくれれば何とかなるかもしれない。けれど、この辺鄙な場所で地元の人間が運よく来てくれることはない。となると、頼みの綱は五条くん達だけだった。
ケータイは記憶が正しければ夏油くんがいるときに落としたので、きっと拾っていてくれるだろう。ロックは誕生日だし、それは五条くんに伝えていたので覚えていてさえくれれば解除してくれる。メールを見て、ついでに部屋に置いてきた遺書を発見してくれれば、きっとこの場所までたどり着いてくれる。きっと。
そんな自分の願望に塗れた希望だけが、今の私のよすがだった。それを信じることしか私にはできない。
同じ姿勢でいるせいか、体のあちこちが麻痺してきている気がした。特に後ろ手に縛られた腕は関節がおかしくなりそうだ。エコノミー症候群にならないように何度か体を捩ってみるが、それすら体力を消耗していく有様だ。
小窓から覗く日差しが随分と傾いて、もう日が暮れそうだ。
「強情だな」
飽きもせずに男が来て、そちらを向く気力さえなくなった私は無言を貫いていた。それに苛立ったのか、大きく舌打ちをした男は私の髪を掴んで強引に体を引き寄せた。周囲に取り巻きの奴らが何人かいるが、ニヤニヤとこちらを見ているだけだった。
「いい加減にしろよ!お前もコイツらと同じになりたいのか」
声を荒げながら私の頬を殴る。多分、もう3本くらい歯が折れた気がする。口の中が切れて、血液がポタポタと唇の端から伝ったのがわかった。
「いつの間に、こんなピアスをつけたんだか」
その一言に、私は反射的に息を呑んだ。それに目敏く気づいた男は高らかに笑って、ピアスに手をかける。
「ムカつくなあ」
「や…、めて」
「やめるわけないだろ!ムカつくんだから!」
そう言い放ったかと思うと、男は掴んでいたピアスを思い切り引っ張った。ブチっという、何かが裂けたような音がして耳たぶから血液が滴るのがわかった。
私はその事実に呆然として、何の反応もできなかった。無理矢理外されたピアスはおそらく男がどこかに投げ捨ててしまったのだろう。
五条くんがくれたものだったのに。
唯一のそれを奪われてしまったことが、あまりにもショックで何の言葉も出てこなかった。涙も出なかった。
男はよほど悦に入ったのかずっと笑っている。そして、髪から手を離して私の腹部に膝で蹴りを入れた。
「うっ」
内臓が競り上がる感覚とともに、何度目がわからない胃液を吐き出した。一緒に口内の血液が飛び出した。気管にも入り込んだせいで咳き込んでしまう。その様子を見て、男は「汚い」とひどく不愉快そうに呟いた。
「もういいわ、面倒くさい」
投げやりなその言葉と同時に男の手が、私の着ていたTシャツを引き裂いた。ビリビリと破られていくのを、なぜか他人事のように眺めているとまた殴られた。取り巻きの何人かが私の腕と足を押さえ込んでくる。
ああ、犯されるのか。
どんどんと男が私の服を暴いていくのをぼんやりと眺める。制止する声も掠れてうまく出なかった。嫌悪感と絶望感が私の足元で首をもたげていたが、しかしその感情を直視してしまえば、きっと私は理性を失ってこの男を殺してしまうだろう。
自分の体を暴かれることよりも、私は五条くんを失ってしまうことが怖かった。犯されて汚されてしまったとしても、呪術師でいられるならそれでよかった。そうでないと、私は五条くんとともにいられない。だから今から起こることは何でもないことなのだと、言い聞かせ続けた。
男のカサついた手が私の肌を撫でた。気持ち悪くてえずくかと思った。一層のことずっと殴ったり蹴ったりして乱暴に扱って欲しい。いちいち、普通の女にするような触り方をしないで欲しい。
男の息が上がっていくのを聞きながら、私は目と耳を閉じた。もう、もう、いい。早く終わって。
「ユイさん!」
閉じたはずの耳に飛び込んできたのは、あの夜に私の腕を掴んできた男だった。夏油くん。
霞む視界の向こうで夏油くんは立ち尽くしていた。暗がりのせいで表情は分からなかったが、憤怒の様相を隠しもせずにいることだけは雰囲気でわかった。
私の上で男が喚いている。
「手を離せ、下衆が」
「コイツは、俺のなんだ!呪術師なんていう気持ち悪い生き物をもらってやるんだよ、俺が!俺のものを好きに扱って何が悪い、コイツが好き勝手するのがいけないんだ、だからこうして教育しているだけなんだよ!」
夏油くんは喚く男をものともせず、ゆっくりとこちらにやってくる。そばにいた取り巻き達は夏油くんを止めようと掴みかかっていたが、それをものともせず片腕で薙ぎ払っていく。その様は今まで見たことがないくらいに怒りに満ちているようだった。いつも柔和な彼だからこそ、その恐ろしさに拍車をかけている気がした。
夏油くんは容赦なく私に覆い被さる男の首元を掴むと、まるで人形か何かのように片腕で簡単に投げ飛ばした。重さから解放された私は、体を動かすこともできずにそばに立っている夏油くんを視線だけで見上げた。
投げ飛ばされてもなお、何かを喚き立てる男を夏油くんは見つめている。その視線の冷たさに背筋が震える。
「ーーーめ」
夏油くんが小さく地を這うような声で、何かを言ったが聞き取れなかった。けれど、彼のすぐそばに呪霊が現れたことに気づいた私はなけなしの声を振り絞った。
「だ、め…!げ、とうくん、ダメ!」
私の掠れた声に気づいた夏油くんはピクリと肩を震わせて、こちらを見遣ってくれた。今にも男たちに飛びかかろうとしていた呪霊の動きも止まる。
「げ、とうくん、その人たち、一般人、なの…、だから、そんなことしたら…」
時折咳き込みながら訴えかける私の意図を汲んでくれたのか、夏油くんは呪霊を収めてくれた。そして、そっと膝をついてくれて私を拘束していた縄のようなものを切ってくれる。
バタバタと逃げ出そうとしていた男たちの悲鳴がその瞬間聞こえた。何人かが吹っ飛ばされたのか、床にひっくり返っていて中には意識を失っている者もいたようだ。
「コイツら、殺していいよな」
そこにいたのは五条くんだった。その声を私が間違えるはずなかった。
「…、悟、気持ちはわかるが殺すまではダメだ」
「じゃあ、殺す手前までならいいんだな」
ひどく鋭利な言葉を吐いて、五条くんは次々と男たちを殴り飛ばしていく。呪力や術式は使っていないようだ、ひたすら素手で殴っていた。
私は夏油くんに手を借りて何とか体を起こす。彼が制服の詰襟を脱いでそっと肩にかけてくれた。
男たちの、まるで蛙が踏み潰されたような聞くに耐えない悲鳴を聞きながら、私はすべて終わったのだと安堵した。そして、体を引きずってそばに横たわる家族たちに手を伸ばした。冷たくて、固くて、それだけで涙がいくつも溢れた。何も返ってこないその塊に縋りつく。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
果たしてそれは私の頭の中だけだったのか、声にも出ていたのか。それすら、分からなかった。ただ、夏油くんが悲痛な面持ちで私の背中を摩ってくれていた。
ごめんなさい。
五条くんが私を呼ぶ声が聞こえて、それを最後に私は意識を手放した。
Lips on you