28.空蝉

浮上した意識とともに視界に飛び込んできたのは、よく見知った白い天井だった。高専の医務室。一瞬、これまでの記憶がなくなったのかと思うほど、自分の脳みそがまっさらになってしまったような気がしたが、それは都合の良い勘違いだと気づく。
次々と湧き上がってくる記憶の束はまるで悪夢のようで、込み上げてくる吐き気を収める術を私は知らなかった。すぐそばに置かれたビニール袋がひっかけられた洗面器のようなものに、本能のままに吐き出した。黄色い液体が泡立って出てくるだけだった。

途端にとてつもない喪失感が襲いかかってきて、視界が真っ暗になるほどの絶望がそこにはあった。無くなってしまった。私の帰る場所も、元いた場所も。あんなに大事にしていたのに。
込み上げてくる嗚咽から何度も何度も胃液を口から吐き出した。何度吐いても気分は一向によくならず、もう一層内臓が出てくるのではないかと思うくらい嘔吐を繰り返した。
足元で渦巻いている絶望の中に飲み込まれないように必死で現実にしがみつくことしかできなかった。それが何よりも私を絶望に叩き落とすものだと分かっていても。







両親たちは高専の厚意で、私が眠っている一週間の間に荼毘に付されていた。手元に残ったのは本当に小さな骨壷が3つだけだった。あんまりにも小さいので、人間の命の軽さを思い知らされたような気がした。最後に面と向かって謝罪と別れを告げたかったが、しかしあの遺体を目の前にして発狂せずにいられる自信はなかった。だから、これでよかったのかもしれないと自分に言い聞かせた。
こんな結末を迎えてしまったが為に大っぴらに葬式をあげることもできなかったので、高専内で弔ってもらうことになった。自分だけが見送る少し寂しい葬儀だったが、誰かに気を遣われるのも憚られるという私の意思を尊重してくれた形であった。悉く、高専の人には頭が上がらない。
それから、遺骨は高専近くの霊園にて納骨することになっていた。父の実家は今回の件で無くなってしまったし、母の実家の方には話せることがほとんどなかったからだ。母がガーデニングが好きだったので、樹木葬にした。木はクスノキにした。常緑樹。そのほうが寂しくないかと思った。

あれから、仁木本家の人だったり、主犯の男たちだったりがどうなったのかは不明だった。誰も教えてくれなかったし、知りたいとも思わなかった。
私の怪我は反転術式による治療で、目が覚めた時点である程度治っていた。足は骨折させられていたためしばらくは車椅子での移動を余儀なくされ、腹部を容赦なく蹴り上げられたことで内臓の一部が負傷していたようだった。早めに救助してくれたおかげで、何とか後遺症もなく一ヶ月ほどで完治することができた。
それよりもダメージが大きかったのは精神面だった。意識がある間はひたすら吐き気に襲われて水もまともに口にすることができず、眠っている間も悪夢のようにあの光景が襲ってきて熟睡さえできない始末だった。そのせいで体の回復が大幅に遅れたと言っても過言ではなかった。

担任が見舞いという形で私の元を訪れてくれた時に、ひとまずは自分の心体の回復を優先させるようにと言われた。私の今までの働きぶりから、もしも今後一切授業に出られず任務もできなかったとしても卒業は確約してくれるという。そして、休養という名目でしばらくの間は高専を出ても構わないと言われたので、その言葉に一も二もなく頷いた。
高専は居心地が良かったが、けれどそれが余計に自分の罪悪感を煽っていた。自分だけがこんなに大事にされてのうのうと生きていていいのか、その自責の念から逃れたかったのだ。意識が戻って一ヶ月後、高専近くの1Kの部屋を借りて、私はそこでの生活をスタートさせた。
8畳ほどの狭い部屋には何もなかった。ほとんどの私物は高専の寮に置かせてもらっていたからだ。最低限の着替えと眠るためのタオルケットと、最低限の食料。毎日紫檀に包まって寝て、起きて、吐いて、また紫檀と一緒に寝る。誰とも会話をしなかった。まるで、家族と引き離された直後のような生活だった。

五条くんには一度も会わなかった。会えなかった。感謝の言葉も私の気持ちも伝えられなかった。自分の望みが何か一つでも叶うことが、許されないことだと思ったからだ。
忘れてしまえたらと思えるほど苦しくて辛くて、それでも気がつけば五条くんのことを考えて名前を呼んでしまう自分がいて、なんて私は仕様のない女なのかと反吐が出そうだった。
そして、あの事件から半年ほど経過した時、ケータイに一通のメールが入った。灰原くんが亡くなった。







「灰原、くん」


高専内の安置所に赴くと、そこには夏油くんと見るからに憔悴しきっている七海くんがいた。まるで亡霊でも見たかのように、夏油くんは目を大きく見開いて私を凝視していた。
部屋の真ん中、無機質な寝台に横たわっているのが灰原くんだ。真っ白な布で覆われているが、下半身が喪失していることは一目でわかった。
まともに生活していないせいで縺れそうになる足を必死で動かして、傍に寄る。夏油くんがよろめく体を支えてくれて、私は灰原くんの遺体に手を伸ばした。
ひゅっと思わず喉が鳴る。傷だらけの顔から伝わってくるのは、ただの質感だけだった。体温はもうそこにはなかった。私の同期が殉職した時と同じ、私の殺された家族と同じ。ただの物質の塊に成り下がったモノだった。


「…もう、あの人1人でよくないですか」


虚ろな七海くんの声が安置所に染み渡った。あの人、それが指す男を私は知っている。
ふと横目に夏油くんを見ると、心なしかやつれて、その表情や雰囲気には以前には見られなかったような疲労感のようなものが浮かんでいた。
しんと鎮まり帰る部屋で、灰原くんの生前の快活な声が私の頭の中に何度も何度も反芻していた。

それから、灰原くんには似つかわしくない簡素な葬儀が高専内で執り行われ、私は息を殺してその場に立ち会っていた。何人か、私の姿を見て声をかけてくれる人はいたが、何と回答したのかは覚えていない。まるで射影器によって流されている映像のように、その光景はひどく無機質だった。


「ユイさん、大丈夫ですか?」


そう声をかけてくれる夏油くんの方が、よほど大丈夫ではないように見えた。けれど何と声をかけていいのかわからずに、曖昧に微笑むだけになってしまった。
久しぶりに訪れた寮の談話室は何も変わらなかった。そこに置かれている使い古されたソファに2人で並んで腰かけている。2人とも制服姿で染み付いた線香の匂いが充満している気がした。
沈黙が夜に滲んでいる。


「…、呪術師続けるんですか」


ポツリと夏油くんがつぶやいた言葉は、確かに私に届いたがどこかふわふわと宙に浮かんでいたようだった。
そもそも、私は誰かを助けたいだとか、いわゆるそういう高尚な考えを持って呪術師になったわけではない。もうその道しかないのだと、他の選択肢を全て絶たれたから呪術師になったのだ。そして守るべきものも、もう失ってしまった。だから、続ける理由なんてどこにもないのだ、でもそれを口にすることはできなかった。


「いつまで続くんでしょうか」


夏油くんの独り言にも似た言葉は、ひどく不安定で今にも霧散してどこかに消え失せてしまいそうだった。
呪術師でいる限り、常に死と隣り合わせで、理不尽と戦い、生き延びた分だけどんどん失っていく、そして後悔だけが残るのだろう。ゴールは、ない。全ての呪いがなくなることはないのだから。どれほど戦い続け、争い続けたとして、きっと最後には何も残らない。これほど虚しいこともあるだろうか。
いつの日か、非術師を助けると言っていた夏油くんには、それが延々と続くのだろう。それは地獄だと思った。


「…、ずっと、だよ。ずっと」


私のか細い声は夏油くんに届いただろうか。なんて曖昧な言葉。
微笑のような息遣いが聞こえたかと思って横を見遣ると、そこにはもう誰もいなかった。先程までの夏油くんは私が見ていた夢なのか、はたまた幻覚なのだろうか。そっとソファの布地に触れてみても、一片の暖かさもなかった。

気がつけば夜は更け、静かな闇がすぐそこにあって、私はその底へと緩やかに飲み込まれていくようだった。
ずっと、自分に問い続けていた。私はこれからどうしたいのか、どうするべきなのか。何の為に生き続けるのか。ずっと、ずっと、あの小さな部屋で考えていた。でも、答えなんて出なかった。
いつまで、続くのか。そんなのー


「相変わらず、陰気だな」


ふと投げかけられた声が、現実のものなのか私の頭の中のものなのかわからなかった。だって、現実のものなら、なんて都合のいいー


「ユイ」


けれど、確かにその声は私を呼んだ。
目の前の薄い暗がりの中で、その美しい人は私を見つめていた。

Lips on you