29.可惜夜

五条くん、五条くん、五条くん。
頭の中をひしめくのは、目の前の彼を呼ぶ私自身の声だ。ずっと、あの部屋で呼び続けていた名前だ。でも、実際に彼を前にすると、一文字も言葉にすることができなかった。
半年ぶりに見た五条くんは私の記憶の中の彼と何一つ変わりなく、凛とした空気を纏ってそこに立っていた。端正な表情は闇色のサングラスのせいでよくわからなかった。
いつも軽口の五条くんが何も喋らないモノだから、私はただ焦った。何か、何か、何か、言わなければ。彼がどこかに行ってしまう、そんな焦燥に駆られていた。けれど、それとは相反して、私の唇は硬く結ばれていくばかりだ。沈黙がひしひしと私の肌を突き刺すように責め立てる。


「ご、じょうくん」


出てきたのは何とも情けない声だった。途切れるほどか細くて、自分の声じゃないみたいに震えていた。
冷や汗のようなものがどっと溢れる。名前を呼んでしまった、話さなくちゃ。何でもいい、何か。


「あの、時は助けてくれてありがとう」


五条くんは何も言わなかった。


「え、と、迷惑かけて、ごめんなさい。本当に…、ごめん」
「あと、えっと、連絡も、無視してごめんなさい」
「それから、」


五条くんは、何も言わない。
そしてそれに反比例するように、私は饒舌になる。拙い、脈絡もない言葉が自分の意思とは反してスラスラと唇から出てきた。


「私、いっぱい考えたんだ。呪術師、続ける意味も無くなって、あ、家族がいなくなったからなんだけど、でも、私ずっと呪術師になるためのことしかしてなくて、それ以外のことができる気がしなくて、戻らなくちゃって思ってたのに、でも戻りたくないとも思っちゃって、だからずっと引きこもってて、でも何にも答えは出なくて、わかんなくて、ずっと、ずっと、ずっと五条くんのことだけが…」


そこまで言い切って、ふと我に返った。私は何を言おうとしているのか、五条くんに何を伝えようとしているのか、彼からどういう言葉を欲しがっているのか。
この動揺している心臓の音さえ届いてしまいそうな、張り詰めた静寂に思わず涙が出そうだった。


「俺は死ぬまで呪術師だ。辞めることはない。迷いもない。だから、お前の考えてることは1ミリも理解できねえし、お前に答えてやれることもねえよ」


鋭利なその言葉は、しっかりと私の心臓に突き刺さった。


「辞めるなら好きにすればいい。むしろ、迷うくらいだったらさっさと辞めろ。んで、この世界とは関係のないところで生きていけよ」
「…うん」
「ていうか、どうせお前のことだから、くだらないこと考えてんだろ。自分だけやりたいことできないとか、不幸になるのが償いだとか、そういうしょうもないことをずっと考えてたんだろ」


でも、と一拍置いて五条くんはサングラスを外した。


「そんな建前とか方便とか正論はどうでもいいんだよ。めんどくさい。お前は、ユイは何がしたいんだよ。どうしたい」
「…私は……」
「俺に、どうして欲しいんだよ」


真っ青なその瞳は、私の姿を確かに映していた。ゆらゆらと、みすぼらしく迷って揺れている私のありのままの姿を捉えていた。


「私は…、私は…、ただ一緒に、いたい。五条くんと、一緒にいたい」


とめどなく溢れる涙が頬をいくつも伝った。


「他には何にも、なくていい。ただ一緒にいて欲しい、それだけが欲しい…!」


それは心の奥底にあった、押し殺してきた本音だった。
たくさん間違えて、いっぱい失くしてしまった。だから、自分の欲望は全て捨てるべきだと、自分が何かを求めることはいけないことだと散々言い聞かせた。言い聞かせて、押さえつけて、それでも溢れ出して、また言い聞かせて、押さえつけて、無理矢理フタをしてきた。
それでも、五条くんには偽ることができなかった。理性なんて、この人の前では何の意味もないことを知っていたはずなのに。振り絞った声がは、ひた隠しにしてきた心の内を一つ残らず明るみに出した。
涙と、嗚咽が止まらなくて、それから自分の内側を曝け出したことの恐怖が体を震わせる。
どれくらい時間が経過しただろうか、しばらくして私の涙と震えがおさまった頃合いを見計らったかのように五条くんは大きく息を吐いた。


「本当、しょうもないやつ」


恐る恐る視線を上げると、五条くんの芸術品のような瞳は弧を描いて私を見つめていた。


「そんなんでいいなら、いくらでも応えてやるよ」


その刹那、五条くんは大股でこちらに歩いてきたとか思うと、流れるような動作で力強く私の体を抱き寄せた。
何が起こったのかよくわからずに呆けていると、さらにギュッと痛いくらいに抱き締められた。伝わる体温だとか、感じる鼓動だとか、聞こえる呼吸音だとか、自分が求めていたものがすぐそこにあって私は懲りずに嗚咽を漏らした。


「罰が欲しいなら、ずっと俺と一緒にいてその罪悪感に苦しめばいいんじゃねえの」
「うん」


そっと背中に腕を回して抱き締め返すと、頭上でそっと微笑むような息遣いが聞こえて、ぽっかりと空いた穴を埋めるような充足感が湧き上がってくる。まるで欠けてしまった半身を取り戻したような、そんな感覚だった。
離れたくなくて思い切り抱きしめると、それに返事をしてくれるように五条くんの腕に力が込めらるのが嬉しくていつの間にか涙は止まっていた。足下で渦巻いていたあの昏い闇も、どこかに消えていってしまったようだ。
しばらくして、ゆっくりと惜しむように身体を離して五条くんを見上げると、彼は先ほどまでの甘い雰囲気を壊すように吹き出した。


「めちゃくちゃブサイク」


そう言って五条くんは私の顔を見てケラケラと笑いながら、私の額を小突いた。まるであの頃が戻ってきたようで、それすら心に込み上げるものがあって半泣きになっているとまた笑い飛ばされてしまった。


「明日も早いから俺寝るけど、部屋来る?」


その言葉に遠慮がちに頷く。五条くんは私のドキドキなんて全く知らないみたいに、さっと手を掴んでそのまま部屋へと歩き出した。転びそうになるのを何とか耐えて、必死になってついていく。
招き入れられた五条くんの部屋もまた、何も変わっていなかった。私が置きっぱなしにしていた衣類が、部屋の隅に畳んでしまわれているのを見てたまらない気持ちになる。


「五条くん」
「あ?」


部屋着に気がようとしている五条くんを呼ぶと、返事だけ返してくれて手は止めずに学ランの詰襟を脱いでいた。


「言ってなかったけど、五条くんが好き」


なんて、陳腐な言葉。しかも全くと言っていいほど抑揚がなくて、何だか冗談めかした告白になってしまって、言ってみたもののちょっと気まずくなって唇を噛みしめる。
五条くんも少し面食らったようで、着替えの手が止まる。


「ばーか、知ってる」


そう言って笑ってくれた五条くんに、私は力の限り抱きついた。彼はそれを拒絶することなく受け止めてくれる。その暖かさに埋没するように私は力を込めて、そっと目を閉じた。
抱き締めた五条くんからは強烈な生の匂いと、少しだけ死のニオイがした。

Lips on you