30.清明
抗う術もなく、季節はあっという間に春を迎えた。暖かな日差しが熱をどんどん帯びてきて、気を抜けば微睡に溺れてしまいそうなそんな毎日。何も変わらないはずの街並みでさえも、どこか穏やかに煌めいて見えるのは何故だろう。
霊園の隅の方に植えられたクスノキはいつ見ても青々と茂っていて、その生命力に驚かされる。2年前よりも少し背が伸びたその木の枝に、蠅頭が数体寄り添っているのが見えたのでそっと手で払う。
仏花はあまり好きではないので、近くの花屋で鮮やかな季節の花を小さな花束にしてもらって供えている。月に1度ほどしか訪れることができないのだが、落ち葉等が一切ないくらいに管理してくれている霊園のスタッフの人には頭が上がらない。
手を合わせて、思い浮かべるのはもう8年も前の家族の姿だ。最期の姿を私はあまり覚えていないので、記憶の奥にある過去の団欒をどうにか思い出す。けれど、そうしていても少しずつ色褪せていくというのだから、人間は案外薄情な生き物なのかもしれない。
伝えることはいつも一緒だ。どうか、安らかに。ただ、それだけ。
お墓参りを一通り済ませて、近くのバス停を目指す。停留所には珍しく誰もおらず、ケータイで時刻を確認してまだ15分以上時間があることに気づいた。
古びた木製のベンチに腰掛けてバスの到着を待つことにする。ふわっと来ている白いスカートの裾をすく上げるようなそよ風が吹いた。
「お久しぶりですね」
「…、久しぶり。1年半ぶりかな」
背中合わせに並べられたベンチの向こう側から、ゆったりとした声がするので振り向くことなく返事をする。耳触りの良いその声は、ふふと小さく笑った。
「どうしたの?まさか、私なんかに用事じゃないよね」
「スカウトしに来たと言ったらどうしますか」
揶揄うようなその口調に、私も思わず苦笑が溢れた。ザワザワと風が街路樹を揺らしている。
「あなたなら、共感してくれると思ったんですが」
その言葉に、私は自嘲気味に笑った。
「そうだね、すごく、気持ちはわかるよ。あの人間たちは今も許せないし、憎いし、どうして呪術師を続けなくちゃいけないのかわからない時もあるよ」
あの時の激情は今も私の中で小さく燻っている。きっと一生消え失せることはないし、この醜い感情が時折頭をもたげては私を苦しめ続けるのだろう。その度に私は迷って、馬鹿みたいに悩むんだろう。
「でもね、私は悟と一緒にいるって選んだから」
「そうですか」
「ていうか、最初から連れて行くつもりなかったでしょ」
「ええ、あなたがスカートなんて履いているので、少しからかいたくなったんですよ」
それは、あの頃のような冗談めかした会話だった。懐かしさが込み上げるけれど、私は振り返ることすらできずにいる。
「悟と一緒にいても、最後はきっとひとりですよ」
「そうだね、そうだと思う」
「そんな一時的な、刹那的な快楽と充足感でもって、一生を棒に振っていいんですか」
「いじわるなこと言うね」
「少し癪に障ったので」
「なんだ、やっぱり悟のこと大事なんじゃない」、その私の言葉はすうっと肺の中へと消えていった。
「後悔、してませんか」
その彼の言葉は、ゆっくりと私の中に波紋を落とした。ざわざわ、と。
「後悔、してるよ」
私の一件が、あなたの凶行の遠因になってしまったかもしれないこと。
あの日、あなたの言葉にもっときちんと向き合えていればよかったこと。
あの後の任務が、もしかしたら私が引き受けるもので、それがあなたに当たってしまったかもしれないこと。
あなたの変化に気づいてあげられなかったこと。
あなたを、引き止められなかったこと。
「できることなら、今でも悟のそばにいてほしいよ。本当は私じゃなくて、君がいるべき場所だと思うから」
「そうですか」
ひどく、冷めた声だった。
あんなに近くにいたのに、今もこんなに近くにいるのに、どうしてこうも遠くに行ってしまったのだろうか。
「それでは、お元気で。ユイさん」
「…、夏油くんもね」
「ああ、それと」
ふと、色濃い気配が左肩に近寄ってくる。
「ピアス、似合ってますね」
バスが目の前に停まって、プシューと吐き出す音と共に扉が開いた。振り返るとそこにはもう誰もいなくて、ただがらんと静まり返ったベンチが2つ並んでいるだけだった。
自宅近くの停留所で止まったバスを降りて、すぐそこにあるマンションを目指す。履き慣れていないヒールの高いパンプスで、転ばないように少し慎重にアスファルトを蹴って歩く。
カツン、カツン。
きっと、夏油くんの言うように最後私の元には何も残らないのだろう。
いま、悟は私がそばにいることを許してくれているが、彼には彼の果たすべき責任がある。それは、彼が最強であり、五条悟だからだ。
私はいずれその時に彼の足手纏いになるだろう、邪魔になることだろう。私のせいで悟が判断を誤ることはないだろうが、少しでも引っかかりになることがあってはいけない。その時がきたら、私は潔く身を引く。
そうでないとしても、きっと私は彼よりも先に死ぬだろう。一緒にいることを選んで、呪術師を続けることを選んだ私は悟を残して先に死ぬんだろう。その時に、ああ何も残らなかった人生だったと自嘲するかもしれないし、案外悪くなかったなと穏やかに逝けるかもしれない。
人から見ればそれは決して幸せなものではないかもしれないが、それでも私は悟を選んだのだ。そして、悟がそれを受け入れてくれた。ただ、それだけ。
「ただいま」
がらんとした部屋に私の声だけがやんわりと響く。あの時借りた1Kの部屋はそのままで、いまそこに私は住んでいた。広い部屋も借りようかと思ったが、こじんまりとした両手の届くくらいの部屋が私にはあっていた。
部屋の1/3以上を埋める大きなベッドは、いつも清潔なシーツが敷かれている。私のウイングスパンよりもよほど大きいそれを毎日のように交換するのはかなり骨が折れるのだが、それだけは何となく頑張って続けていたりする。
そんな私の苦労を知ってか知らずか、悟は制服のままそこに寝そべっていた。フカフカのシーツの上でうつ伏せになってスゥスゥと寝息を吐いている。
私は持っていた鞄を下ろして、ケータイを取り出すとそのレンズを悟の寝顔に向ける。解像度の低いケータイの画面越しにも、彼の造形美は一つの曇りもなくそこに表現されていた。
カシャリとシャッターをきって、その2つとない美しさを切り取る。その瞬間にレンズ越しの彼がパチリと目を開き、私のケータイを持つ手首を掴んだ。
「…また、撮ってんの?いい加減飽きろよな」
「だって、もう制服姿の悟はあんまり見れないでしょ」」
不機嫌な、それでいてどこか呆れた声で悟は言う。その言葉に反していつもデータを消すように強要してこないので、私のケータイのフォルダはどんどん悟の寝顔で埋め尽くされているのだ。
悟は眠そうに欠伸をしながら、掴んでいる私の手首を引き寄せた。私はそれに抵抗するでもなく、為されるがまま彼の腕の中へ収まる。
悟の左腕はいつものように私の頭の下を通って腰を抱き、そして右腕は私の左耳に突き刺さっているピアスに触れる。いつものように。
この、春の微睡にも似た暖かさと、どこかアンバランスな歪さに私は至極の幸せを感じるのだ。それだけが、確かにいまここに2人の存在を証明しているからだ。
「来週、ちょっと行きたいとこあるから付き合って」
「うん、わかった。どこ行くの?」
「埼玉だったかな」
あまり饒舌にならないあたり、詳細を話すつもりはないようだ。なので、私もそれ以上追求はしないことにした。
「…ねぇ、悟」
「なに」
「私が死んだら、泣いてくれる?」
「重いわー、マジで重すぎ。生理前で情緒不安定なわけ?」
そう言いながら悟はトントンと私の背中を一定の感覚で優しく叩いてくれた。肌触りのいい体温と、心地いいリズムについつい瞼が重くなってくる。
「まぁ、少しくらいなら泣いてやるかもね」
「そっか」
「こんなの僕に言わせるのはユイくらいだよ」
くすくすと2人で密か事のように笑い合った。
うっすらと目を開くと悟越しに窓が見える。向こうではゆっくりと夕日が沈んでいっており、夜の気配がすぐそこまでやってきている。
悟はまるでそれを見せないように私の体を一際強く抱きしめたかと思うと、ゆっくりと離してそして触れるだけのキスをした。
私はそれを当然のように受け入れて、笑った。悟の唇が緩やかに弧を描くのを見届けてから、そっと瞼を閉じた。
Lips on you