限りとて
*夏油離反後
夏油くんが、いなくなった。
その一報が私にもたらされたのは、彼が事を起こした次の日だった。色々と高専に復帰するための準備をしていたところ、ざわめく高専内部の雰囲気に感づいて担任に聞いてみた時にその事を知らされた。
思い出されるのは彼と最後に会った灰原くんの葬儀のことだ。あの時、寮の談話室で夏油くんは何かを訴えていた。確かに、何かを私に言っていた。けれど、私はそれを上手く受け止めることができなかったのだ。
もしかして、あの時。あれが最後の分岐だったのではないだろうか、だとしたら…。
そこまで考えて私はかぶりを振った。そんな事を考えても、もうどうしようもないからだ。あの日に遡ることなどできやしないし、まして仮に彼が冤罪だとして私にはそれを明らかにする術などはないのだから。もう彼はこの高専にはいない。ただ、それだけが覆しようのない事実なのだ。
そうなると、真っ先に頭に浮かんだのは五条くんのことだった。きっと、彼もこのことを聞かされているだろう。
今、彼はどこにいるのだろうか。一体、どんな気持ちで。
制服のポケットからケータイを取り出し、開く。が、一瞬逡巡してそれをまた収納して、私は駆け出した。
ひどく静かな寮の中を全速力で向かったのは、五条くんの部屋だった。廊下からでもわかる、今彼の隣の部屋は伽藍堂だ、ぽっかりと穴が開いたみたいに。
意を決してノックをしてみるが、案の定返事はない。五条くんの部屋もまたひどく静まり返っている。けれど、なぜか確信のあった私は返事も待たずに部屋の扉を開けた。真っ昼間だというのに締め切られたカーテンのせいで部屋の中は陰鬱としている。息を殺して中に足をすすめると、五条くんはベッドの上に座り込んでいた。まるで彫刻の芸術品のように、彼はそこに存在していた。
私には五条くんの気持ちもわからなければ、彼にかけられる言葉も持っていない。彼が求めていることを推し量ることも上手くできない。ただ、五条くんを1人にできない、それは私のエゴであって、でも同時にそれだけはきっと間違いないと言い切れることだった。
五条くんは呼吸すらしていないのか、その心臓はもう動くのをやめてしまったのかと思うくらいに、部屋には何の音もしなかった。自分の心臓だけがやたらうるさい。項垂れた彼に衝動的に手を伸ばしそうになるが、なんとか理性で押さえつける。見知ったベッドに腰掛けると、ギシリと私の重さの分だけ軋んだ。
「……」
お互いなにも言わなかった。普段であればきっと、「なにしに来たんだ」とか「勝手に入ってくんじゃねぇよ」とか、そういう言葉がすぐに飛んでくるのに、それすらなかった。ぎゅうっと胸が締め付けられる。
残暑で蒸し暑い部屋の中、私はただ側にいることしかできなかった。触れることさえできない。こうして今にも壊れてしまいそうな、まるでガラス細工のような彼を直視することさえできないでいる。夏油くんだったらどうしただろうか、私でなくて夏油くんならどうするのだろうか。きっと、上手く言葉をかけて、彼に寄り添うことができるのだろう。そして、きっと、五条くんはこんなになることはないんだろう、夏油くん以外の人間がいなくなっても。
暑さから首筋に汗が流れる。もう、どれくらい経っただろうか、わからない。音も、匂いも、光も無い部屋では、時間の流れさえ上手に把握できない。
ふと、視線を上げると同じくして五条くんも顔を上げた。
それは彼の初めて見る表情だった、ただどういう感情なのかはわからなかった。きっと、神様が作った芸術品の原作があればこんな感じなのだろう、まだ感情が埋め込まれる前の芸術品。凄絶な美しさを持って、五条くんはそこにいた。
澄んだ真っ青な瞳が私を見据えている。視線で射殺されるというのは、きっと今のこの状態のことを言うのだろう。息も、鼓動も、体の機能全てが停止したみたいだった。
そんな私を一瞥して、五条くんはベッドに崩れ落ちた。驚いて視線を向けると、背中を丸めて少し窮屈そうに寝転んでいる。
「…、五条くん」
喉が渇いて、まるで声が張り付いたみたいに不恰好だった。けれど、一応聞こえたらしく五条くんはこちらを向いてくれる。
「いい、何も言うな」
そう言って、五条くんは大きくため息をついた。居た堪れなくなって、唇を噛み締める。恐る恐る投げ出された彼の手に自分の掌を重ねてみると、振り解かれることなくすんなりと受け入れられた。伝わる温もりと脈拍が、彼が確かにそこにいることを証明していた。
夏油くん、どうして。
募る後悔は数え切れないほどあったが、今の私にできることはこれくらいしかない。これくらいしかないんだよ、夏油くん。
「なぁ」
五条くんの声はふわふわと浮雲みたいに部屋に浮遊した。上手く声が出なくて、私は返事の代わりにぎゅっと手を握った。
「名前、呼んで」
はくり、と唇が開閉したけれど、それは呼吸ではなかった。一気に体温が下がっていって、五条くんの言葉を理解するのに時間がかかった。けれど、その意味を理解した時には勝手に涙が溢れていた。
私が、流していい涙ではないことはわかっていた。
「さ、とる」
震える声でその名前を呼ぶと、五条くんはひどく満足そうに微笑んだ。私はやっぱり手を握り返すことしかできなくて、いつまでも止まらない涙がポタポタとシーツに雨を降らせていた。
Lips on you