手繰り寄せた愛だった
*死ネタ
私の恋人はとても優しい。知的で、強くて、スタイルもよくて、私を心から愛してくれる人。
あの温かな掌で撫でてくれるのが、一番好き。
そして、その手でたくさんの人を殺した。
「ただいま」
そう言ってみるが、私に家はない。
いつも簡素なビジネスホテルを転々として生活をしている。荷物は小さなキャリーケース一つに収まる分だけ。季節が変われば、目についたファストファッションの店で必要な分だけ買って、着なくなった分は公共のゴミ箱に少しずつ廃棄する。食べ物はすぐに完食できるものだけで、飲み物も一度で飲み切れるものだけしか買わない。ほとんど、ホテルに篭りっぱなしで外に出るのは移動する時くらいだった。
そんな生活をもう10年近く続けている。人の目を避けるように、まるで私の存在を誰にも見つからないように生きている。
今日のホテルは郊外にある、少し年季の入ったビジネスホテルだった。部屋にはシングルベッドが窮屈そうに収められているだけで、あとは何もない。空調の音が轟々と響くばかりでまるで監獄のような場所だった。傷だらけのキャリーケースをその辺りに放置して、硬めのベッドに腰掛ける。目深にかぶったキャップを取ると少しばかり視界が開けるが、蛍光灯がチカチカと点滅して目障りだった。
小さな窓の向こうは夜が広がっている。遠くにはいくつかの光が見えるが、闇はそれを飲み込むように深かった。冬が深まって、心にそっと影を落としている。
ぼんやりとしていると薄い扉からノックが聞こえたので、解錠して彼を迎え入れた。
「ちゃんと相手を確認してから開けないといけないよ、いつも言ってるだろう」
そう苦言を呈しながらも優しい口調で、傑は私を抱きしめた。大きな体に飲み込まれるようにしてその腕の中におさまる。居心地がよい。
パタンと傑の背中越しに扉が閉まる音がして、それと同時に額にキスをしてくれるので、私も爪先立ちになって頬にキスをした。
柔和な笑みを浮かべる傑に腕を引かれながら、先ほどまで座していたベッドに並んで腰掛ける。
「悟に会ってきたよ」
その言葉に私は一瞬体を強張らせるが、それを悟られないように努めて冷静に相槌をうつ。
けれど、傑はそれすら見透かしたようにくすりと笑って、私の肩を抱き寄せた。
「明日、決行するよ」
短い言葉だった。それでもその意味が手に取るようにわかったので、小さく頷く。傑の心臓の音が聞きたくて自分から腕を回して抱きつくと優しく受け入れてくれた。ドクドクと脈打つ音が聞こえて、そっと目蓋を閉じる。
「だから明日は、この部屋でじっとしてるんだよ。一緒に いられないすまない」
「大丈夫だよ」
そう言って顔を上げると、傑はとても優しい笑みを浮かべていた。そして、いつものように大きな掌で私の頭を撫でる。じんわりと感じる多幸感を忘れたくなくて、再び傑の体にしがみ付いた。
夜は更けていく。どれだけ抗ってもも、止められないし戻ることもできない。なくしたものはもう返ってこない。悲しいわけでもないのに、勝手に涙が溢れた。傑の指がそれをそっと掬う。
私は、あの時からずっと傑の優しさが怖かった。
ピンと糸を張ったような寒さだった。
愛用、というわけではないが、ただ長い間使っていたキャリーケースは駅のコインロッカーに預けておいた。中身はいつものように見つけたゴミ箱に少しずつ分けて捨てておいた。携帯電話も、財布も、すべて。いま身につけているものだけが、私の手元に残った。
「さてと、」
人目を避けるように細い路地裏のその影に潜む。アウターのポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出して、歯で切った指先に滲んだ血をこすりつける。燃えていく紙の灰が集まって現れたのは掌ほどのサイズのコウモリだった。
真っ黒なその個体は私の意思を察して、ゆっくりと手元を離れて羽ばたいていく。
私の術式はまったくもって戦闘には向いていないが、索敵にはうってつけのものだった。コウモリ自体が小さいので視認されにくいのと、使う呪力も微々たるものなので残穢もほとんどわからないレベルだからだ。並の術師や呪霊には気づかれることはない。
一匹目を見送って、もう一匹を同じ手順で呼び出す。その個体には懐紙を折り畳んだものを結びつけて、同じように羽ばたかせた。これで準備は終わりだ。
路地を出てザワザワと人がひしめく人混みの中に飲み込まれるように歩みを進めていく。人の熱の中、息を潜めて目的地へと向かう。これで全てが終わる。
吐き出された白い息はすっと霧散していった。
私は傑のことを誰よりも愛していた。親友よりも家族よりも、この世の誰よりも深く愛していた。
彼が私と同じような気持ちを持っていてくれたことを知った時は、もう死んでもかまわないくらい心が弾んだのを覚えている。学生時代のあの青春は、その一瞬一瞬がキラキラと乱反射するように輝いていた。
陳腐な思想だけど、すべてを捨ててもいいと思っていた。傑がいれば他には何もいらなかった。私のもっているすべてを失っても構わない、傑だけがいてくれればよかった。だから、あの時も彼と一緒にいることを選んだ。
そのことは後悔していない。決断したのは自分だ。けれど、苦しんで苦しんで歪んでゆく彼を救えなかったことだけがこの胸を締め付けた。その役目は私じゃなかったと気づいた時は気が狂うかと思うくらい泣き叫んだ。
私では傑を救えない。なぜなら、隣に立つことができないからだ。弱い私では、彼の隣にいることすら許されなかったのだ。
「だから、最後まで見届けようと思ったんだ」
「…そうか」
夥しい出血をしている割に穏やかに微笑む傑は、私の積年の決意もわかっていたかのようだった。隠しているつもりもなかったが、しかし彼には最後まで敵わないなと自嘲する。
傑は負傷した体でゆっくりと座り込む。その大きな傷が戦況の激しさを物語っている、かなり呪力を消費したのか辛そうな表情が垣間見えた。
膝をついて、そっと掌を傑の胸元に寄せると、昨日と同じように心音が聴こえた。生きている。
「傑」
「なんだ、」
「愛してる」
視線が交差する。瞬き一つすら惜しくて、一生心に焼き付くように傑を見つめて、ゆっくりと唇を合わせた。
「でも、助けられない。たくさん人が死んでしまったから」
そう告げると傑は困ったように笑って、そしていつもの仕草で私の頭をそっと撫でた。
「ユイじゃなければ、いま殺してるよ」
「殺してもいいよ」
「……さすがに、連れて行けない」
傑の手が後頭部に移動して目一杯引き寄せられる。柔らかな体温に包まれて、思わず両手でしがみつく。
この10年、まるで逃亡犯のような生活だったけれど、その不自由さが楽しかった。毎日毎日、いつ終わりが来るのか震えながら怖れていたけれど、それすら愛おしかった。なにも後悔はしていない。
「傑、あの時連れ去ってくれてありがとう」
なけなしの言葉は届いただろうか。震えてうまく声が出なかった。グッと最後に強く抱きしめられて、離れたくないと思ってしまったけれど、背後からの声で否が応でも終わりが来たのだと悟った。
「不粋だね」
「いやいや、これでもかなり待ってあげたんだから感謝しろよ」
悟がゆっくりと近寄ってくるので、私は傑から離れて距離をとる。私の役目はここまでだと重々承知していた。
ただ1人心から愛した人を私は看取る、そう決めてあの日私は傑の手を取って、そうして今ここに立っている。伝えたいことはすべて伝えた、なにも後悔はしていない。ただ、傑を1人ぼっちにさせてしまうことが苦しかった。
滲む視界の向こうで悟の手が傑へと向けられる。やっと終わった、私は役目を果たしたのだ。
「こんな紙切れ一枚で僕に頼み事するって本当いい度胸してるよ」
ぴらぴらと見せつけるように悟が取り出したのは、私が式神に託した懐紙だった。そこには2人の最後の時間をくれるようにお願いする内容が記されている。
悟とは10年ぶりの再会だが、容姿はほとんど変わっていないのに驚く。しかしそれ以上にびっくりしたのは彼の口調や雰囲気がかなり丸くなっていることだ。まるで傑のように感じられて苦笑してしまう、似合ってない。
「これから、どうすんの」
懐紙をびりびりと破きながら、悟は問いかけてくる。
「とりあえずは処罰を甘んじて受けるつもり。裏切ったことに代わりはないから」
「そう。で、そのあとは?」
「…考えてなかったな、どうしよ。中卒なんだけど働き口あるかな」
そう言うと悟は「そのバカっぽいとこ変わってないね」と言い捨てて笑った。そう言えば昔からこうやってよくバカにされてたっけ。
「やることないならさ、僕と一緒に高専の教師やってよ。人手足りないから」
「えぇ、人に教えられることなんてないよ」
「いいんだよ、見守るだけでも。得意だろ」
ニヤニヤと揶揄する悟の顔は、あの頃の無邪気さを思い起こさせた。毎日くだらないことして、しょうもないことでバカみたいに笑えたあの頃を鮮明に思い出す。
「そんでさ、硝子と3人で飲みに行こうぜ。積もる話だらけでしょ」
「いいね、同窓会みたい」
「七海も伊地知もいるし、歌姫も呼べば来るだろ」
「…賑やかで楽しそうだね」
「そうだよ、これから楽しいことは山ほどある。だからさ、お前は生きろよ」
唐突に悟の目が鏡のように私を捕らえるものだから、その鋭さに思わず息を飲んでしまう。
生きていく、傑がいなくなった世界で。
それはわかってるつもりだったけれど、改めて突き付けられると息もできなくなりそうだ。これから待ち受けているのは、とてつもない孤独なんだろう。きっと空虚で、どれだけ足掻いてもその余生になんの意味も見出せないかもしれない。それでも、私は生きることを選ぶしかない。
「生きるよ、だから私が死ぬときは悟が看取ってよ」
「はーやだやだ、その根暗な感じ」
「ここは断らない流れじゃないの?」
「誰が好き好んで同期の死に様を見届けなきゃいけないんだよ、もう今回のでたくさん」
悟は、当て付けのように深くため息をついた。
すぐそばで横たわる傑の表情は、とても穏やかだった。まるで眠るように目を閉じた彼はいまなにを思っているのだろうか。
私はこれから罰を受ける。すべての償いを終えて、さらにこのくだらない人生を全うしたとき、ようやくあなたの元に行くことが許されるのだろう。
次に出会う時は傑の優しさが曇らない、そんな世界であってほしい。そして、あの大きな掌で頭を撫でてもらって、目一杯の幸せを噛みしめたい。
Lips on you