思い出ばかりがこの世で唯一、

 どうやら、私は死んだらしい。
 小説で読み飽きた、そんな稚拙で単調な一文が頭に浮かぶ。手を数度握って開いてみても感覚は全くと言っていい程ないし、そもそも地に足は着いていないし、改めて見てみると腕も足もどこか半透明な気さえして来る。
 目の前に倒れ込んでいる自分の死体を見たって思うことも何も無いし、周りに手を伸ばしたってすり抜けるんだからどうもこうもない。仰向けに寝かされている自分を見つめながら、はてどうしようか、と考えるポーズをとった。……自分の死体をこうまじまじと見つめる機会なんてそうあるものじゃないしどうせなら見ておこうか、と馬鹿みたいなミーハー心が疼く。見るも無惨な血だらけの自分なんて、一生かかったって見る機会も無かっただろうから。身を少し乗り出して自身を見つめた。

「……うわ、傷口えぐ」

 見なきゃよかった。即座にそう思って一歩後ずさる。血も傷口も死体もそれなりに見慣れているけれど、自分の死体を見るのは精神衛生上辞めた方がいいな、と至極当然の結論を覚えた。
 ひとまず最低限の処置だけは施されているけれど、処置がされている時はどうにかまだ生きていたのだろうか。それとも既に死んでいたけどグロテスクが過ぎる部分だけは一応しておいた、とかだったのかもしれない。にしては傷の深刻さがとんでもないのには変わりないけど。どうにせよこれ以上の処置はきっと意味もないし、多分もうこのまま。どのタイミングで死んだのかな、ここまでボロボロになりながらよくもまあギリギリまで生きてたもんだ、と自分のことを褒め称えたくなった。

「……そもそも、この状況ってなに」

 私自身が呪霊なのかもしれないし、ただの幽霊なのかもしれない。もしかすると奇跡が起きてまだ私はどうにか生きていてこの倒れ込んでるのは死体じゃなくて、今は幽体離脱的なことになっているだけかも。……ピクリとも動かないし、確実に息もしてないけど。
 もしも私が呪霊ならとっくにそれを感知した誰かに祓われてるだろうし、まず誰にも認識されてない時点でそれは多分ないだろう。それを踏まえて考えれば一番妥当なのは幽霊、なんだけど、幽霊なんていくら何でも非現実的すぎるし子供の頃の絵本じゃないんだから。結局この不可思議な現状の説明は私には不可能なようだ、と息をついた。

「あ、……硝子」

 ガラ、と大きな音が鳴る。反射的に振り向いて視線もそちらにやれば、少々草臥れた様子の硝子が入ってきていた。もっとも、目元の濃い隈はいつもの事だし特段いつもと何かが違う訳でもないのだけど。
 ……私のこれって、まず反転術式で治るものなのかな。そんな淡い期待と共に倒れ込む自分の元へ駆け寄る。期待半分、諦め半分。可能性が見えたら期待してしまうのが人間というものであって、私も例外無くそれに当てはまっているとわけで。そもそも、ゆっくりと歩きながら何もせず私の身体と向き合っていた時点でそういうことではあったんだろうけど。やっぱりだめか、と乾いた笑いが喉の奥から思わず漏れた。

「……馬鹿」
「はは、硝子は相変わらずひっどいなぁ……キャパオーバーな増援と予想外な等級以上の呪霊相手なんだから、あれでもかなり善戦した方だと思うんだけど」

 数秒から数十秒置いて、ようやく出た一言がそれなのか、と思わず口元が綻ぶ。大馬鹿なのも弱いのに無茶したのも、私が一番わかってる。
 私は対大人数に特化した術式を持っているわけではないし、更に言ってしまえば私の格上の呪霊さえいたのだ。もはや褒め讃えられたっておかしくないような健闘を見せたんじゃないのか、と自分で思う。死んだら元も子もないなんてことはそりゃ当然なんだけど。

「まさか夏油の次がお前とはな、……思ってなかったよ」
「……私も。みんな老衰か、それか死ぬなら悟かと思ってた」

 硝子も禁煙する前のが祟って肝臓やられちゃって、とか考えたことはあったけど、死ぬビジョンをいくら思い描いたって結局のところ自分がそこに行く想定はできたことが無くて。死んでこんな状況になって、酷い話安心さえした。今後どうなるのか……はまだなにもわからないんだけど、心の整理も大方着いたし、傑も死んだ時こうなったりしたのかな、なんて思う。

「精々天国で幸せに生きてくれれば、それ以外望むこともないんだがな」
「天国、行けるかなあ……普通に地獄行きじゃない? でもまあ、天国行けたらのんびり過ごしながら硝子と悟のこと待ってるよ」

 天国と地獄は存在するのか、なんて哲学的な議論は置いておいて。三十も手前、人生これから。そんなタイミングでこの世とオサラバだなんてとことんツイてないけれど、もう死んだものは今更どうしようもない。悟と硝子が老衰で死んで来るのを傑と一緒に待ってみて、そしたらまた四人でたくさん話して。何十年後の話になるのかな、なんてそんな未来図を描いていたらなんだか眠くなってくるように感じた。

「お疲れー。容態はどう?」
「……お供え物のひとつくらい寄越したらどうなの、悟」

 ぱち、と眠気に負けて閉じかけていた目が覚める。開け放しになっていた扉から入ってきたらしいこの声は、と視線をあげれば、目隠しを首元まで下ろして緩く手を振って、けれども軽快に話すその声はいつもより低い。悟だ、と声が零れる。思わず飛び出た言葉だって届くはずもなくて、私は自分の死体を意味もなく睨みつけて。冷静に話す硝子の後ろ姿といつもの様子で自由に歩き回る悟を黙って見つめた。どこもかしこも血だらけで判断に困るけど、そういえば一番大きい傷はどこのだろう。

「死因はここ心臓と腹ね。それと他の細々したやつもちょっとずつ累積されて、背中のとかは心臓と腹で死ななくても時間の問題だった。……そういう傷」

 胸元と、脚と、お腹と。順に指をさしながら硝子の解説を黙って聞いて、なるほどたしかに傷の深さが伺える、これはさすがに死ぬよね、と思った。残念ながら私はこれでも尚生きていけるような超人じゃない、生命力はただの一般人並にしかないんだから仕方がないだろうか。仰向けになっていた身体をくるりと反転させてうつ伏せにして、背中の傷口を見せて、また仰向けにして。反転術式も上手く扱えないからあの場で自分の処置をすることもできなかったし、そういえば背中がやけに痛くなったんだよなあ、こんな傷があったら仕方ないか、と少し前の記憶に思いを馳せた。

「うんうん、なるほどね」

 そっか、それで? 悟はそうやって続きを促すように相槌を打って。それで、も何も無いに決まってるでしょ。死んだ、解説した、おわり。そういうものじゃないの? 逆に続きで何を望んでいるの? そんなごちゃ混ぜになった思いが伝わったのかなんなのか、悟は私の死体の顔に掛けられた布を半ば強引に取り去って床に放って、同じ表情のまま言葉を続けた。
 私は腕を伸ばして自分の頭に触れてみたけれど当たり前のようにその感触はすり抜けていく。はぁ、とため息をつけば、言葉に上手く形容できない虚しさが胸中を支配した。
 声だけでも姿だけでも見れるようになってくれたらいいのに、怒ったって泣いたって騒いだって届かない。その癖床には座れるなんて嫌にどこか歪だ。自分が寝かされている寝台の横に座り込んで、聞こえる音を拒否するみたいに耳を塞いで。どうしたって声を排除することは出来なくて入ってくるけれど、少しかマシになった気がした。

「で、この随分と性格の悪いドッキリのネタバラシはいつやんの?……いやー悠仁の時を思い出すね、まさか僕がドッキリされる側になるなんて思ってなかったよ。よくここまで準備したもんだ」
「……悟?」

 なんてことない日、くだらないことで人をからかうみたいに、いつも通りのおどけた調子。……それはあくまでもここがこんなに血と気悪な雰囲気に塗れた空気感じゃなければ、の話なんだけど。鼻歌さえ歌い出しそうな勢いで機嫌のいい目の前の大男を見ながら、ぼんやりと耳を傾けた。
 ていうかドッキリ、って。どこからどうみたって現実そのものなのに何を一体。そんな疑問のたっぷりと籠った声が出た。確かに脈も心拍も測ってないけど、悟なら見ただけで生きているか死んでいるかなんて簡単なこと、わかるのに。そりゃ悠仁の時は、


『故人の虎杖悠仁君でぇーっす!!』

『黙っててすんませんでした……生きてること……』


 ……どこか懐かしいような、ついこの間の交流戦。盛大なサプライズで登場した悠仁の時は結局、本当に死んで何らかの出来事で生き返っていたのか反転術式で治ったのか、終始死んだふりだったのかそこまでの致命傷を受けたわけじゃなかったのか。いくつか考えつく選択肢の中でどれなのかということを私は最後までわからずじまいだったけど。

「五条お前、死んだことくらいとっくにわかって、……いや」

 当然私と同じことを思って口にしかけた硝子は、血がこびりついて固まった硬い私の髪の毛を柔く撫でつけて。地面に落ちた布を放ってまた真新しい白布で私の顔を覆わせて、悟になんでもない、と一言残して部屋を出ていった。
 悟は多分、私が生きてたらもっと必死になってたんだと思う。もう死んでいることがわかって、それでも硝子の前だからこう言う言い回しをしてるんだ。いや、案外硝子のいない私と一対一の空間だとしても同じだったかもしれない。悟からしたら誰も周りにいないんだから、そうやって変に取り繕おうとする必要なんて一切ないのに。……何にせよ悟はなにか様子がおかしくて、思わず閉じていた私の口が開く。

「……悟、私、大丈夫だよ。弱っちいし情けないし駄目駄目だったけど、任務はちゃんと遂行出来た。一般人を守り抜くこと、できたんだよ」
「一人が無理だったなら、逃げるなり、助けを求めるな。選択肢はあったはずなんだけどね。火事場の馬鹿力を発揮するのはいいけれど、呪霊と心中するのはまったくもっていただけない」

 だから、大丈夫。そう続けようとした直後に被せるように話し始めた悟の声で、思考が止まったような錯覚を受ける。お説教なのか大きな独り言なのか自分の気持ちの整理をしようとしているかなんて私には知ったことじゃないけど、少なくとも呪いを祓って一般人を守るのが呪術師の役目でしょ。呪術師一人が死んで大勢の一般人が助かるのと、呪術師一人が生きのびて大勢の一般人が死ぬの、一体どっちがいいの。悟の言葉に反発するように小さくごちて、ふい、と背中を向けた。

「一般人を守って潔く散る、もし英雄ならば誇らしい限り。それもこれも大いに結構。でも僕らは呪術師なんだ、ヒーローでもなんでもない。呪霊を祓って民を守って、その上で生きてこそ僕らには意味がある」

 呪術師が非術師のことを守るのは、実際のところただのエゴでしかなくって。私だって死ぬつもりは毛頭なかったけれど、それでもあの場では一般人を守ること、呪いを祓うことを優先して死んだ。死んだら全てが無駄になって、遠くない未来で守れた人を守れなくなったかもしれなくて。
 常に人員不足の呪術師は当然有限で、救える数だって勿論無限じゃない。だからちゃんと呪いを祓って生きて帰ってきて、そこで本当に救えたことになる。

「……生きて、こそ」

 あれ、なんだ。それじゃあ私、任務の完全遂行、できてないじゃん。最後の最後までポンコツで弱っちいな、そんな風に自分のことを少し笑った。気づくのは、結局手遅れになった後で。だから嫌なんだ、自分のこと客観的に考えるの。情けなくて悔しくてどうしようもなくなって、その感情の吐き出し口すらわからなくなっちゃうから。

「でもま、僕最強だから。お前一人くらい居なくたって、──」

 私一人くらい居なくたってなんとかなる、悟はそう言おうとしているんだろうと簡単に察しが着いた。それはいつもの口ぶりでいつもの調子で、いつもと何も変わってなくて。けれどそこで言葉が突如詰まって途切れたことを不審に思って、なにがあったんだ、と身体と視線を乗り上げて悟に向けて、その瞬間にどうしようもなく後悔をした。

「やっぱさ、そういうドッキリかなにかでしょ?」

 一泊置いて出したその言葉は、声のトーンが少し上がっていた。上擦っていた、という方が正しいかもしれない。唐突にも程がある話題転換と事実から随分と捻じ曲がったあまりにも意味がわからない発言に私は驚きを隠せなかったけれど、悟はなるほどね、なんて言いながら軽薄なノリで言葉を続ける。

「急に死んだら五条悟はどんな反応をするのか、みたいな。いやーすごいすごい、発想も行動力も全てにおいて素晴らしい。僕今色々話しちゃったじゃん、会話誘導も上手いもんだ。……これ、一体どんな手使ったの?」

 発想も何もそんな考えに至る前に死んでる、誘導も何も悟が一人で話してるだけ、特別な手なんて使ってないしこんな状況じゃ使いようもない。どうもこうも私は死んでるんだから六眼で確認すればそんなの一目瞭然なのに、目隠しだって首元まで下げてるんだから私の事見た瞬間にわかってたはずなのに。シラを切っているのか動転した結果現実逃避してしてるのか、高笑いでも始めそうな勢いの悟に言葉で表せない恐怖を感じた。でも怖いとか恐ろしいとか、そういう純然とした感情とはまた少し違っていて。

「……悟、なんでそんな顔」

 いつもの余裕綽々な顔をしているはずなのに、拭えない違和感があった。本心からのおかしいくらいの陽気じゃなくてただの空元気にしか見えない。言動、行動、態度、一つ一つを取れば納得できるけど、統合したそれは私の知る悟じゃ起きえないもので。それよりもなによりも、ぺらぺらと饒舌に語る言葉よりもその表情の方がその心情を雄弁に語っていた。

「僕の眼で見ても呪力が感じられない、死んでるとしか思えない。新発見の超才能じゃん」

 ……だってこんなの、ただの現実逃避と大差無い。

「あ、そうだ。今度それ使って一発芸でもやる? お上は絶句、僕とお前はドッキリが成功した喜びとその反応で抱腹絶倒。そんでもって更に……」

 すらすらとそんなありもしない先の話をして、今はもうあるのかどうかすら分からない鳥肌が立った感覚がして。当然動かない私の返事をどうしてか数秒待ってわかりやすく首を傾げて、手を口に添えてメガホンの形にして部屋に響かせながら言う。

 うるさいな、ただでさえここは他に何も無い部屋なんだから。わざわざそんなことしなくたって聞こえてる、なんなら囁き程度の声だってきっと聞き取れる。けれども悟はそんなことお構い無しに、私の耳元に口を寄せて反響させるように大きな声を上げた。

「おーい、昼寝には長すぎるんじゃないの。もうさっさと起きなよ寝坊助、後片付けも仕事も滞って仕方ない」

 おまけに額へデコピンをひとつ。痛みなんて感じるはずないけれど、額が少しピリッとする感覚があった気がした。寝てるわけないでしょ、起きれるもんならとっくの昔に起きてる。私は雑務専用係でもなんでもないんだけど。そんな憎まれ口はいくらでも取り出すことが出来て、でも私の口から実際に出たのはあまりにも簡素で情けない、ほんの一言だけだった。

「わたし、……私、ここにいるよ、もうずっと、起きてるんだよ」

 私の肩をゆさゆさと動かすその腕に手を伸ばしても、裾を引っ張ろうとしても、触れることは出来ない。悟は一瞬目を細めて、 ぐ、と手を力強く握った。そのままどこか苛立った様子で一歩進んで、ゴン、と足元に転がっていた木箱を蹴り壊して。その耳を劈くような音に思わず身体を跳ねさせた途端、それに連なって怒りを顕にした震える声が空気を揺らした。

「……っだから、もう充分騙されたっつってんだろ、なぁ」
「悟、やめてよ」

 そのまま視界がゆれてぼやけて、ぱさ、と乾いた音と共に落ちたのは私にかかっていた顔布で。消して綺麗とは言えない自分の死に顔を見ていることができず、目を逸らした。強引に体を起こさせて、肩を強くゆさぶって。数年ぶりかに聞くようなその大きな声が、もう機能しているんだかわかりやしない鼓膜を振動させたのをたしかに感じた。

「おい、さっさと起きろって!!」

 泣かないでよ、なんて、当の私が泣きながら言ったって説得力の欠片もないに決まってるのに。涙混じりの私の声は響くことなくすぐに掻き消えて、らしくない悟の荒らげられた声は反響しながらゆっくりと消えていく。頬を伝って落ちた涙は床に到達する前に不思議と消え去って、私の嗚咽もどこにも聞こえることは無い。

「傑の一周忌、一緒に行くんじゃなかったのかよ」

 その声が、どこか震えていたように感じて。悟が動揺するのなんていつぶりだっけ、なんて場違いなことを思った。そうだ、傑の一周忌まで、あと数ヶ月だけで。今度の休みにはお供え物でも買おうって話して、そっちに行くのはまだ先になりそうって、言うつもりだった。

「行くつもりだったよ、……行きたかったに、決まってるでしょ」

 傑が死んでから、まだ半年と数ヶ月しか経ってない。十二月二十四日のクリスマスイブ、世間の喜びのように一緒に盛り上がるどころか百鬼夜行だなんてとんでもないテロと共に元同級生の死を迎える最悪の一日で。そっか、まだ一年すら経ってない。ついこの間起きた出来事なんだった。
 だからこそ今年は傑の一周忌に行って、高専のみんなとケーキでも食べて。傑の分まで今後の人生楽しんでやって、死んでから会った時大量に思い出話抱えてやろうって。会う時には四十年分くらいの思い出持っていこうとしたのに。
 煮えきらない頭はどこか見当違いなような正常なような、ぐずぐずとした思考を繰り返す。過去と未来に思いを馳せては現実を思い返して。ああもう、死んだの、くやしいよ。

「冥土で、傑に嫌味のひとつかふたつでも言っとけ」
「……うん。言いたいこと、数え切れないくらいあんの。悟の分も、言っとくね」

 何発か顔も頭も殴ってやって、もう聞きたくないってくらい怒り散らしてやって、なんでこんなことしたの、なんでなにも話してくれなかったのって言ってやって。大泣きしてやったら傑は驚くかな。それくらいのことをお前はしたんだ、って言って、それで。
 流れてくる沈黙が痛くて、かと言って私が何を言ったってどこにも誰にも聞こえやしな行くて。未来予想図、なんて名ばかりを現実逃避をしながらただ黙って流れる沈黙を甘受した。

「……五条、そろそろ時間だ」

 今日で数回目の扉を開ける音が響いて、数分か数十分か前に見た顔が書類片手に部屋へ入ってきて。こっそり動いて覗き込んで見に行ったら任務とか招集とか、悟宛の物事が箇条書きに並んでいた。今すぐの緊急要項もあるし今から急いで向かう必要があるんだろうな、さすが特級術師様、と、空気に似合わずくだらない茶化すようなことを思った。

「……わかった」

 硝子がいくつかピックアップして読み上げる度、悟の苛立ちが増しているように見えて。……そりゃ仲間の死にも浸らせてくれないなら怒るだろう、私がその立場だとしたって怒る。それ以前にそこそこの階級でしかない私にはそこまで大量の任務なんてなにが起きようと来やしないんだけど。

「今どれだけ沈んでいたってどうでもいいが、お前が今後もその調子なら虎杖達までそれに引っ張られるぞ」
「……わかってるよ」

 先に戻るんだろう。硝子の差し出す紙を乱雑に奪った悟は、また来ると言ったきりそのまま部屋を急ぎ足で去っていった。部屋を出る直前のほんの一瞬だけこっちを見たけれど、開きかけていた口は何を伝えようとしていたんだろうか。……それを横目で見ていた硝子は特段変わりなく淡々としていて、壁に寄りかかって息をつく。そのまま換気扇を回して、ポケットから見覚えのある箱とライターを取りだして。あれ、ちょっと懐かしい。それ見るの、何年振りだろう。

「硝子、……」
「……ふぅ」

 禁煙してたのに、いいの? 換気扇に吸い込まれていく煙をどこか上の空になりながら眺めながら問いかけた。どうせ聞こえやしないんだから何を言っても問いかけても無意味なことはわかりきっているのに、未だ踏ん切りが付かずにそんな言葉を零す。

「今日くらいいいだろ。明日からはまた、やめるよ」

 箱からもう一本煙草を取り出す。もう何年も禁煙してたはずなのに、ヘビースモーカーは今でも相変わらずらしい。いい訳のように……というか言い訳なんだろうけど、苦笑を浮かべながらそんな言葉を述べた。あれ、もしかして聞こえてるのか、なんて考えて一本の煙草が吸い終わるまで存分に騒いでみたけど、結果は一切耳も貸さなれない、視線だって一度たりとも向けられない。

「肝臓やられてポックリ逝っちゃった、とか、ごめんだからね」

 よっと、硝子はそんな軽い掛け声を上げながら寄りかかっていた壁から立ち直した。隣で座り込んでいた私になんて目もくれず二本だけ欠けた煙草の箱をそのままポケットにしまって、ヒールをカツカツと鳴らしながら私の寝かされている台まで進んで、息を浅くはいてから喋りかける。

「……おやすみ。私はゆっくり向かうから、待たなくてもいいよ。五条は……暫く荒れるだろうが、大したことじゃない」

 カツン、と床を踏みしめる音が響いた。数秒、数十秒、数分。ぼんやりとどこか遠くを眺めるような視線を流すように見ながら、時間が経つのを待っていた。なんとなく噛み締めるように硝子のその言葉を頭の中で繰り返して、飲み込もうと咀嚼する。待たなくてもいいなんて、そりゃまた随分と酷なことを言うものだ。私に届きやしないと思って雑にまとめて言っているんだろうけど、それは硝子なりの労い方で。私は思わず溢れる笑いをそのままにして、笑い混じりに一言だけを喋りかけた。

「硝子、ありがとね」

 きっと息を吸う音ですら聞こえやしないんだろう。でも、硝子だって私に届きなんてしてないと思ってるんだからお互い様だ。さっきと違って、今度はどこか居心地のいい沈黙が流れ出す。緩く口元を綻ばせた硝子を横で見つめながら、寝かされている自分の身体に背を向けた。台によりかかって身体を預けて、足をパタつかせる。

「あ、あと一つ。女がそんな簡単に死に顔見せるんじゃない、……どうせ五条がやったんだろうけど。大丈夫、ちゃんと綺麗な顔して死んでるよ」
「……硝子に言われても。何重に包んだお世辞なの、それ」

 また新しく布を引っ張り出して顔を覆わせる。布、三枚目だなあ、と一周まわってどこか愉快な気持ちにさえなりながら見つめた。言われた言葉にも反射的に返事をして、悟がどれだけ動揺してたってやったことは大概だよなと思って、でも人前にみせても大丈夫な顔なら、まあいいか。楽観的に捉えるのが特技な頭はそんな風に自己完結して終わらせた。

「……と、私もそろそろ行かないとな。……うん、いつかまた、ちゃんと会いに来る」

 そんな状況になって、また数分。緩慢な動きで時計を確認した硝子はため息を数回落として、扉へ歩きながらそう言った。何だか少し重くなった体を引っ張って、扉の前まで着いて行って進む。また来る、って言ったってその時にはもう冥土に行ってそうなものだけど。

「……うん。硝子、またね」

 じゃあね、と硝子は最後に手を振って、そのままぱたんと扉が閉じた。その前に立ち尽くして、ぼんやりと考える。どれだけ待つことになるかなあ。いつ来たとしても、早すぎでしょって言ってやるんだ。そしたらきっと呆れた顔で、仕方ないやつだなって笑ってくれるかな。傑と二人で、どうやって出迎えてやろうかな。そんな風にずっと先の未来のことを緩くて簡単な頭で考えて。あ、でも、やっぱり。

「三十年は待ってたいなぁ。私、待つのも出迎えるのも、得意だから」

 なんだか眠くなってきて、目を開けたままでいるのもなんだか億劫で。ああ、そういえば私死んだんだったっけ。今まで見てきておいて何を今更、そんなことをふと思って、口元が不思議と綻んで。おやすみなさい、どこにも届かない、誰に聞こえるでもない一言だけが、最後に口の端から漏れていった。

 人の記憶は声から順に消えていくというのは有名な話で、きっと私だってその例に漏れず順に忘れ去られるんだろう。いつかは記憶も顔も声も全て忘れられてしまって、けれど私が残せたものは、きっと。

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