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「……嘘」
耳に届いたのは試合終了のホイッスル。目の前にはコートで膝をつく飛雄くんと日向くんの姿。そんな二人に背を向けた及川先輩は、静かに前を見据えていた。
「おい」
「ん?」
「――どうして最後のが“神業速攻”だって分かった?」
「ああ……」
「次、烏野に速攻を使えそうな場面があったら飛雄は必ず神業の方を使ってくる。頭に入れといて」
「飛雄が烏野のあの面子の中で“進化”したからだよ。……今までちゃんと理解していなかった鶫ちゃんの言葉の意味もようやく拾い始めた」
そして飛雄は初めて、信頼を覚え始めた。
「デュースが続いて身も心も疲労のピーク。本当に追い詰められた土壇場、そこへ与えられた貴重なチャンス」
その時“今の”飛雄の選択肢はひとつしかないんだよ。
冷静かつ的確な及川の読みでラストがドシャットで終わった日向と影山は、ネット際で腰を落としたまま動こうとしなかった。その様子に鶫がぐっと息を飲んで僅かに下唇を噛んだ時、澤村が二人に整列だと声をかけた。
「キャプテン、すみませ」
「今のはミスじゃない」
ミスじゃないから、謝るな。
エンド際に烏野と青葉城西の面々は最後の挨拶を終えて握手を交わすと、烏野のチームメイトは澤村の声で客席へ整列し応援にきていた人々へ頭を下げた。そんな彼らに滝ノ上や嶋田だけでなく青葉城西を応援していた女子高生や他校生も拍手を送り、嶋田たちは良い試合だったと声をかけた。
再び頭を下げてベンチへ戻る彼らの背中を二階から見送っていた滝ノ上は何とも言い難い表情で目を細めた。
「……負けた時にさ、良い試合だったって言われんのが嫌だったよ」
「?」
「“でも負けたじゃん”ってさ。……けど、いざ声掛ける側になった時」
それ以外に妥当な言葉って分かんねえもんだな。
挨拶を終えてベンチに戻ってきた烏野の面々。悔しげにぐっと息を飲みながら日向が何かを言いかけたが、それをかき消すようにボールを入れたキャスターの音とそれを押す選手たちの声が響き渡る。その音に日向が思わず後方へ振り返ると、烏養が直ぐ撤収だと告げた。
「次のチームのアップが始まる。クールダウンは上か外でやる」
「……」
「青城は少し間を空けてから続けて準々決勝だ」
――コートに残るのは、強い奴だけ。
「……」
烏野高校。IH宮城予選、三回戦敗退。
「――“一人だけ上手くても勝てないんだよドンマイ”って言ってやるんじゃなかったっけ?」
ユニフォームを着替えながら岩泉がそう問いかけると及川は渋い表情をし、袖を通したユニフォームの裾を両手で下ろした。
「……一人だけ強いワケじゃなかったじゃん、烏野は」
「お前めんどくせーな」
「酷いな!」
そこまで言わなくても良いじゃんと眉を寄せながら及川は先程までの試合を思い返す。ネット越しに見えた月島と影山のブロック、確実に岩泉にトスが上がると読んできたあのプレーを。
「2セット目のラストで岩ちゃんのトスを読まれた時、飛雄が独裁の王様からマトモな王様になろうとしていると分かった」
「……」
「もし飛雄が昔の“独裁者”のままだったとしても、ラストはチビちゃんに上げたかもしんないけど……その場合は“可能性がある”ってだけで“絶対に上げる”とまでは思えなかった」
俺の攻撃を読んでみせたことが今度は読まれることになっちゃった訳だと及川は襟を正しながら言うと、あの影山がやっと他人への信頼を覚え始めたって訳かと岩泉は言葉を溢す。それにひとつ頷いた及川は少しだけ目を細め、此処にはいない鶫の顔を思い浮かべた。
「……」
――今まで伝わらなかった、鶫ちゃんの言葉。
鶫ちゃんの采配と先読みの技術と見方が、確実に飛雄に伝わり始めてる。鶫ちゃんのレベルには誰もたどり着けないだろうけど、飛雄は“普通よりも”周りが見られるようになってきた。
鶫ちゃんの采配が正しく理解出来るようになった時――飛雄は本物の天才になる。
「――ホント、厄介この上ないよねえ」
「舞雛、ミーティングの準備は?」
「大丈夫です。試合内容のデータも簡単にまとめてあります」
「助かる」
会場外の日陰がある階段脇でチームメイトの輪に混ざりミーティングの準備をしていた鶫は、烏養に声をかけられてノートから顔を上げた。ちょうどまとめ終わったそのノートを烏養に手渡すと彼はパラパラと捲りながら目を通し、ふと周囲に目を向ける。
「……日向と影山、何処に行ったか分かるか?」
「近くの水道だと思います。さっき行くのが見えましたから」
「そうか。ちょっと様子見てきてくれ」
「はい、分かりました」
クールダウンをする部員たちの脇をすり抜けて日向と影山が向かった水道の方へ足を進める間にも、体育館から声援やボールの音が外まで響いてきていた。
つい先ほどまであの場にいたはずなのにもうその舞台に立つことはできない。そう考えると少しだけ足が重くなったがミーティングを遅らせるわけにはいかないので、無理やりに足を前へ進ませる。
「……あ、いた」
部員たちが集まっている場所から建物の影にはなっているもののあまり離れていない場所にある水道で日向と影山の姿を見つけた鶫は彼らに声をかけようとしたが、重い空気に直ぐに気が付いて思わず足を止めた。
「……ミーティング始まる」
「……」
水道で頭を冷やしている影山に日向がそう声をかけたが彼は直ぐに返事をせず、しばらく頭を冷やしてから蛇口を締めて顔をゆっくりと上げる。その表情は鶫がいる方向からはちょうど陰になっていて見えなかったが、どんな顔をしているのかは容易に想像できた。
「――悪かった」
「!」
「最後、完全に読まれた」
「――っ謝ってんじゃねえよ!」
「!」
影山の謝罪に日向は食って掛かると彼の胸倉を掴んでそのまま芝生の方へ倒れ込み、尻餅をついた影山の前で膝を折る。
「おれに上げたのが間違いだったみたいに言うな!」
「っ……」
「――ミーティング、始まってしまいますよ」
「!」
このままだと喧嘩になりかねないと鶫がその場から足を踏み出そうとしたが武田の姿に気が付いて前に踏み出しかけていた足を戻し、様子を窺うことにした。
「今日も素晴らしい活躍でしたよ、二人とも」
日向が声を荒げ影山が何時もと違う様子だということに気づいているはずの武田は変わらず何時もの調子で彼らに声をかける。何時もと変わらない優しい微笑みを浮かべる武田に日向は静かに眉を寄せ、奥から声を絞り出すように喉を震わせる。
「……でも、負けました」
「確かに負けました。でも実りある試合だったのでは?」
「……」
「――“負け”は弱さの証明ですか?」
「!」
「……?」
武田の言葉の意味に気づいた鶫は目を見開いた。しかしその言葉を向けられている日向と影山は不思議そうな顔をしていて、武田はそんな彼らを穏やかな瞳で見つめる。
その目は頼もしく、師と呼ぶべき人の顔をしていた。
「君たちにとって“負け”は試練なんじゃないですか? 地に這いつくばった後、また立って歩けるのかという」
君たちがそこに這いつくばったままならば、それこそが弱さの証明です。
静かに紡がれた武田の言葉に二人は芝を握りしめていた手を緩め、その場からしっかりと立ち上がる。それを見た武田は満足そうに微笑んで、二人と共にミーティングが行われる場所へ歩いて行った。
鶫が来た道とは違う道を通って歩いていく日向と影山の背中。それを見た鶫はどこか苦しげな表情で眉を下げ、空を見上げる。
「……地に這いつくばったままなら、弱さの証明」
飛雄くんと日向くんは、前に進み始めた。
真っ直ぐな目で前を見つめて、しっかりとした足取りで頼もしい背中をしている。
「それに比べて、私は」
今でも“背中”が怖くて、震えてばかり。
「……なにも、昔と変わってない」
同じことを繰り返して、力になれなかった。みんなの声を聞いてあげられなかった。
そんな私がみんなと同じように肩を並べて進むことなんて、できるはずがない。
「……本当に、私って馬鹿」
背中を押してほしいくせに、押してもらうことがとても怖い。
日向と影山の背中が見えなくなった頃に鶫はポケットに入れていた携帯から烏養に頼まれていた店へ連絡を入れ、足早にミーティング場所に合流した。
日向と影山を呼びに行ったはずの鶫が遅れてきたことに烏養は首を傾げたが、鶫は連絡を入れていたからと適当な理由をつけて誤魔化してミーティングの輪に加わる。その後は青葉城西と泉石戦を見届け、会場を後にした。
「よし、じゃあ飯行くぞ。もちろんオゴリだ」
「えっ」
バスの前で烏養の突然の提案に部員たちは目を丸くし、澤村と菅原は顔を見合わせる。
「飯……スか? いやでも――」
「いいから食うんだよ」
戸惑いを含んだ澤村の言葉を遮り、早くバスに乗れと急かす烏養は先にバスへ乗り込む。そんな彼の様子に部員たちは戸惑いつつも背中を追うようにバスへ乗り込み、会場から真っ直ぐに向かった先は学校近くの商店街にある居酒屋おすわりという店だった。
店前には準備中という札があったが烏養はそれを気にした様子もなく引き戸を開けて店内へ入り、部員たちも戸惑いながらその後に続いて店内へ足を踏み入れる。店内に客はいなかったが、代わりに長机の上に大皿に盛られた食事とごはん茶碗が並んでいた。
「ほら、突っ立ったままじゃなくて座れ」
「……っス」
座れと言いながらひらひらと手を振った烏養の勧めで部員たちは料理の盛られた席に腰を下ろし、烏養は彼らの脇をすり抜けて店主のおばさんに声をかけた。
「おばちゃん悪い。開店前に」
「なあんのおー。こんなの前はしょっちゅうだったじゃないの」
電話をかけた時と同じ声だと思いながら鶫も部員たちの輪に加わり、何時もなら声をかけてくる影山がそうしてこなかったので日向の隣、長机の一番端に腰を下ろす。
店のおばさんと話し終えた烏養が戻り腰を落ち着けると、戸惑いを顔に浮かべる部員たちの顔を見回し、真っ直ぐな目だが優しく語り掛けるような声色で話を切り出した。
「――走ったりとか跳んだりとか、筋肉に負荷がかかれば筋線維が切れる」
「……」
「試合後の今なんか、筋線維ブッチブチだ」
それを飯食って修復する。そうやって筋肉がつく。
「そうやって強くなる」
「!」
「だから食え。ちゃんとした飯をな」
烏養が何を伝え何を言いたいのか。それを察した鶫が顔を上げると、視線の先にいた烏養と武田は落ち着いた表情を浮かべていた。
戸惑いながらも澤村がいただきますと手を合わせれば他の部員たちもそれに続き、奥の厨房からどうぞーと間延びしたおばさんの声が聞こえてくる。
「……」
最初は食器の音と咀嚼する音だけの静かな空間だった。
しかしその静けさは彼らの箸が温かい食事を口にするたびにだんだんと嗚咽で打ち消されていき、大皿の料理が半分になる頃には、部員たちは静かに涙を流しながら大きな口を開けて食事をしていた。
「……」
――食え、食え。
少しずつ、でも確実に。強くなれ。