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夏休みのオフもそんなに長くないし、一回くらいは鶫ちゃんと会いたいなと思って。
それに――話したいこともあるんだ。
その及川のひと言から始まった電話で迎えた翌日。鶫が姿見の前で身支度を確認し終えたところでインターホンが鳴り、モニターで訊ねてきた人物を確認してから玄関に出た。玄関先では何時も見慣れているジャージや制服ではなく私服を身に纏った及川が立っていて、おはようと笑い軽く手を振っている。
「迎えに来たよ」
「わざわざすみません」
「良いって良いって。俺が迎えに行きたくて来ただけだからさ」
「ありがとうございます」
「準備は大丈夫? まだ済んでないなら待ってるよ」
「もう終わっているので大丈夫です、ありがとうございます」
鶫が玄関に鍵をかけて及川の元に歩み寄ると、及川は今日も可愛いねと嬉しそうに微笑んでそっと手を差し出す。差し出された手の意味を読み取れなかった鶫が首を傾げると及川はぷっと噴き出して笑い、そっか分からないよねと笑いながら鶫の鞄を指差す。
「鞄、貸して」
「え?」
「俺が持つよ」
「そんなに重くないですよ?」
「そうじゃなくて。俺が持ってあげたいの」
ほら貸してと及川は鶫の鞄を慣れた手つきで丁寧に攫うと自分の左肩にかけ、そのまま左手で鶫の右手をそっと握る。流れるように握られた手に鶫は目を丸くしたが、そのことを口にする隙を与える前に行こうかと及川は声をかけて歩き始める。
鶫の歩幅と歩調で二人が彼女の家付近の十字路を曲がった時、空き時間ができた影山が部屋着で家から出てきて鶫の家のインターホンを鳴らした。
「……出て来ねえな」
インターホンを鳴らしてしばらく待ったが、鶫が出て来る様子がないので影山は首を傾げる。
「出発前の買い出しでもしてんのか?」
「今日はラッキーだね」
何時もはもうちょっと混んでるけど直ぐに座れたと笑う及川に、鶫は人気のカフェなんですねと店内を見回す。
店内は木目調のインテリアと観葉植物が適度に配置された落ち着いた雰囲気で、客層は若者が多いがその殆どが少人数で利用している。
「この辺りは青城の近くだしあんまり来たことないか」
「そうですね。あまりこの辺りは来たことがないです」
「俺はたまに来るんだよね。あ、勿論一人でね。岩ちゃんとか他のメンバーはカフェっていうよりラーメン屋って感じだし」
「確かに、カフェに来る印象はあまりないかもしれませんね」
「でしょ」
店内の奥にあるテーブル席に案内されメニューを開いた及川がオススメだよと指差したのは、店側もオススメと記載しているケーキセット。添えられている写真には色鮮やかなケーキが綺麗に盛り付けられていた。
見栄えも種類も目を引くケーキが多く鶫がどれにしようと目移りしている様子を及川は隣で楽しそうに眺め、鶫ちゃんならこの辺りが好きそうだと思うなといくつか候補を挙げた。
「あとこれも好きそう」
「あ、それも良いなと思ってました」
「好きそうだよね」
「どれにするか迷っちゃいますね……」
「それなら俺はこれにして、鶫ちゃんこっちにしようよ。来たら半分ずつにしてさ」
「良いんですか?」
「勿論」
俺もこのケーキ好きなんだよねと及川は笑い、ベルを鳴らして店員にオーダーを取ってもらう。
店内が比較的落ち着いているのか、オーダーしたケーキセットは直ぐに運ばれてきた。真っ白な皿に綺麗に盛られたケーキに鶫が嬉しそうに目尻を下げる様子に及川も釣られて目尻を下げ、写真を撮るか否かを確認した後にケーキを半分に割って交換をした。
「いただきます」
「どう?」
「――美味しいです」
「それは良かった」
口に合って良かったと笑った及川もコーヒーを啜り、向かい側で嬉しそうにケーキを口にする彼女の様子に表情が更に緩んだ。
何時もと比べて穏やかな及川の様子に気付いた鶫が今日は何時もよりリラックスしていますねと首を傾げると、考えていることの一部分を言い当てられた及川はそうかもねと目を細めてコーヒーカップをソーサーに戻す。
「貴重なオフに鶫ちゃんと会えて嬉しいんだよ」
「及川先輩とこうして二人でお会いするのは、確かに久しぶりですよね」
「――ぷっ、ははは。まあ、そうだよね」
「?」
そういう意味じゃなかったんだけどいう言葉を飲み込むように及川は笑い、中学の頃に比べたら会う機会も話す機会も随分減ったよねえと言葉尻を少し間延びさせる。
「ま、学校が違うと仕方ないんだけどね」
「ええと……」
「あ、他意はないからね。純粋に学校が違うと会えないねーって話」
鶫が誘いを断って青葉城西に進学しなかったことを話してる訳ではないと及川は直ぐにそのことを否定し、それに今日はそんな話をする為に時間を作ってもらった訳じゃないからと手をヒラヒラと振る。
「そういえばお話したいことって何ですか?」
「それはまた後でね。行きたい場所があるから其処に連れて行くのが先かな」
「行きたい場所ですか?」
「そう。着いてからのお楽しみ」
鶫ちゃんもよく知ってる所だよ。
「私もよく知っている所、ですか?」
「うん。でも今はそれよりも鶫ちゃんの近況が聞きたいかなー。最近はどう?」
「特に変わったことは……。高校にも随分慣れました」
「それは良かった。空き時間は読書してるって中学では言ってたけど、今もしてる?」
「はい。最近は外国語の本を読んで語学勉強も兼ねています」
「勉強熱心だね。俺は相変わらずバレー雑誌ばっかりだよ」
「ふふ、及川先輩らしくて良いと思います」
お互いのカップと皿が空になるまでバレーの話を少し挟みながら他愛ない話が続き、そろそろ行こうかと先に席を立った及川がそのまま二人分の会計を済ませた。鶫が自分の分を払う為に鞄を開けようとしたが、今日は自分の用事に付き合ってもらうからと鞄を開けようとしていた手を攫うように握った。
「でも及川先輩」
「良いの良いの。それより行きたい所あるから付き合ってよ」
「はい、それは勿論」
「良かった。此処から遠くないから行こうか」
行けば分かるからと行先は教えてもらえなかったが、及川の隣を歩いている途中でふと歩き慣れた道に出たことに鶫は気が付いて顔を上げる。どうして其処に行くのかと不思議そうな顔で及川を見上げると、彼女の言いたいことを察した彼は流石に此処まで来たら分かるよねと口角を緩める。
「鶫ちゃんの予想通り――此処が俺の行きたい所」
北川第一中学校。
鶫と及川だけでなく影山やかつてのチームメイトが通った母校。鶫がほんの数ヶ月前まで通っていたので景観は全く変わっていない。
及川はこっちだよと声をかけてそのまま校門を潜り抜けて敷地内に足を踏み入れ、彼についていく形で鶫もその隣を歩き始める。母校とはいえ許可なく立ち入って良いのかとソワソワしている鶫の様子に、及川は彼女がそう考えることを予想していたのかクスクスと笑った。
「大丈夫。ちゃんと許可貰ってるから」
「そうなんですね」
「勿論。この及川さんに抜かりはありません」
「ふふ。及川先輩らしいです」
「でしょ?」
得意げな笑みを浮かべる及川に釣られて鶫もクスクスと笑い、二人は校舎の間を通り抜けた先にある体育館に辿り着いた。其処は男子バレー部が活動している体育館で、今日は練習がオフなのか人の気配はない。
靴を脱いで体育館に入る及川に続いて鶫も体育館に足を踏み入れると、体育館内は明日の練習の為かバレーボールのネットが張られたままになっていた。
「俺は三年前になるけど、鶫ちゃんは数ヶ月前まで通ってたし懐かしさはあんまりないよね」
「そんなことないです。北川第一のチームメイトも今は飛雄くんだけですし」
それに学生時代のチームメイト全員と一緒に戦えるのは、たった一年だけ。
「年が移り変われば同じ所なんてひとつもありません」
「確かに」
間違いないねと及川は鶫の言葉に同意し、体育館の奥へ歩いていく。
コートのサイドラインを越えて中央付近で足を止めた及川は体育館の天井を見上げ、数年前の出来事を思い返しながらそっと目を細める。
「小学部の練習試合を観戦して鶫ちゃんを初めて見たって話はしたよね」
「はい。岩泉先輩と一緒に、私と飛雄くんを見たと聞いています」
「そうそう、岩ちゃんも一緒。あの時初めて――怖いくらいの寒気が走った」
水や空にいるような滑らかなプレー。
コートの全てを見通す眼。
海で泳ぐ鳥のようで、空を飛ぶ魚のよう。
「“あのこと”があってもバレーを諦めなかったのは凄いと思った。自分の経験と努力を他人の為に使う思い切りのよさ――誰よりも貪欲で狡猾な君はベンチの中でも消えなかった」
「そんなこと。ただ、皆の力になりたかっただけです」
「うん、そうだよね。何時もどんな時も一生懸命だった。才能があっても努力を怠らない一生懸命な鶫ちゃんだからチームメイトも応える為に一生懸命になれるんだよ」
俺も色々と教えてもらった立場だからよく分かると及川は天井を見上げていた顔を戻し、鶫に背中を向けたまま僅かに目を伏せた。
「それでも、変わらないところもあるんだなと思った」
「変わらないところですか?」
「そう」
ちょっと泣き虫で弱虫なところ。
「誰に対しても優しくて温かくて、でも自分に一番厳しくて――絶対に誰かを頼らない」
怖くても悲しくても、独りきりで泣いてる。
「ねえ、鶫ちゃん」
今まで鶫に背を向けていた及川が振り向くと、彼のチョコレートブラウンの瞳はいつもの穏やかさとは少し違う色を滲ませていた。
「聞いてほしい話があるんだ」
「はい、なんでしょうか」
「どうしても此処で聞いて欲しかったんだ」
我が儘、言ってごめんね。
そう言った及川の眼差しは、普段の彼から垣間見える優しさや穏やかさとは少し違っていた。その目に気付いた鶫が不思議そうにまばたきをするより早く、彼の顔からふっと笑顔が消える。
「――好きなんだ、鶫ちゃんのこと」
その表情はコートに立つ時とは違い、ほんの少しの緊張と高揚を孕んだ真剣なそれだった。
「元チームメイトでもない、可愛い後輩だからでもない」
ずっと傍で守ってあげたい、一人の女の子として。
「――私、その」
「全然気付かなかったでしょ」
「……はい」
「だろうね」
君って鈍いからと笑う及川が鶫の傍に歩み寄ると、変な居心地の悪さを覚えた鶫が胸元で両手をきゅっと握り込む。そんな彼女の様子に及川は眉を下げて微笑み、視線を合わせるように腰をゆっくりと折る。
二人の顔の距離はバレーボールひとつ分。今まで幾度となくあった距離感だったが、今はその距離を近いと認識した鶫が思わず息を飲む。
「あ、の……」
「そういう初心なところも好きだよ」
「!」
「あらら、顔が真っ赤」
可愛いねと笑う及川は鶫の左頬を撫で、戸惑いながらもその手を払いのけることはしない彼女にほんの少し口角が上がった。
「ねえ、鶫ちゃん」
「は、はい」
「ダメだよ、そんな顔したら」
「え?」
どういうことですか。そう鶫が聞こうとするより早く、及川が僅かに顔を傾け、唇で彼女の右頬に触れた。
「ほんの少しでも隙があれば、こうして狙いたくなる」
「――お、及川先輩!?」
「返事は何時でも良いよ。あ、それと――この告白で春高に支障を出すのもナシね」
お互いにベストを尽くした状態じゃないと、勝っても気分良くないし。
「それは、勿論です」
「それでよし! あ、そろそろ帰らないと時間だよね」
行こうかと声をかけた及川が差し出した手に鶫は胸の奥がジリジリと焼けるような感覚があったが、何時もより晴れやかな表情をしている彼を見てついその手を取ってしまった。
そのまま真っ直ぐ家の前まで送り届けてもらい、上機嫌そうな及川を見えなくなるまで見送った鶫は緊張を解くように深く息を吐く。身支度をして出発する用意をしなければと門に手をかけた時、向かいの家から影山が姿を見せた。
「よう、いま帰ったのか」
「飛雄くん」
「買い物にしては長かったな」
どこ行ってたんだと続けようとした影山だったが、鶫が普段よりもお洒落をしていることに気が付き、近所に買い物に行く時の恰好じゃないなと首を傾げた。
不意に言葉を止めて首を傾げる影山に鶫は一瞬ドキリとしたものの、彼の様子を見る限りでは及川と一緒に出かけていたことには気づいていないようだった。
「お前、遠くに行ってたのか?」
「ええと、どうして?」
「近所に買い物行くにしては、恰好が何時もと違うだろ」
「……そう?」
「でも、まあ……休みは何時もそんな感じだったか? なんかこう、ふわふわした感じのやつ」
「う、うん。多分そうかな」
妙に勘が良い影山に鶫は少し冷や汗をかいたものの、彼がファッションにあまり頓着しないことが幸いしてそれ以上変に勘繰られることはなかった。
「まあ息抜きも必要だしな。さっきお前が留守にしてる間に俺もちょっと買い物行ってた」
「遠征の準備?」
「まあな」
「……そっか」
何処か落ち着かない様子の鶫に影山は首を傾げ彼女の額に手を当ててみたが、体温は普段と特に変わりはない。熱はねえなと影山は呟くと、具合を確認するように顔を覗き込んだ。
顔を覗き込んでいるのは影山で体調を確認されることも何時ものことだったが、先程まで一緒にいた及川の姿が脳裏に浮かんだ鶫は反射的にぐっと息を飲みこんだ。
「具合が悪いって訳じゃなさそうだな」
「う、うん。大丈夫、だよ」
「それなら良い。準備終わってんなら少し寝ておけよ。家出る前に起こしてやる」
「ありがとう」
影山に背を押されて家に戻った鶫と別れた及川は、帰路の途中にある土手の一角で足を止め空を見上げた。
「長年の片思いっていうのも楽じゃないねー」
言うと決めてから口にするまで随分時間がかかったけど、その時間は無駄じゃない。
直ぐに“ごめんなさい”と言われないだけの望みを得る、大切な時間だった。
「……でも、相当絆されてるなあ」
こんな恋は、生まれて初めてだ。