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昔から物事には敏感な方だった。
人を見れば次にどう動くかほとんど正確に予測出来たし、遠くで鳴った微かな音はおおよそ聞こえた。それは時間が経つごとに少しずつ過敏になってきて、小学校に上がる頃には自分の手足の感覚の微妙な差も分かるようになっていた。
誰も持ちえない“私だけの世界”は良いことばかりではなくて、同時に見たくない物や聞きたくないことまで知ってしまうようになった。正直に言えば他人が怖くなった時期もある。それでも何時も私を支えてくれた二人の幼なじみが何時も私の傍にいてくれて、笑ってくれていたから――私はそれを怖いと思う気持ちが薄れて行った。
そんな中で三年生の時に転校した小学校。其処は東京よりも少しだけ人の声が多くて、私はよく体調を崩して保健室で寝ていることが多かった。あまりにも頻繁だったからクラスメイトが仮病だと疑うことも少なくなかった。
「……」
――でもこの目と耳を無くしたら、私は今のプレースタイルを維持出来ない。
それもよく分かっていた。宮城に引っ越す前、二人の幼なじみとした約束を守る為にはこれを無くしてしまう訳にはいかなかった。むしろもっともっと磨いて自分だけの武器にする必要があった。
「……空泳ぐ魚、海飛ぶ鳥。静淑無比の軍師」
身に余るくらいのもうひとつの名前。これを言い出したのはどこかのバレー雑誌だったか、それともどこかの監督がポツリと呟いた言葉だったか、よく覚えていない。
「……静かに相手を攻略して追い詰める、策略者」
確かに間違っていない。私はコートの全てを静観して相手を攻略しようとしている。でも、もうちょっとだけ可愛げのある異名をつけてくれても良いのにな、なんて思っていた頃もあった。
「友だち、あんまりできないなあ……」
転校してから一週間後、ようやく新しい環境に慣れてきた私はその小学校のバレークラブに足を運んだ。チームメイトは多くもなく少なくもない。一人一人のスキルを見る為に練習をしているチームメイトの様子をコートの端で見ていた時、体育館のドアから一人の男の子が駆け込んできた。
「すみません! ドリル出してておくれました!」
「……え」
それが私が飛雄くんを初めて見た時。まだプレーも見ていないのに、この子は他のチームメイトとは違うことが直観的に分かった。その直感は裏切ることなく、彼はとてもボールを扱うのが上手かった。他の誰よりも上手に綺麗に、そして熱意のあるプレーをする。
「……先生。私、あの子といっしょにバレーがしたい」
その日は見学だけのはずだったけど、駄目元でお願いをしたら先生は直ぐに飛雄くんと会わせてくれた。クラスはひとつ違い、名前も其処で初めて聞いた。そのはずなのに妙に息が合うような不思議な感覚になったのは、今でもよく覚えている。
「誰だ?」
「バレークラブに入る舞雛鶫です」
「ふーん……俺は影山飛雄。お前、ポジションは?」
「ウイングスパイカー。セッターもやれるよ」
「そうか。じゃあ俺のトス打ってくれよ」
後から知ったことだけど、飛雄くんはあの時点で私のことを知っていたらしい。どんな異名を持ってどんなプレーをするのか、そしてどんな武器を持っているのか。でもそれは自分の目で直接見ていないから信じていなかったみたくて、その日一緒にバレーをして私の話が本当だと確認したとか。勉強はあまり得意でないのに、バレーに関しては聡い飛雄くんにちょっとだけ笑ってしまったのは今でも内緒にしている。
それから私と飛雄くんはエーススパイカーとセッターとしてコンビを組んだ。小学部では敵なんていなくて、どんどん上達していくのがとても楽しかった。飛雄くんは私生活でも体調を崩しやすい私を心配して保健室に様子を見に来てくれたり、家が近いと知ってからは一緒に帰るようになった。東京の幼なじみと離れてから私を理解してくれる人が一人出来て、私はとても救われた。
そしてコンビを組んでから最初の公式戦を優勝で終えた帰り道、飛雄くんが寄り道だと言って私を連れて行ったのは通学路の途中にある河原だった。
「鶫はこれからずっとバレー続けるのか?」
「うん。だってすごく楽しいんだもの」
「そうか……」
そして飛雄くんは眉を寄せながら呻って何かを考えた後、話を待っていた私に顔を向けた。
「俺、しょうらいはバレーで大きな体育館に行く!」
「?」
「だから、その……鶫もそこにいっしょに行こう! 俺のトスとお前のスパイクがあればこわい物なしだろ!」
「……飛雄くん」
「な、なんだよ」
「大きくなって……その、中学生くらいになったら、男の子と女の子はいっしょにバレーできないよ。男の子と女の子でべつべつのチームになるの」
「え」
バレーについては聡いと言ったけれど、飛雄くんはそれは知らなかったみたいでかなりショックを受けた顔をしていた。でも嘘を言う訳にもいかなかった私は正直にそう教えたけど、飛雄くんはしばらく黙ってしまった。それが申し訳なく思えて謝ろうとした時、飛雄くんはぐっと両手を握って、それじゃあと声を上げた。
「俺は男のほうでがんばるから、鶫は女のほうでがんばればいいだろ!」
「え」
「大きい体育館にいくのは同じだ! いっしょにたたかえなくても、めざす場所はおんなじ。それでいいだろ」
「う、うーん……良いのかな?」
「いい! そんでどっちが上手くなるか、きょうそうだ!」
そう言ってから直ぐに、競争は中学生になってからなと付け足した飛雄くん。今はまだ一緒に戦っていたいと言ってくれたみたいで、凄く嬉しかった。
「うん!」
「約束だぞ!」
それから数年後、小学校を卒業した私と飛雄くんはバレーの強豪校である北川第一中学校に入学した。当然バレー部に所属してお互いに切磋琢磨していて、それでもお互いに時間を作っては小学校の頃のように飛雄くんのトスで私がスパイクを打つ、私がトスを上げて飛雄くんがそれを打ったりすることもあって、とても楽しかった。
男子バレー部にもよく顔を出していたから及川先輩や岩泉先輩を始めとした先輩方、飛雄くんと同期の皆とも仲良くする機会があった。皆、私のことは知っていたらしい。私の目と耳を知っていながらも優しくしてくれる男子バレー部の人たちの気持ちが、とても有り難かった。及川先輩に誘われて時々練習を見てデータブックを手渡したりもしていて、それが使われていたことがまた嬉しかった。
そしてバレー部に所属してから直ぐ迎えた公式戦。
「スターティングメンバ―、ですか?」
「ああ、舞雛の噂は実力に見合ってる。公式戦ではレフト側のスパイカーとして出すつもりだが、セッターと一緒に司令塔の役割もしてもらう。一年を公式戦に出すのは異例だが、舞雛なら上手くやれるだろう。期待しているぞ」
「はい!」
噂が噂を呼んで大きくなってしまいがちな異名。それに少しだけ不安を覚えていた時に私の練習を間近で見ていた監督とコーチからそう評価された私は凄く嬉しくて、部活が終わってから直ぐに男子バレー部が練習をしている体育館へ足を向けた。
「飛雄くん!」
「うおっ! 何だ鶫か。何かあったのか?」
「私、今度の公式戦でスターティングメンバ―で出してもらえるの!」
「凄げえじゃねえか!」
まるで自分のことのように喜んでくれた飛雄くんにぐしゃぐしゃと撫でられる頭にくすぐったくて笑っていると、それを聞いていた及川先輩と岩泉先輩も喜んでくれた。
「へえー、一年生でスタメンなんて聞いたことないよ。凄いね、鶫ちゃん。俺たちの試合と被ってなければ絶対見に行くから」
「頑張れよ、舞雛」
「はい、ありがとうございます!」
「俺も被ってなければ見に行く。頑張れよ、鶫」
「うん。ありがとう、飛雄くん」
――始まった公式戦。やっぱり先輩との体力差や経験の差はあったけれど、私には他の誰にもない武器があった。
「……見て、聞いて。考えるのよ」
次はどう動く、どんな指示を出してどうセットアップをする。チームメイトの呼吸音さえも聞き逃さない、集中力が切れたらその隙に追い越される。次をその一瞬を、更にその先を見て考えて――相手を追い詰める。
「……やっぱり凄げえな、鶫」
「あららー、相手は完全に乱されちゃってるね。2セット目ももうこっちがマッチポイント近いし早く立て直さないと厳しいかな」
「この分だとそれも出来ねえだろ。一年で一人だけスタメンで入ってるってのに、委縮するどころかガンガン走り回ってる舞雛のお陰だな」
そして県大会で優勝をした女子バレー部は更に東北大会に進んで全国大会への切符を手に入れた。男子バレー部は惜しくも優勝を逃してしまったけれど、それでも及川先輩と岩泉先輩は高校でリベンジすると言っていて、とても頼もしく思えた。
女子バレー部は大きな体育館に行ける。それが意味しているのは――今、私が目指している中で一番大きな体育館に行けるということ。
「――大きな体育館に、行ける」
東京に居る幼なじみ二人との約束、飛雄くんとした約束、そして自分の目標。それに少しでも近付けていることがとても嬉しくて、嬉しくて。じわじわと体の中から嬉しい気持ちが溢れてきて手先がジンジンと熱くなった。
――でも、それを喜べたのもほんの少しの時間だけだった。
暗転、反転。何時もよりはっきりしていた視界と耳に届いた、痛覚。
「っ!」
ガタンと大きな音を立てた鶫がぼんやりする視界で最初に見たのは、DVDの再生が終わったパソコン画面。耳からはサーッと静かな音が流れていて、窓の外はまだ暗いままだった。
「……途中で寝ちゃったのね」
ぼんやりする頭を振った鶫は先程大きな音を立てて落としてしまったDVDケースを拾い上げると、パソコンから取り出したDVDをそれにしまってテーブルの上に置いた。それからパソコンの電源を切るとイヤホンを抜いて片付け、時計を確認する。
「一時半……。ちゃんと寝ないと」
さっき、何か嫌な夢を見た気がする……背中が、妙に寒い。でもその内容はぼんやりとしていてよく覚えていなかった。だけど覚えていない方が正解のような気もして、それ以上夢を思い出すのは止めた。