「……はあ」
こんなに憂鬱な日は久しぶりな気がする。
今までずっと気怠くて別に変わり映えもしない日々だったのに、名前姉ちゃんが帰ってきてから少しだけ浮足立っていた気持ちが、自分のしたことのせいで底に叩きつけられた。
「……怠い」
些細なことで僕のことをこんなにも変えてしまうくせに、僕のことで変わってくれたことはなかった。
「ツッキー!」
「うるさい山口」
「ごめん、ツッキー!」
ただでさえ気怠い授業を終えて部活に出ているなかで、山口のハイテンションな声は頭に余計に響く。何時も通り適当に返事をすれば、何時も通りの言葉が返ってきた。
普段通りの練習が終わったところで自主練に誘われるのかと顔を上げれば、山口は体育館と渡り廊下を繋ぐドアを指し示した。
「ツッキーにお客さんだよ! 前にも来てた人!」
「は?」
虚を突かれて指し示された方へ顔を向ければ、何時もより少しだけぎこちなく微笑む名前姉ちゃんの姿があった。
普段なら周りからの意味ありげな視線を鬱陶しそうに視線で殺すけどそんな余裕もなく急いで腰を上げて名前姉ちゃんに駆け寄れば、名前姉ちゃんは少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「急に来ちゃってごめんね。練習終わった頃かなと思って」
「……それは構わない、けど。何か用?」
「ちょっと蛍ちゃんに会いたくなったの。もう帰る?」
「え。あ……うん。あとはちょっと片付けして帰るけど」
「じゃあ待ってるから、一緒に帰っても良い?」
「う、うん。分かった」
ちょっと待っててと名前姉ちゃんをその場に残して体育館の中に戻ると、田中さんと西谷さんが美女と帰るなんて羨ましいと歯ぎしりをしている。そんな二人を無視して締めの集合の輪に混ざり挨拶を済ませると、何時もより足早に体育館を出た。
部室棟近くの屋根がある場所で待っていてもらった名前姉ちゃんと合流して、少しだけ雨足が強くなった頃に校門を出た。
「……名前姉ちゃん」
「うん?」
昨日“あんなこと”を言ったのに、なんで何時も通りなの?
「……今日はうちに来るの?」
「そのつもり。こっちに来てからほとんどお邪魔してるね」
“そんなこと”聞けるはずもない。
何時も通りに話しているふりをして、心ではそれを聞きたくて堪らない自分がいる。
「別に今更でしょ。……昔からそうだったんだし」
「そうだね」
でもそれ以前に、僕の告白が名前姉ちゃんにとって取るに足らないものだったとしたら――。
「ねえ、蛍ちゃん」
「な、なに?」
「……」
パシャリと水たまりをつま先で弾きながら名前姉ちゃんは歩く足を止めて、一歩だけ先で足を止めた僕をそっと見上げた。
その目は不安げに揺れながらとても悲しそうな色をしていて、今の今までそんな名前姉ちゃんの目を見たことがなかった僕は思わず息が止まった。
「実は私、病気療養でこっちに戻ってきたの」
「……え」
「長期休暇はちょっとだけ嘘なの。黙っていてごめんね」
「え、あ……どういうこと……?」
病気療養。その言葉が名前姉ちゃんの口から出てくるなんて思ってもいなかった。そもそもそんな様子もなかったし、昔から大きな病気なんてしていなかった。
出会い頭に知らない誰かに殴られるよりも大きな衝撃。その衝撃から目を逸らしたかったけど、目の前の名前姉ちゃんは困ったように微笑んでいて、それは現実なんだと改めて実感させられた。
「きっかけは、本当に単純なことだよ」
勤め先で上司のセクハラにあって、慣れない仕事をしながら数年くらい耐えていたら、体を壊すより先に精神がやられちゃっただけ。
「仕事は楽しかったけど、ドクターストップで辞めないといけなくなっちゃったの」
「名前姉ちゃん……」
「それから仕事を辞めて実家に帰って――蛍ちゃんと明光の顔が思い浮かんだの」
もう夜だったのに、どうしても会いに行きたかった。どうしても顔が見たくなった。我が儘を言えるなら少しだけ声が聞きたかった。
「どっちに先に会えるかななんてぼんやり考えていたら、昔とはびっくりするくらい変わった蛍ちゃんと会ったの」
「!」
“前に見た時よりも随分身長伸びたね。ちょっとびっくりしちゃった”
「……ほんと、びっくりするくらい格好良くなってた」
「名前姉ちゃん」
「それから蛍ちゃんと明光と過ごすうちに、ずっと重かった心が軽くなった気がした。狡くて臆病で、話しても解決にならないことを話そうと思えたのも……二人のおかげ」
見失っていた、何処にでもありふれている大切なことを思い出させてくれたから。
そう言いながら穏やかに微笑む名前姉ちゃんの顔は吹っ切れたように明るくて、その顔色に釣られるように雨空に晴れ間が少しだけ差し込んできた。
「……お見合いは、断るつもり」
「!」
親戚の人には悪いけどねと眉を下げて微笑む名前姉ちゃんだけど、僕にとっては悪いどころか都合の良い話だ。何処の誰かも分からない男に、名前姉ちゃんを渡さずに済む。
「蛍ちゃんが昨日話してくれたこと、ちゃんと考えてみるから」
答えが出せるまで待ってて。
雨に負けて跳ねる僕の髪と違ってさらさらと流れる名前姉ちゃんの黒髪は何時の間にか暗い雲の間から差し込んできた夕焼けに照らされていて、僕の目を惹いて離さなかった。
/xxxendive/novel/11/?index=1