「……ただいま」
「おっ、おかえり――ってなんでそんなにずぶ濡れなんだよ!? 名前お前も!?」
「え、えへへ……」
偶々玄関の前を通りかかった兄ちゃんがびっくりしたように目を丸くしていたけど、その気持ちは分からなくもない。
傘を持っているにも関わらず頭から水を被ったようにびしょぬれになっていれば不思議にもなるだろうし、それもしっかり者の名前姉ちゃんが一緒となれば余計にそう思っても仕方ない。
「ああもう、ずぶ濡れじゃないか……。取り敢えずタオルで拭く! 急いで風呂沸かすからそれまで待ってろ!」
「あの、明光、私は――」
「名前のおじさんとおばさんさっき出かけた! だからお前も風呂入ってけ!」
「……はーい」
家に帰るからと言いかけた名前姉ちゃんの言いたいことなんて兄ちゃんはお見通しで、僕と名前姉ちゃんは玄関で投げ渡されたタオルで雨で濡れた体を拭き始めた。
毛先と服の裾からパタリパタリと一定間隔で雫が滴る程度には濡れた体は、大きいタオル程度じゃ拭い切れない。……自業自得とはいえ、ちょっと後悔しそうになる。雨で濡れた髪が鬱陶しくてかき上げながら名前姉ちゃんを見下ろせば、名前姉ちゃんは僕を見上げてポカンと口を開けていた。
「……?」
「……」
「……名前姉ちゃん?」
「!!」
じっと目が合ったまま何も言わない名前姉ちゃんが心配になって声をかければ、名前姉ちゃんははっと我に返ったように目を丸くして、持っていたタオルに顔を半分隠してしまった。……何か不味いことしたかな。心当たりは帰り際の“アレ”しかない、けど……。今のは違うような気も――。
「蛍、名前! 風呂!」
「兄ちゃん」
「名前から入れ。風邪引くぞ」
「え、でも」
「僕は後で良いから」
「蛍ちゃん」
「風邪引くよ」
ほらと背中を押せば名前姉ちゃんは勝手知った家の廊下の奥にある風呂場に姿を消して、僕はタオルで頭を適当に拭きながら名前姉ちゃんが風呂から出るのをリビングで待つことにした。
リビングにはさっき風呂を入れて戻ってきたばかりの兄ちゃんの姿があって、台所でお湯を沸かしているのが見えた。多分外から戻ってきた僕と名前姉ちゃんの為にお茶を淹れるつもりらしい。
「なあ蛍、なんであんなに濡れて帰って来たんだ? 二人共、傘持ってただろ?」
「別に」
「別にってなあ」
「別に何でもないよ」
知られたら知られたで面倒なことになるだろうし――なんて、間違っても口に出すことはしない。迂闊なことをするのは、名前姉ちゃんの前だけで十分だ。
「……」
タオルを持つ手が、今でも名前姉ちゃんの体温をしっかり覚えてる。
思わず抱き締めた腕を解いて道端に転がった傘を拾った僕が名前姉ちゃんの方に顔を向ければ、名前姉ちゃんは今まで見たことがないくらいに顔を真っ赤にしていたことも、目に焼き付いてる。
あの赤かった顔の意味は、何なんだろう。
「蛍」
「何?」
「俺、部屋でやることあるから上にいるけど何かあれば呼べよ。湯は沸かしたから適当にあったかい物飲めるし、夕飯は冷蔵庫。名前の分もあるからレンチンして」
「分かった」
兄ちゃんはそれだけ言ってリビングを出て行って、階段を使って二階に上がっていく音が遠くから聞こえてくる。それとすれ違うようにリビングのドアが開いて僕がそっちに顔を向ければ、ほこほこと湯気を立てながら風呂から上がった名前姉ちゃんが立っていた。
さっきまで濡れていた服は兄ちゃんのTシャツとハーフパンツに変わっていたことに少し眉が寄ったけど、それは僕の問題であって名前姉ちゃんは悪くない。……でも少しだけイライラする。言わないけど。
「ごめんね、蛍ちゃん。先にお風呂もらっちゃって」
「別に良いよ。今から僕も入るし」
「うん、いってらっしゃい」
リビングですれ違った名前姉ちゃんからは、僕と同じシャンプーの匂いがした。
「……はあ」
何でこんな些細なことで頭を悩ませなきゃいけないんだ。
たかが“格好良い”と言われただけで、たかが“同じシャンプーの匂い”がしただけで――僕の心の奥がじりじりと焼けるように熱くなる、頭がぼんやりして思考が上手くまとまらなくなる。それもこれも全部、名前姉ちゃんのせいだ。そうだ、全部名前姉ちゃんが悪い。
「……ガキっぽい」
子どもっぽいよりももっと酷い言いぐさだ。
でもこれくらい吐き出さないと、冷静でいられない。何時もの僕でいられない。
「らしくない」
その人をその人らしくなくさせるのが恋だというなら、これは相当厄介だ。
渋い顔をお湯で洗い流して風呂から上がってリビングに行けば、名前姉ちゃんがちょうどマグカップをふたつ並べているところだった。名前姉ちゃんは僕に気が付くとぱっと顔を上げて、それから何かに気付いたようにこっちにパタパタと駆け寄ってきた。
「蛍ちゃん!」
「な、何?」
「また頭ちゃんと乾かしてない! もう、風邪引いちゃうでしょ」
「ああ……」
そういえば適当に拭いて出てきたけどぼんやり考えている間に、首にかけていたタオルを名前姉ちゃんに取られた。早く座ってと促されるまま縁側に座って大人しく頭を拭かれていたけど、名前姉ちゃんはさっきまでのことを何とも思っていないように普通に接してくる。こっちが妙に気になる程度には何時も通りだった。
……もしかして、僕に抱き締められても大したことじゃない?
「……いや、流石にそれはないでしょ」
「蛍ちゃん?」
「何でもない。独り言」
「そう? はい、これで良し。ちゃんと拭かないと駄目だよ」
「……ごめん」
やっぱりどうとも思われていない気がする。そんな気がしてならない。
それはそれで不服だし気に食わないと名前姉ちゃんにひと言でもふた言でも何か言おうとした時、名前姉ちゃんが持っていたタオルを僕の胸に押し付けてきた。どうしたの――なんて聞く前に、名前姉ちゃんの頬が少しだけ、ほんの少しだけ赤くなっていることに気が付いてしまって言葉が喉の奥で詰まった。
「……蛍ちゃん」
「……何?」
「あんまり、ドキドキさせるようなことはしないで」
「は?」
喉の奥で詰まっていた言葉は、予想外の言葉によって疑問符になって飛び出した。
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